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本編

13.きっと、夢

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『ハルさま!』 


 少し先に艶やかな黒髪の少年が見えて、沈んでいた気分があっという間に元通りになった。
 駆け寄ると、彼はいつもの無表情に微かな笑みを浮かべて地面に膝をつく。走る勢いのままぎゅっと抱き着くと、すかさず僕の背中にハル様の腕が回って、隙間が無くなるくらい強く抱き締められた。 


『シュネー…走るなと言っただろう』 


 転んだらどうする、と顰め顔で言うハル様。ハル様をよく知らない人は勘違いしやすいけれど、これは別に怒っているわけじゃない。
 ハル様は心配したり困ったりすると、顔を顰めたりして怒ったような顔をしてしまうのだ。 

 それを僕は知っているから、特に焦らず『えへへ』とふにゃりとした笑顔を返す。 


『ハルさまにね、あえたのがとってもうれしくて…ごめんなさい』 

『……』 


 ハル様は眉をピクッと顰めて眉間に皺を寄せる。ものすごく怒っているように見えるけれど、これはただ照れているだけだ。 


『…荷造りは終わったのか』 


 さりげなく話を逸らしたハル様にくふふと笑って、終わったよと頷く。邸を出るのは三日後だけれど、お父様もお兄様も既に落ち込みムードだ。
 今朝なんて、僕に着いていくって二人が駄々をこねてユルゲンに窘められていた。 


『みんなしんぱいしすぎだよ』 

『…心配もするだろう。シュネーに万が一何かあれば、俺だって…』 


 軽く笑い飛ばす僕とは裏腹に、ハル様は低い声で呟いた。心なしか僕を抱き締める腕も震え始めたから、慌てて言葉を紡ぐ。 


『だいじょうぶだよ!療養がおわればすぐに帰れるって、おいしゃさまもいってたから!』 


 あわあわと説明する僕を見下ろし、ハル様は困ったように微笑んだ。そうか、と返った答えは静かで、あまり納得したようには聞こえない。 

 体が少し弱いせいで辺境の別荘まで療養に行くことになったとはいえ、きっと半年くらいで公爵邸に戻れるはずだ。
 そんなに心配しなくても、何事もなく帰って来る。だから大丈夫だよって、伝えたかったのだけれど。 


『……不安なんだ。少しだけ』 

『ふあん…?』 

『…離れたらいけない気がする。離れたくないだけかもしれないが…』 


 そう語るハル様の瞳には、微かに嫌な予感を抱えるような、そんな不穏な色が宿っていた。
 普段冷静で、いつだって飄々としているハル様の様子がどこかおかしい。そんな姿を不思議に思いながらも、僕はハル様を励ます為に笑う。 


『すぐかえるから、だいじょーぶ!』 


 不安なことなんてないよって、そう言うとハル様は『…そう…そうだよな』と自分に言い聞かせるように頷いた。 


『おみおくり、ぜったいきてね』 


 元気に戻ったハル様にお願いすると、勿論だという言葉と共に優しい笑みが返って来た。 



  

 * * * 





 何か、懐かしい夢を見ていた気がする。


「――ハル様…」 


 重い瞼が上がる。微睡んでいた意識が戻ったのは、頭を優しく撫でる手がピクリと止まったからだ。霞んだ視界が明確になって、初めに見えたのは綺麗な顔だった。 
 黒髪が靡いて、少し影がかかった赤色の瞳が覗く。ぼーっとしたまま手を伸ばすと、それはすぐに大きな手に包まれた。 


「……ハロルド…様…?」 

「目が覚めたか」 


 未だ寝惚け眼の僕の頭を撫でると、ハロルド様は目を細めて低い声を落とす。
 心に直接響くような心地良い低音に再び眠気が襲ってきたが、これ以上はダメだと無理やり起き上がった。 
 急に上半身を起こしたせいかふらりと眩暈がして、後ろに倒れ込んだ体を危なげなく抱きとめられる。そのまま持ち上げられて、気付けば僕の体はハロルド様の腕の中にすっぽりと収まっていた。 
 所謂いつもお兄様にされているような膝抱っこの体勢だ。 

 ぼんやりしているとハロルド様が何やら動いて、こっくりと頭を揺らす僕の背中をぽんぽん撫でる。包まれている体が暖かくて、撫でる手が優しくて、抵抗する間もなく再び眠気が襲ってきた。 


「もう直ぐミハエルが迎えに来る。眠いなら寝ていて構わない」 

「ん…いえ、おきます…」 


 お兄様が迎えに来るという言葉で眠気が覚めた。 
 わざわざお兄様が来て下さるというのだ、眠っている場合ではない。『シュネー』にとっては兄だけれど、『ロク』にとっては主人なのだ。主人を寝てお迎えする奴隷なんていない。


「あ、あの…すみません…僕、寝てしまって…」


 ふと我に返って慌てて頭を下げる。そういえば僕はどうして眠っていたんだっけと記憶を辿って、自分の間抜けさに項垂れた。

 ハロルド様と薔薇園を歩いて、やがて僕が疲れてガゼボで休むことになったんだ。そうして長椅子に座ったらうとうとし始めて…それからの記憶が曖昧だ。
 目が覚めたら、ハロルド様の膝に頭を乗せて横になっていた。仮にも奴隷のすることじゃない…失礼にも程がある。

