奴隷上がりの公爵家次男は今日も溺愛に気付かない

上総啓

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本編

17.本物と偽物

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「ニコ…?っ…ニコ!!」


 お父様に抱えられていることも忘れてニコに手を伸ばした。
 軽く暴れたせいか体勢が崩れて、地面に落ちそうになりながら忙しなく着地する。呆然と立ち尽くしているニコの元に駆け寄ろうとした時、目の前を突然現れた人影に塞がれた。


「ユルゲン様…?」


 目の前に立ち塞がる人物を見上げて目を見開く。騎士服を纏った茶髪の男性は、初めに僕を拾った護衛騎士のユルゲン様だった。


「…。…ユルゲンとお呼び下さい。シュネー様」

「あっ…はい…えっと、ユルゲン」


 振り向きもせず、背中を向けてそう語った彼に慌てて頷いた。そうだ、今はシュネーだから表面的には僕の立場の方が上なんだった。

 それにしてもユルゲンは一体どこから…?と辺りを見渡す。護衛がついているとはお父様から聞いていたけれど、近くにそれらしい人物は居なかったから驚きだ。
 それに、どうして今ユルゲンが現れたのかも気になる。何も危険なんて無かったはずだけれど、何かあったのかな。
 きょろきょろと周囲に視線を彷徨わせていると、後ろから「シュネー!」と心配の滲んだ声が届いた。ハッとして振り返ると同時に、立ち尽くしていた体をギュッとお父様に抱き締められる。


「突然走り出したら危ないだろう!」


 いつもの穏やかな笑顔じゃなく、心底心配したとでも言いたげな必死の表情。
 少し荒い口調にビクッと肩を揺らすと、お父様は我に返ったように息を吞んで口を噤む。
 遅れてやって来たお兄様が、お父様に呆然と抱き締められる僕の頭をぽんと撫でて困ったように微笑んだ。


「ぼ、僕…ごめんなさい…」


 お父様がここまで怒りを顕にしたのは初めてだ。
 確かに今の行動は感情的で、奴隷には相応しくなかった。危うくお父様の大切な"シュネー"に傷を付けてしまうところだったのだ、明らかなミスだろう。
 貴族というのは何処に居ても常に危険の伴う身分だと教わっていたのに、安易にお父様の傍から離れて護衛の範囲外に移動しようとしたのは失敗だった。

 脳内で大反省会を繰り広げていると、後ろから戸惑ったような声が微かに届く。あっと思って振り返ると、さっきまで呆然としていたニコが幾分落ち着いた様子で待っていた。


「二、ニコ…あの…」

「うん…あー…っと、シュネー様…?」

「……え…?」


 苦々しい笑みだった。どこか他人行儀な態度のニコは、僕と僕を取り囲むお父様たちを見渡しながら一歩後退る。
 一緒に過酷な仕事を乗り越え、パンを分け合って笑っていた姿はどこにもない。よく見るとニコも僕と同じような上物の洋服を着ていて、後ろには従者らしき青年がそっと寄り添っていた。


「君は…ローデ家のシリル令息だね」


 お兄様がニコを見やって目を細める。その言葉に「え…?」と渇いた声が漏れてニコに視線を移したが、ニコは僕を見て苦しそうに微笑んだだけだった。

 ローデ家…ローデ伯爵家。確か子に恵まれなかった伯爵夫妻が、つい最近孤児院から子を引き取ったと聞いたような…。
 まさか、その引き取られた孤児というのは…。目を見開く僕を見下ろしたお父様は、数秒逡巡する様子を見せたかと思うと静かに口を開いた。


「息子は君と話がしたいようだ。…どうかな、もし時間があれば邸に来ないかい?」

「えっ…!あ、えぇっと…」


 気のせいでなければ、その時ニコは確かに瞳を輝かせたように見えた。
 けれどそれはすぐに萎んで、恐る恐るといったように後ろの従者に視線を向ける。ニコの視線を受けた従者は持っていた懐中時計をちらりと覗き、薄く微笑むと小さく頷いた。

 その仕草を見たニコが嬉しそうに頬を緩ませて、緊張した面持ちでお父様に向き直った。





 * * * 





「ニコ…っじゃない…シリル、こっち!」


 ニコの手を引いて自室に案内する。
 扉が閉まって二人きりになると、硬い表情で息を詰めていたニコはようやく肩から力を抜いた。


「…久しぶりだな、ロク」

「…!!」


 まるで内緒話をするかのような小声だった。大っぴらに名前を呼び合えなくなった現実を突き付けられているようで胸が痛んだけれど、それでも嬉しいものは嬉しい。

 喉奥に何かが湧き上がるような、熱いものが涙腺を刺激するような感覚。
 ただでさえ実年齢より大人びた雰囲気を持つ目の前の少年が、以前よりもっと成長したような気がした。身長も更に伸びているし体格も良い。実は僕より年上だったと言われても簡単に信じそうなくらいだ。


