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本編
22.ずっと此処に
しおりを挟む「…記憶が」
ハル様にしては珍しい表情だった。
大きく見開いた瞳と硬直した体。途中で掻き消えた言葉の先を察して頷くと、その表情はやがていつもの冷静なものに戻った。
返ってきたのは喜びの混じったものでも、切実なものでもなく。ただ淡々とした「そうか」という答えだけだった。
「記憶…戻ったの、嬉しくない…?」
あまりの反応の薄さに思わず問い掛ける。
お父様もお兄様もあんなに切実な…シュネーが戻って来た喜びを噛み締めるような反応をしていたのに、ハル様は全く違った。
言いようのない不安に苛まれて眉を下げると、ハル様はぱちぱちと瞬いて首を傾げる。僕の目の前に膝をつくと、ふいに羽織っていたペリースを僕の肩に掛けた。
夜風に冷えた体に温もりが加わる。長さの余る布をきゅっと掻き抱くと、まるでハル様に抱き締められているかのような心地に目を細めた。
「嬉しいか、というのは良く分からない。俺のことを思い出してくれたのは…良かったと思う」
「で、でもっ!シュネーが戻って来たんだよ…!?嬉しくないの!?」
ハル様の静かな呟きにハッとして口を挟む。
傍から聞けばすごく自意識過剰な言葉だろうな、なんて自分で発したことに内心苦笑した。
意思なく無意識に飛び出した今の言葉は、たぶんロクの衝動なんだと思う。でも発しているのはシュネーだから、少しややこしい。
案の定ハル様は目を丸くして固まる。数秒後動き出したかと思うと、宥めるように抱き締められた。
ビクッと肩を揺らした僕の頭をぽんぽん撫でて、ハル様がひとつ息を吐く。
「シュネーは…ずっとここに居ただろう」
「…っ…え」
今度は僕が目を見開いて、呆然と瞬いてしまった。
薔薇を持ったまま立ち尽くす僕を抱え上げると、ハル様は抱き締める力を強めて小さく微笑む。
「ほら、ここに居る」
微かなそれは静寂の空間によく響いた。
至近距離にある赤い瞳に意識を奪われて、そこに映る碧色に一粒の雫が滲んだことで我に返る。
それは一筋の曲線を描くように伝い、同時に頬に冷たい感触を与えた。
「…なん、で…」
震えの混じる声に目を細めたハル様は、僕の頬に伝うそれにそっと唇を寄せた。
柔いそれは離れる寸前に軽く吸い付いて、わざとらしい口付けの音が辺りに零れた。
「なんで…いつも僕の…」
どうして、いつも僕の望む言葉ばかりくれるのか。
途切れ途切れで紡いだ言葉に、ハル様は僅かに首を傾げるだけだった。やがて伝う涙が二つ三つと増えるごとに、彼の瞳の動揺と焦燥も増していく。
「…泣くな」
「…っ……」
「だめだ…泣かないでくれ…」
地面に落ちていく雫を掬って、勿体ないと言わんばかりに僕の片頬に大きな手を被せるハル様。
それでも尚止まない涙にハル様はおろおろと狼狽える。見慣れないそれが何だかおかしくて笑ってしまった。
ようやく零れる雫が無くなると、赤い瞳は安堵を滲ませて穏やかな弧を描く。大きな手も濡れた頬を拭うようにして離れた。
消え入りそうな声で紡がれた「…よかった、笑った」という言葉に胸が熱くなる。
ハル様は昔から僕が泣くのを極端に恐れていたけれど、それは今も変わらずのようだ。何でも、僕の泣き顔を見ると苦しくなるらしい。
逆に僕の笑った顔を見ると無表情を和らげるところも、昔と何も変わっていなかった。
「…あのね、ハル様」
ほっとした表情のハル様をそっと呼ぶ。
すると直ぐに優しい視線と相槌が返ってきて、荒れた心は波のように凪いだ。焦りも不安も消えて、もう大丈夫だと根拠のない自信さえ湧いてくる。
でも本当に、ハル様なら大丈夫なのだ。
「僕…僕ね、十年ずっと…奴隷だったんだ。一番愛着があるのは、ロクって名前。シュネーじゃなくて…ロクだった」
「……」
「ロクとして生きてきたんだ…でも今はシュネーでもある。だから、だから…その…」
