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第一章

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 静寂の花園の中、イアンはふっと引き寄せられるように、とあるプランターが目に入る。

 「あ……」
 「どうした?」
 「あれって紺瑠璃花?」
 「ああ、そうだ。よく知ってるな」

 日没のあとにあらわれる、紺青の空に星を散りばめたような花弁が、一列奥のプランターに咲いている。

 イアンは引力に引かれるまま、プランターの下をくぐって彼女たちの前へ立った。

 「おい、イアン! 勝手に行くな!」 

 後から来たロイの静止は聞こえず、熱に浮かされたように、イアンは彼女たちを見る。

 「俺この花好きなんだ……」

 うっとりと言うイアンに、ロイも紺瑠璃花に目を向ける。

 イアンが好きなのは、正しく言えば庭の日陰に咲いていた紺瑠璃花だ。けれど研究所のプランターに咲く紺瑠璃花も、彼女には変わりない。ロイがたくさん紹介してくれた魔花の中でも、ことさら綺麗に映った。

 「ねぇ、日陰に咲く紺瑠璃花ってかわいそうかな……」
 つい、心に唱えている言葉が口から出てしまった。

 どうせ何言ってるんだと流されるかと思っていたのに、ロイは意外にも真剣に考えている。考え事をするときの癖なのだろう。顎に手をやり、何かぶつぶつ呟いていた。

 イアンはただの独り言に時間を取らせるのも申し訳なくて、なんでもないよと言おうとしたとき——

 「……俺はかわいそうじゃないと思う」

 ロイは答えを出した。

 「え?」

 「紺瑠璃花は夜咲くんだ。日の光は強すぎて、葉が焼けてしまうから。満月の光ぐらいがちょうどいい。どんな日陰かわからないが、ここみたいな日陰なら適した環境と言えるだろう」

 ロイに言われて初めて、イアンは紺瑠璃花のプランターが、大きな柱の陰になっていることに気づく。

 「じゃ、じゃあ、彼女たちにとって日陰ははいい環境ってこと……?」
 「そう言えるな」

 イアンは愕然とした。
 自分が悪い環境と思い込んでいた日陰は、彼女には居心地の良い場所だったなんて。己の逆境と重ねて、励ましていたのが馬鹿らしい。家族と縁を切るよりも、ロイに言われた事実の方が、心に刺さった。

 「どうした? そんなに驚くか」
 「あ、いや、別に……」

 裏切られた。それは違う。違うけれど、頭が真っ白になった。

 「どちらにせよ、日陰に咲く紺瑠璃花をかわいそうと思うのは、知識の無い馬鹿が決めつけたことだ」
 「はは、そうだよね……」

 ロイの言葉に、イアンは追い打ちをかけられる。

 同じ抗えない悲運を背負っていると思っていたのは、馬鹿な自分の決めつけだった。最初から生きている世界が異なるなんて、今まで何を見ていたんだろう。

 「しかし、紺瑠璃花か……お前が好きになるのもわかるな」
 「なんでわかるの……?」

 自分じゃもう何で好きかわからないのに、ロイにわかるわけがない。イアンは怒りとも悲しみともつかない、複雑に入り混じった感情が煙のように立ち込めた。

 「……お前に似てるから」

 「似てるから?」

 同じことを、自分もさっきまで思っていた。でもそれを違うと言ったのは、ロイじゃないか。
 イアンはぎりっとロイを睨みそうになる。すんでんのところで堪えたのは、ただの八つ当たりだとわかっているから。
 ロイはイアンの激情に気づくはずもなく、ほろりと感想を漏らす。

 「そう。お前の瞳に……よく似てる」
 「……え?」

 予想もしなかった言葉に、イアンの心を曇らせていた煙がぴたっとやんだ。

 「ラピスラズリみたいな……深い青。いつ見ても、吸い込まれそうになる」

 イアンは考えたことも無かった。自分の瞳が彼女たちと似ているだなんて。
 改めて、プランターに咲く紺瑠璃花を見つめる。すっと澄み渡る美しい紺青が、視界に映り込んだ。