「っ…ニコ…!」


 視界が滲む。衝動のまま強く抱き着くと、ニコは呆れたように笑いながらも抱き締め返してくれた。


「お前は変わらないなぁ…公爵家のご令息になったってのに」


 奴隷時代の知り合いに躊躇なく関わるなんて、と溜め息混じりに零すニコ。言葉ではそう言うけれど、何だかんだ言って結構嬉しそうだ。


「……うん、でも僕はニコとは違うよ」


 安心したように息を吐くニコには悪いけれど、僕の状況はニコが考えているようなものじゃない。

 怪訝な顔をするニコに苦笑を返す。だって事実だ、引き取られて本当の家族を手に入れたニコとは違って、僕は"偽物"なんだから。
 僕はロクでしかなくて、シュネーじゃない。
 けれど、ニコはニコであって、シリルでもあるのだ。


「どういうことだ…?」 


 僕の呟きに首を傾げたニコは、心配そうな声で「ロク?」と呼びかけながら眉を下げる。聞き慣れた名前は心地よくて、それがニコなら尚更だった。

 何も言わずに抱き着く力を強めると、それを察したのかニコの腕の力もぎゅっと増した。
 ずっとこの時間が…"ロク"としての時間が続けばいいのに、なんて一瞬思ってしまったがそんなことは許されない。やがてニコが僕の肩にそっと両手を置いて、宥めるように引き離した。
 至近距離にあるニコの瞳に映るのは、情けなく歪んだ僕の表情だけ。


「…ロク、俺には話せないか?今のロクは…全然幸せそうに見えない」


 ニコの言葉にハッとして、容赦ない直球の指摘に肩を落とした。
 無言で肩を抱かれてソファに誘われ、二人並んで腰掛ける。膝に置かれた震える手をそっと包まれると、さっきよりは不安が消えて楽になった。


「…俺達はもう、環境も身分も変わっちまったけど…それでも、家族ってのは変わらない事実だろ?」

「ニコ…」

「家族が幸せじゃないのは…普通に苦しいっつーか、ムカつくっつーか…そんな感じだからさ、何か悩みがあるなら…俺はロクの力になりたい」


 そう言って微笑むニコに堪えていた衝動が決壊した。
 小さく嗚咽を漏らしながら俯くと「泣くなよ」と呆れ混じりの笑い声が降ってくる。ぽんぽんと頭を撫でる手はまるでお父様みたいに安心感があって、優しい声はお兄様みたいに温かかった。

 頬を伝う涙を拭って「…話す」と掠れた声を零すと、ニコは「ん、ゆっくりでいいぞ」と変わらず優しい答えを返してくれた。


「…ぼく…僕は、偽物なんだ…ほんとは、公爵家の人間なんかじゃなくて…」

「……うん??」

「お父様もお兄様も、"シュネー"は大好きなんだけど…でもそれは僕…ロクじゃなくて、ロクはただの奴隷でしかなくて…」

「うん、うん…?」

「邸のみんなのことが大好き…だけど、そう思っていいのはシュネーだけなんだ…ロクは何も思っちゃ…――」


 最早自分でも何を言っているのか分からなくなって、湧き上がる激情のまま紡いでいた言葉は「待て、待て待て!!」という言葉で遮られた。


「いや…お前、何言ってんだ」

「…え…?」


 心底混乱…というよりは、困惑したような表情だ。それは僕のぐちゃぐちゃな言葉に対してではなくて、もっと根本的なものに対するような。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返す僕と、困惑顔を隠さないニコ。二人きりの室内に奇妙な沈黙が数秒流れて、最初に我に返ったのはニコの方だった。
 何かを考え込むように眉を寄せると、まさかと言いたげな表情で目を見開く。けれどそれも直ぐに何とも言えない困惑顔に戻って…って、ニコにしては表情が二転三転して珍しい。

 よく分からない沈黙に僕の方が緊張してそわそわしていると、やがて考えが纏まったらしいニコがバッと顔を上げた。


「お前…今帝都ですげぇ話題になってる公爵家の噂、聞いたことあるか?」

「噂…?」


 ようやく言葉を発したかと思えば、一体なんのことだろう?
 首を傾げる僕を見ると、ニコは何かを察した様子で「なるほどな…」と呟いてひとり納得したように頷いた。


「覚えてないのか…それとも本当にロクの言う通りかのどっちかだな」


 覚えてない…偽物…?
 さっきから何を…と問い掛けようとした瞬間、ニコが僕を制するように手を挙げた。
 ニコは何やら呆れ顔で邸を見渡している。僕に呆れているのかと思ったけれど、どうやらそれは違うらしい。


「まさかとは思うが…お前自分が何でここに居るのかも知らなかったりするか?」

「!すごい、何でわかったの…!?」

「……、…周りの奴らは何やってんだ…」


 キラキラと尊敬の眼差しを向ける僕を鬱陶しそうに避けたニコは、表情に一気に疲労を滲ませて項垂れた。


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