奴隷上がりの公爵家次男は今日も溺愛に気付かない

上総啓

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本編

20.たったそれだけ(兄side)

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『おいッ…!ロク!!』


 相手が少年とはいえ、シュネーが男と二人きりになっている状況。考えるほど落ち着かず部屋へ訪れてみると、ちょうど閉ざされた扉の向こうから緊迫した声が聞こえてきた。
 ロク…シュネーが奴隷として生きていた時に名乗っていた名だ。


『っ…!?シュネー!?』


 シュネーに何かあったのか。あの少年に何かされたのか。
 瞬間焦りと怒りが湧き上がり、ノックも忘れて部屋に駆け込んだ。

 初めに見えたのはソファに乗り上げるローデ家の令息。横顔からは焦燥と不安が窺えた。
 嫌な予感を抱えながら近付くと、令息の影で見えなかったその光景が明らかになる。ソファの座面に苦し気に蹲っていたのは、つい先程まで嬉しそうに令息と自室へ向かったはずのシュネーだった。


『なっ…!シュネーに何をした!?』

『はぁ!?何もしてないですよ!!どっちかっつーと原因はあんた達だ!!』


 密室に加えてシュネーと共に居たのはシリル令息だけ。直ぐにシュネーを守るように抱き込むと、令息から距離を取って叫ぶように問い掛けた。

 すると返って来たのは理解出来ない答えだけ。シュネーが苦しんでいる原因を私だと言って、令息は心配するような表情を怒り顔に変えた。
 訳が分からず『何を…?』と立ち尽くすと、令息は更に畳み掛けるようにして叫ぶ。


『あんたらロクに何も話してなかったんだろ!?そのせいでロクは今パンクしてんだよ!』

『は…』


 更に理解が追い付かない。
 息切れした令息の呼吸音だけが室内に響き、私は呆然と立ち尽くすのみで一歩も動くことが出来ない。
 見下ろすと腕の中には静かに寝息を立てるシュネーがすっぽりと収まっていて、その姿を見ると少し冷静さを取り戻すことが出来た。

 沈黙が続いたのは数秒だったか、それとも数分経っていたのか。
 不意に、令息が私を睨み付けて顔を歪めたことで我に返った。


『なんで…っ!』


 シュネーへの視線には大切な家族へ向けるような穏やかな色を宿していたのに、今の令息の瞳には怒りと苛立ちしかない。
 まるで飼い主が見ていないことを良いことに敵に牙を剥く番犬のようだ。なんて、少年相手にはとても似合わないはずの印象を抱いてしまった。


『なんであんたはそんな目が出来んのにっ…ロクは全然幸せそうじゃねぇんだよ…!!』

『っ…!!』


 息を吞む。令息の言葉が鋭利な刃のように胸に突き刺さった。


『それは…どういう…』


 掠れた声が零れる。令息の言葉の意味は理解出来るのに、何かがズレているような気がしてならなかった。
 彼と私の理解の認識には齟齬があるような、そんな曖昧な予感。

 確かに今のロクが幸せそうかと問われれば頷くことは出来ない。ロクはどこかで私や父上を恐れているような気がする。
 だがそれは信頼の有無が原因のはずだ。十年前の記憶が無いシュネーにとっては、家族と言われても私達は他人同然だろう。奴隷として生きてきたシュネーにとって、まだ私達のことを信用出来ないのは仕方のないことだ。

 令息の言葉の意味もきっとそういうことだろうと、そう思ってもどこか腑に落ちない。
 何かが違う気がする。彼の苛立ちの滲んだ瞳には、もっと前提の何かに対する怒りが含まれているような気がするのだ。


『…ロクがあなた達のこと、どう思ってるか知ってますか』


 崩れた口調が正される。とは言っても、その声音には不服そうな色が籠っていた。
 それに反して私を見上げる視線はとても静かで、感情が読めない。一瞬嘲笑するようにして語られたそれに、直後大きく目を見開いた。



『――ご主人様、ですよ』





 * * *





 父上の執務室に着いてから既に数十分が経っている。月明かりを背後に、執務机に肘をついて項垂れる父上は長い溜め息を吐いた。

 思い出すのは昼間、ローデ家の令息に突き付けられた言葉の数々。
 その全てを父上に報告した後、父上は何を言うでもなく俯いて黙り込んでしまった。言わないのではなく、語る言葉すら浮かばないのかもしれないが。


