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本編
32.お互いさま
しおりを挟む「久々に会えて嬉しいわ」
ふわふわした空気を纏って、母さんは笑顔を浮かべながらそう言った。
ソファに座り、膝にブランケットを掛け、淡い色のカーディガンを羽織っている母さん。冷え性は相変わらずか、とぼんやり思う。もう夏も近い…というかほぼ夏なのに。
両隣から緊張したような気配を絶え間なく感じて、とにかく紹介だけ済ませるかと判断。にこにこしている母さんの様子をそっと窺い、機嫌やら気分やらを読んでみる。
「………」
見る限り今日は安定しているようで安心した。ほっと息を吐いて「あのさ」と口火を切る。
さっきの話でちょっと怖くなってるから、まずは神楽を紹介しようかな。
「この人、俺の友達の神楽。最近仲良くなったんだ」
「まぁ!雲雀のお友だち?美人さんねぇ」
「や、谷上神楽です、どうも…」
ぱぁっと表情を輝かせた母さんが嬉しそうに神楽を見つめた。よかった、反応は良さそうだ。特に拒絶するような発言もない。
ていうか神楽の苗字、谷上っていうんだ。結構仲も深まったし一緒に過ごしてたのに、俺ってば神楽の苗字知らなかったんだな。
なんてことを考えていると、きらきらした視線を今度は湊さんに向けた母さんが問いかけてきた。
「そちらの素敵な男性も、雲雀のお友だちなのかしら」
穢れのない無垢な瞳。ともすれば、俗世を知らない少女のような。
何度も見てきたその瞳に、一気に嫌な予感が駆け巡った。母さんがこの瞳をするとき、大抵良くないことが起こるからだ。
「…いや、友達じゃない。恋人だよ」
静かに告げると、母さんの満面の笑みがピタッと固まった。ふわふわ揺れていた髪も完全に動きを止めて、まるで時が止まったかのように。
ついさっきまで柔らかかった空気が、少し凍てついたものになったことに二人も気付いたのだろう。
神楽は居心地悪そうに座り直して、湊さんは笑みを保っているものの表情に硬さが残っている。緊張しているのが痛いほど伝わったから、彼が膝の上で握っていた手にそっと自分のそれを重ねた。
このまま母さんの反応を待つのは危険な気がする。何か、絶対に良くないことを言われるような予感があったから。
さり気ない説明の為にも、今日来た目的でもある義父のことを話すことにした。
「父さんのことがあったでしょ?俺、それで結構ヤバかった時期があってさ。その時に助けてくれたのが湊さんなんだ。今日湊さんを連れてきたのは、それを伝えたかったって理由もある。本題は父さんのこととか、これからのことを話したくて」
「…これからのこと?」
「うん。父さんとは離婚、するんだよね?そしたら、母さんはこれから…」
「離婚?どうして?」
笑顔で聞いてくる母さんに、思わず「…え?」と固まってしまった。顔は相変わらず無表情だけど、これでも結構驚いている。
湊さんの手に重ねていたそれは、気付けば彼にギュッと繋ぎ直されていた。チラリと見上げると、湊さんはふわりと柔い笑みを浮かべて黙り込んでいる。
母さんに視線を移すと、そこにあるのはやっぱり穢れを知らない無垢の瞳。少女のように微笑んだ母さんは、軽快な口調で言った。
「あの人は家族なのよ?どうして離婚だなんて酷いことを言うの」
「は…?家族って…!」
思わずと言ったように反応した神楽。直前で制止して首を横に振る。
何やら納得していない顔だったが、止められたことで少し冷静に戻ったのか、神楽は不満そうに眉を寄せながらもソファに座り直した。
「…家族というのは、誰の家族ですか?」
隣から聞こえてきた声にぎょっとする。隣というのは神楽じゃなくて、反対の方に座る彼だ。
「湊さん…?」
ついさっきまで浮かんでいた柔い笑みが消えている。怪訝そうな表情は暗くて、明るく近寄りやすい雰囲気はどこにも無い。
ずっと穏やかな空気を纏っていた湊さんが、突然大きく雰囲気を変えたことに驚いたのか、母さんは目を丸くして瞬いた。
けれどそれもすぐに慣れたのか、にこっと笑って軽く答える。
「もちろん、私と雲雀の家族よ」
「…失礼ですが、あなたの旦那様は雲雀に…自分の息子に虐待を働いていましたよね」
「えぇそうね…?けどそれは今関係ないでしょう?」
