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本編
15.予感
しおりを挟む青い薔薇騒動から数日。気付けばアーレント公爵家の次男を演じ始めて一か月が経とうとしていた。
例の薔薇は結局、誰かに差し出すことも皇族に献上するわけでもなく、僕の部屋に他の花と共に飾られている。保存魔法を何重にもかける厳重さは他の花と一線を画すけれど、如何せん価値がアレすぎるので仕方ない。
あの日ハロルド様が邸を後にして、慌ててお兄様たちの元へ駆け込んだことを今でも思い出す。さぞ焦るだろうと思っていたのに、お兄様もお父様も反応は至って普通だった。
またかぁという感じの反応だった。特にお兄様に関しては、ハロルド様のご友人だからそういう規格外の行動には慣れっこなのかもしれない。
「――シュネー」
することもなく、窓際に腰掛け例のことを思い出しながら薔薇を眺めていると、ふいに自室の扉が開かれた。
ぼんやりしていた意識がハッと明確になって、メイドさんかななんて呑気に考えながら振り返る。けれど入って来たのはメイドさんでも侍従の方でもなく、眉を下げて微笑むお父様だった。
「お、お父様…!」
慌てて立ち上がり、窓際から入り口まで駆け寄る。
「勝手に入ってすまないね。ノックはしたんだが、返事が無いから心配で…」
「へっ、あ、すみませ…申し訳ありません…!」
主人が来たことに気付かず、ましてやノックを無視してしまうなんて…!
サーッと血の気が引いて青ざめる。小さく震え出した僕を見てどう思ったのか、お父様はぱちぱちと瞬きを繰り返してしゃがみ込んだ。
床に膝をついたお父様が顔を上げると、ちょうど俯く僕と視線が合う。
へにゃりと情けなく眉を下げる僕を見上げたお父様は、柔らかく微笑んで頭をぽんぽんと撫でてきた。
「謝るのは私の方だよ。ずっと部屋に篭っていては…退屈でボーッとしてしまうのも無理は無いからね」
予想外の優しい対応に目を見開く。
主人を無視するなんて、処分されてもおかしくない程無礼な行動だ。それなのに、お父様に怒っている様子は微塵もない。
いつも、いつもこうだ。思えば、ここに来てからお父様が僕に怒ったことは一度もなかった。
それどころか折檻を与えられることも、性処理の道具として呼ばれたこともない。奴隷としての明確な任務を命じられたことが無いのだ。
流石の僕でも、ここまで来れば少しはわかる。
ずっと奴隷としての任務を与えられることを待っていたけれど、お父様は僕を"奴隷"として買ったわけでは無いのだろう。
性奴隷としてでも、壊す為の玩具としてでもない。僕は奴隷ではなく"シュネー"として買われたんだ。
お父様にとって…というよりは、公爵家にとって、シュネーという存在がどれ程のものなのかは僕には分からない。
けれど邸の人たちやお兄様、そしてお父様もシュネーにはとても優しい。少なくとも『シュネー』という人間が紛れもない公爵家の一員として認識されていることは確かだ。
理解出来ないのは…その大切な『シュネー』を何故僕が演じることになったのかということ。
そして『シュネー』を演じる僕に何を求めているのかということ。つまり…買われた理由について。僕なんかに重要な役を担わせることにもだけれど、彼らの意図がいまいち読めないのだ。
それが…少し怖い。優しい彼らの仮面の下がどんなものなのか、わからないことが怖い。
「シュネー」
湧き上がる恐怖を堪えるようにギュッと目を瞑ると、すぐ目の前から優しい声が僕を呼んだ。
そろりと視界を開いて顔を上げると、小さく微笑んだお父様がそっと僕の手を握る。その途端すっと引いた不安に、思わず目を見開いた。
主人という存在は絶対的であると共に恐ろしいものだから、触れられると抵抗はしないものの拒否感を抱くことが多かった。ゲイル様なんかはその例の筆頭だ。
けれどなぜだろう…お父様の大きな手に恐怖なんてものは微塵も感じなくて、むしろ僕の手を包み込む温かさに安堵すら抱く。体の震えも瞬く間に収まった。
なぜ…?"シュネー"には乱暴をしないという確信があるから…?
それとも…
「お出掛けしようか」
「……、…え…?」
何か重要なことに気付きそうになって、その瞬間語られた想定外の提案に頭が真っ白になった。
さっきまで巡っていた思考を放って硬直する。そんな僕の手をぎゅっと包み込んだまま、お父様はくすくす笑った。
「邸の外が気にならないかい?」
「き…気になり、ます」
お父様の仰る通り、確かに外の世界は気になる。僕の知る世界は主人の屋敷の敷地内と、初めに僕が"生まれた"奴隷市場だけだから。
世界は僕が考えているよりずっと広いってニコから聞いたことがある。ここでの暮らしを始めてそれについては何となく理解してきたけれど、実際どんなものなのかはまだ分からない。
邸の外…正直とても気になる。行ってみたい、見てみたい…。だけど、それは本当に許されるんだろうか。以前はお兄様にも『外出禁止』だって確かに命じられたはずだけれど…。
「あの、でも…外出は許可できないって…」
恐る恐る口にすると、お父様は一度きょとんと首を傾げて黙り込む。やがて何かを思い出したように頷くと「それはもう大丈夫だよ」と首を振った。
「あの時はまだ護衛の体制に不安があったからね。ユルゲンも任務から戻って来たことだし、そろそろ邸の外での護衛も任せていい頃だろう」
そうか、監視体制が万全になったから…。
その答えを聞いて、何だか少し落胆した。お父様にでは勿論なくて、自分に対して。
てっきりやっと僕のことを信用してくれて、外出させても問題ないと判断されたからだと期待してしまった。そんなわけないか…僕はまだ何の成果も挙げていないのだから。
「だから、一緒に帝都へ出掛けよう」
「はい…はい?い、一緒に?」
今回の外出は僕が妙な行動をしないかの確認かな…なんて考えていると、不意にお父様が当然と言わんばかりの表情でそう語った。
主人であるお父様まで奴隷の監視を…いや、この場合監視じゃなくて、ただ"シュネー"と出かけたいだけか…?
今までの奴隷の主人とは思えない言動から察するに、今回のことも"シュネー"に対しての提案であって"ロク"への命令ではない気がする。表向きは監視じゃなくて、単なる息子との外出ってことか。
それなら、この提案への答えはひとつだ。
「お父様と一緒にお出掛けできるなんて嬉しいです」
笑顔を作ってそう言うと、お父様は嬉しそうにはにかんだ。
誰が見ても仲の良い親子のやり取りにしか見えないこの一連の流れを、僕は確かに身体に刻み込む。この感覚を忘れないように。その状況で求められているのがロクなのか、それともシュネーなのか。すぐに判断できるように。
今回のことで、少しだけ分かった気がする。
この公爵邸で僕がすべきこと。僕の役目。何をすればいいのか、それだけをただ模索していたから駄目だったんだ。初めにすべきことはそういうことでは無かった。
漠然と『演じなければ』という焦燥だけが先にあった。けれどそうではなくて、理由も目的ももっと根本的なものなんだ。
僕はまず知らなければいけない。
シュネーとは、そもそも一体何なのか。
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