 「それに紺瑠璃花はすり潰して水に混ぜると、毒を消す効果がある。悪いものを吸い取ってくれるんだ。そういうところもお前に似てる」

 「悪いものを……吸い取る?」

 「いつも俺を悪いやつから守ってくれるだろう?」

 ロイの笑みに、イアンは深青の瞳を見開く。
 こんな体になっても、彼は自分が騎士として守ってくれると信じて疑わない。
 その事実が、ひどく胸を苦しくさせる。

 「違うのか?」
 「いや……う、ううん。あってるよ」

 イアンは込み上げる何かを抑えるために、上の空で返事をする。
 ロイはその様子に何を思ったのか、さらに言葉を重ねた。

 「でも、似てるのは瞳と特別な力だけだ」

 さぁとイアンの頬に風があたる。温室に吹くはずもない空気に流されるがまま、イアンはロイの方を向いた。

 「紺瑠璃花はただの魔花だが……お前は人間。自由に動かせる手足がある」

 ロイは息をするかのように自然な動作で、イアンの右手をとる。

 「剣も握れるし、走ることもできる。なのに騎士を諦めるのか?」

 悔しがる声が、紺瑠璃花と重なっていたイアンを引き剥がす。

 自分は植物じゃない。手足のある人間だなんて当たり前だ。
 なのにどうしてか、イアンは心がどきりっとした。

 「イアンには素晴らしい身体能力がある。この手はまだ……動くだろう?」

 憂いを帯びた瞳が、イアンの華奢な右手に近づく。
 瞬きのできごと。

 ロイの形のいい唇が、手の甲に触れる。
 暖かくなれば花が咲くように、今日この場所でキスをすることが決まっていたかのような違和感なき所作。

 イアンはただ、見つめることしかできなかった。

 「……あ」

 ロイは自分のやったことに気づくと、顔を真っ赤にさせて、イアンの手を放り投げる。
 イアンは粗雑に扱われた右手の甲を、呆然と眺めた。裏返すと、剣だこのない柔らかな皮膚があらわれる。

 ——最後に剣を握ったのはいつだろう

 思い出せないくらい、昔のことだった。

 「べ、べつに、俺はこんなことをするつもりはなくて!!」
 「まだ動くのかな」
 「え?」

 日に日に落ちていく筋力に、剣を握るのは無理だと諦めた。オメガの体に期待してはいけない。早く別の道を探さなきゃって。

 でも、右手はまだついている。魔花みたく、無くなったわけじゃない。

 「……お前は馬鹿だ」
 「え? は?」

 ロイの急な罵倒に、イアンは戸惑う。

 「だから頭で色々考えるより、試しに動かしてみたらいい」

 試しに、動かしてみる——
 色々と思い悩むより、体を動かした方がすぐにわかる。それは、ロイの言う通りだと思った。

 「うん、そうだね……試しに動かしてみようかな」
 「ああ、それがいい」

 ロイはしたり顔をして言う。そこにはもう、手の甲に唇を寄せたときの大人びた表情はどこにも無く、いつものロイに戻っている。

 あのとき見せた容姿に、一瞬心がざらっとしたのは……何だったのだろう。

 イアンはなんとなく。見てはいけないものを、見てしまった気がした。

 「でもロイがこんなことするなんて……これじゃあどっちが騎士かわからないね」
 「いや、別に、ことをするつもりはなくてだな!」 

 漂う違和感を隅に追いやり、イアンはロイをからかう。主君が慌てる様子を笑いながら、イアンは心の中で紺瑠璃花が変わっていくのを感じた。

 日陰に咲く彼女は、変わらず空に向かって凛々しく咲いている。その姿に憧れる気持ちも、消えてはいない。けれど自分と重ねようとすると、前ほどぴったりには合わさらなかった。
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