目をぱちくりさせながら、母さんはなんでもない事のように答える。心底理解出来ないと言うような声が、何処か他人事のように聞こえた。
視界の端で、わなわな震える神楽が「関係ない…?」と怒りの滲んだ声で呟いたのが見えた。それをさり気なく抑えて、大丈夫だからと微笑む。
安心させるつもりだったのだが、その笑みは余計に神楽の怒りを助長させてしまったらしい。ピキッと額に浮かんだ青筋は、怒った時の湊さんと丸っきり同じだった。
「知らないんすか、雲雀があの男にされてたこと…!分かってないからそんなこと言えるんすよね…っ!?」
「あの人にされてたこと?全て聞いているわ、とても痛いことをされていたのよね。可哀想に…」
神楽が怒りに叫んでも、母さんは顔色ひとつ変えない。当然だと言わんばかりに頷いて、慈悲深い表情を浮かべるだけだ。
呆然と黙り込む俺に視線を向けると、母さんはハッとしたように目を丸くする。俺と湊さんを交互に見て、哀れなものをみるかのように眉を下げた。
「雲雀…あなたは勘違いをしているのね。父親とそういう行為をすること自体汚らわしいのに、そのことで男の人が好きなのだと勘違いして…だから同性の恋人だなんて変なことを言っているんだわ」
「……なに、言って…」
掠れた声しか出なかった。最早何と言えばいいのかすら分からず、湊さんに繋がれた手を小刻みに震わせることしか出来ない。
あぁ本当に、俺は"人間らしく"なってしまったのだなと痛感した。これまでなら、母さんのこういう発言は何も思わず淡々と聞いていられたのに。
今となってはこんなセリフにも動揺して、無様に震えて。ただの人形とは言えない今、俺は苦しみも悲しみも平等に感じてしまうのだ。
俺は今、母さんの言葉に傷付いてしまっている。
「雲雀は昔から、男の人を誘う困った子だったものね。実の父親を誘惑して、今度は二人目の父親まで…。私のことが嫌いなの?だからって家族とそういうことをするなんて、汚らわしい行いだと思うわ」
両隣から聞こえていた声が完全に消えた。
二人が今どんな顔をしているのかとか、どんなことを思っているのかとか、そんなことは考えていられなかった。
母さんの解釈はどこまでも、表面からだけで読み取ったものに過ぎなかった。たぶん考え方が違うんだろう、根本的に。
そこに関わる人間の心情は考えもしない。母さんからすれば、起こったその出来事だけが全て。以前の父が俺に手を出して、義父も俺に手を出した。その事実だけが全てなのだ。
だから母さんには理解出来ない。俺がなぜ動揺しているのか。
「俺は…俺がそれを望んだことなんて、一度もないよ」
きょとんと首を傾げる母さん。
きっと分かってくれないだろうなと悟りながらも、それでも言葉を止める気にはなれない。
「本当は嫌だった…何とも思ってないように見えたでしょ?嫌だったんだよ、ほんと…死にたいくらい。たぶん母さんにはよくわからないと思うんだけど、でも俺の考えを…否定しないでほしいな」
分からなくていいから、否定だけはしないでほしい。何も理解しようとなんてしなくていいから、俺の気持ちにも想いにも、口を出さないで欲しい。
相手の立場になって考えれば分かるって、正義感溢れるどこかの誰かが言っていた。
その通りだ、その立場になって考えれば、多少は理解出来る。でもほんと、多少だけ。俺も母さんの立場になって考えると、本当に少しだけは理解出来るのだ。
自分の夫を実の息子に奪われる屈辱、悲痛。それも二回も。二人目の夫には追いやられるように別荘へ移されて、肝心の夫は息子と仲良く暮らしているという状況。
母さんも苦しいだろうな。これくらいしか思えない。つまり、そういうことだ。
相手の立場になって考えたって、この程度しか分からないのだ。この程度しか、分かった気になれないのだ。
それを知っているから、俺には幼い頃から諦め癖がついていた。どうせお互い理解し合えないなら、初めから諦めた方がいい。
母さんに、抱えていた苦しみを一度も伝えなかったのは、それが原因だ。
「…ねぇ母さん。今まで、本当にごめんね」
ぽつり。静寂の広がる室内に小さく響いた声。
母さんの無垢な笑顔が、その言葉を聞いた途端さっと消えた。
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