「…そうか」
言葉が纏まらない。言いたいことは分かっているのに、思考に語彙がついてこない。
もどかしく思っていると、ふいにハル様が僕の中途半端な言葉を遮って頷いた。全てを見透かすように微笑んで、何もかも受け止めるように。
抱えていた僕を地面に下ろすと、僕の手から金色の薔薇を抜き取って跪く。まるで騎士が誓いを立てるような仕草と共に、壮美な空気が辺りを支配した。
「ロク、生きていてくれてありがとう。この手で救えなかったこと…今でも後悔している」
「っ…!」
ハル様の語るロクの名は、今まで呼ばれた何よりも重く響いて聞こえた。
たぶん、シュネーと乖離していないからだ。ハル様はあくまでシュネーとロクを同じ存在として認識している。だから、こんなにも重い。
彼が言っているのが十年前のあの日のことなのか、それともこの十年間のことなのか。分からないからこそ、酷く重かった。
「君を想わない日は無かった。漸く再会出来た日は、涙が止まないくらい嬉しかった」
…嘘吐き。ハル様が泣くところなんて見たことがない。想像も出来ない。
でも…僕が関わると途端に想像出来ないことをするのが、いつものハル様であることも知っている。
だから、きっと彼は本当に泣いてくれたんだろう。シュネーの記憶がないロクを想って。記憶がないことを知って尚。
ロクでもいいのか、なんて。そんな面倒な問いにも、ハル様は真剣に頷くのだ。
冗談が通じず何でも真面目に受け取るハル様だから、どんな答えも真実であると信じられる。
「境遇も身分も、記憶も名も関係無い。俺にとっては…君が君で在るという事実が全てだ」
差し出された薔薇を受け取る。この流れも今日で二度目だ。
金色が揺れて、花びらが一枚風で舞って。たぶんその時、僕達だけの誓いが静かに結ばれたのだろう。
「今の君に、もう一度誓いたい」
「いまの…僕?」
「あぁ。十年で随分成長しただろう」
変化ではなく成長と呼んでくれるのか。そんな些細なことにも胸が高鳴ってしまう。
微かに染まった頬で頷くと、ハル様は蕩けるような笑みを浮かべた。何も言わなくたって、何も誓わなくたって答えは分かっているはずなのに、彼は何処までも僕の意思を優先させるのだ。
「君と永久を共にしたい。俺と結婚…してくれないだろうか」
生涯じゃなくて永久なんだ、とか。散々歯の浮くセリフを紡いだのに、結婚という言葉には照れるのか、とか。思うことは案外たくさん。
怜悧な表情が赤く染まる姿にくすくすと笑いが零れる。ハル様も眉を下げて笑った。
「……うん」
ふにゃりと頬が緩む。気の抜けた表情だろうなとは思ったけれど、抑えきれないのだから仕方ない。
薔薇を持ったまま、両腕をハル様の背中に回す。地面にはらりと落ちそうになったペリースごと、ハル様がギュッと抱き締め返してくれた。
膝をついているハル様を前にしても、僕はどうやら平均より小さい方なのか背が並んでしまう。ちょうど目の前にある首元に顔を埋めると、艶やかな黒髪が頬を擽った。
「…うん。結婚、したい」
「っ…!!」
息を吞む気配に上を向く。硬直した体と真っ赤な顔にきょとんと瞬くと、ハル様は小声で破壊力がなんとかとボソボソ呟き出した。
ハル様が何やら苦しそうに呻いていたから、強く抱き締めすぎただろうかと思い体を離す。名残惜しそうな表情が少し不思議だった。
一歩後ろに下がったと同時に、邸の方から忙しない足音と騒ぎの声が聞こえてきてハッとした。
「ハル様っ!はやく隠れ…――」
「シュネー!?そこに居るの…!?」
慌ててハル様に声をかけたが遅かった。
焦燥を含む息切れした声が聞こえたかと思うと、草木を掻き分ける音と共に人影が現れる。
整備された道から逸れた場所から現れたその人は、僕の姿を視認するなり泣きそうな顔で抱き着いて来た。
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