「…シュネーは…」


 ふいに沈黙が破られる。消え入りそうな程の声で父上が零した初めの言葉は、やはりあの子の名前だった。


「シュネーはずっと…私達のことを…」


 私達のことを。その後に続く言葉が何なのか、私には理解出来た。何故なら私も今、父上と全く同じことを考えているからだ。
 だから、私は事実を突き付ける。父上にも、自分自身にも。


「私達がそうでも…シュネーは違ったのでしょう」


 救った気でいた。信頼されているとは世辞にも言えなかったが、少しずつ心を開いてくれている実感は確かに湧いていた。
 あの子を劣悪な環境から救い出して、それで全てが終わるはずだった。あとはここでの生活でそれ以外のことも元通りになるだろうと。

 シュネーの親友だと名乗るあの少年。シリル…いや、ニコと呼ぶべきだろうか。
 彼の言葉が痛いほど胸に突き刺さって抜けない。どうしてシュネーに何か少しでも事実を語らなかったのか、私は滑稽にも今になって後悔している。


「…いつも後悔してばかりですね」


 苦く微笑んでみるが、父上の表情は晴れなかった。それも当然か、と更に苦笑は深くなる。

 シュネーに十年前のことを何も伝えなかったことには訳がある。と言っても、単に私達が臆病だっただけなのだが。
 そもそもシュネーが記憶を失っていることは想定外だった。想定外だったからこそ、記憶が無いという事実は救いに見えてならなかった。

 あの凄惨な事件の全てを、シュネーは覚えていない。それは酷く幸福に思えたのだ。
 覚えていないのならそれに越したことはない。全てを忘れたまま、シュネーには新たな人生を…なんて、今思えば何もかもが私達の勝手に過ぎなかった。

 十年だ。十年もの間奴隷として生きてきたシュネーが、突然貴族の生活を与えられて困惑しないはずがなかったのに。 


 私は何処かで、十年前の純真無垢な弟を求めていたのかもしれない。シュネーの中には十年分の苦痛に満ちた人生があるというのに、その事実を失念していた。
 あの子はシュネーであると同時に、ロクでもあったのに。
  

「私は…兄失格です」


 喉の奥が熱くなり、何かが決壊しそうな気配を感じて唇を嚙み締めた。
 全てを理解したからだ。きっととても残酷なそれは、否定しようのない現実だった。

 私達がシュネーを家族として愛するように、ロクもまた私達を主人として恐れていたのだ。

 今のシュネーはロクでしかない。十年前の記憶が無い以上、あの子はシュネーではなくロクでしかなかった。そして、シュネーは今何処にも居ない。
 だがロクはシュネーだ。それは確かな事実で、私達を家族として繋ぎ止める唯一の真実でもあった。


「間違っていたのは私も同じだ」

「父上…」


 俯いていたはずの父上が顔を上げて、困ったように眉を下げて笑んでいる。
 弱々しいとばかり思っていたその瞳には、薄らと覚悟が滲んでいた。


「あの子に全て話そう。まずはそこからだ」


 ハッとする。そう、初めにすべきは本来そうだった。
 その前提から目を逸らしていたから、こんなにも拗れてしまった。シュネーに要らない不安や誤解を与えてしまっていたのだ。
 拗れたものを正したい。シュネーの為にも、私達の為にも。十年前に止まってしまった時間を進められるように。

 たった一言伝えれば済んだものを、どうしてここまで遠回りしてしまったのだろう。
 シュネーもロクも、どちらも愛おしい唯一無二の弟なのだと。伝えるべきはたったそれだけだったのに。


「……?」


 今直ぐにでもあの子に会いたい。
 そんな想いが明確になったその時、何処からか微かに聞き覚えのある警報音が鳴り出した。

 この音は確か…とハッとする前に、父上がガタッと音を立てて立ち上がる。青ざめた表情で隣接している自室の扉を開け放つと、微かだったそれは鼓膜を貫くような音に変わった。


「シュネー…!!」


 警報音を鳴らすのは、シュネーの部屋と繋がっている危機察知の魔道具。
 その音の意味を理解した瞬間、緊迫した表情を浮かべる父上と同時に動き出した。

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