 サーッと青ざめた顔で謝罪すると、ハロルド様は首を傾げて切れ長の目を瞬かせた。


「気にするな。寝顔も愛らしかった」

「はい……はい?」


 気遣うような言葉を返され、肩を落として頷いた数秒後。流れるように続いたセリフの意味が一瞬理解出来ず、上擦った声を上げてフリーズしてしまった。
 顔を上げると、無表情のハロルド様と視線が合う。その姿を見て一瞬、さっきの言葉は気の所為だったのかもしれないと思った。無機質な表情と甘い言葉が噛み合わなかったから。


「え…っと…?」


 目は覚めたと思っていたけど、まだ寝惚けていたのかもしれない。動揺で視線を揺らす僕を見下ろすと、ハロルド様は何やら目を細めて、やっぱり感情の読めない無表情で呟いた。


「……綺麗だ」

「へ…?」


 きっとこれもまた気の所為なんだろうけど、語るハロルド様の目にはほんのりと甘さが含まれているような気がした。
 その目に至近距離で見つめられると、何故か胸がドクドクと早鐘を打つ。顔も妙に熱いし、何だかそわそわする。
 じっと視線が合わさって、やがて硬直が解ける。あぁそうか、と思い至って納得した。

 ハロルド様が言う『綺麗』は、この碧色の瞳のことか。


「…あ…ありがとう、ございます…」


 理解した途端また鼓動が早くなった。ハロルド様に瞳を褒められたことが嬉しくて、上気した頬がだらしなく緩む。
 やっぱりこの瞳は使える。思えば今までの出会いの殆どが、この瞳のお陰で手に入れたものだった。お父様もお兄様も、そしてきっとハロルド様も。


「ハロルド様は…もっと素敵です」


 小さく零れた言葉は半ば無意識だった。
 ちらりと見上げた先にあるのは真紅の瞳。お兄様やお父様の海を連想させる青色も好きだけれど、ハロルド様の炎のような赤色も凄く綺麗。


「……」

「……?」


 ふにゃあと微笑んで語った言葉に返事は無かった。
 代わりにじっと強い視線が射抜いて、かと思えばその瞳に確かな熱が込められていく。気づけば頬に大きな手が添えられていて、絡み合った視線は最早逸らせなくなっていた。

 肩をぎゅっと抱かれて至近距離で見つめ合う。熱の篭った赤い瞳に見つめられると、まるで絡め取られて囚われたような錯覚に陥った。

 "そういう空気"を察したのは、殆ど無意識によるものだ。
 前段階の、空気が切り替わるあの感覚。経験のある僕はそれをよく知っていたから、相手がハロルド様だとしても『あぁまたか』って淡白な感想しか浮かばなかった。


「……


 名前を呼ぶその声が僕を現実に引き戻した。瞬時に『ロク』と『シュネー』が入れ替わって、『シュネー』がその声に応じる。
 鼓動はバクバクと高鳴って『ロク』の激情が騒いでいる。対して表情は冷静で、僕は近付く唇を眺めながらゆっくりと目を伏せた。

 時間にしてたったの数秒。下手をすれば二秒も無かったかもしれない。
 永遠とも取れる沈黙だった。真っ黒の視界の中、唇にふっと吐息が届いた感覚がして、来たって思ったその時。



「――何をしているの?」



 パチッと視界が開ける。同時にほんの近くまで来ていた熱が離れる気配を感じて、見上げた先には案の定ハロルド様の横顔があった。
 その横顔には微かな苛立ちと落胆が篭っている。顰められた眉が彼の感情を明確過ぎる程表していた。

 ハロルド様の視線を追う。そこに居たのはやっぱり、凍り付いた笑顔を浮かべるお兄様だった。


「……邪魔をするな」

「はぁ?大事な弟を誑かす屑を放って置くわけ無いでしょ馬鹿なの?大体、会話だけって言ったよね」

「……、…俺はシュネーの婚約者だ」

「名ばかりの、ね。他人同然の関係のくせに、こんなに早くシュネーに迫るなんて…何を考えているのか理解が出来ないな」


 お兄様の声には、いつもの雪解けのような優しさは無かった。冷たく突き刺すような、それでいて突き放すような、冷酷とも取れる声。

 ハロルド様の僕を抱く手がぎゅうっと強まる。離さないと言うよりは、離したくないと懇願するような焦りが見えた気がした。
 そんなに捕らえていなくたって、僕は逃げたりしないのに。お兄様やお父様が認めた『シュネーの婚約者』なら、ハロルド様も確かに『ロクの主人』なのだから。


「…シュネーが"そういう行為"にトラウマを持っているかもしれないって、少しは考えなかったのか」

「っ……」

「……?」


 お兄様が何やら低く呟いたが、言葉の意味はよく分からなかった。
 けれどハロルド様がハッとしたように息を呑んだから、きっと二人の間では正しく意味が通じているのだろう。
 気になったが、どうしてか彼らの空気が重かったから割り込むことは出来なかった。よく分からないけど、ここは一先ずよく分からないなりに大人しくしておこう…。


「……」

「あ、あの…?」

「…シュネー」

「はいっ!」


 逸らされていた視線が再び絡む。
 呼ばれて返事をすると、ハロルド様はへにゃりと下がりきった眉を晒して頭を下げた。


「すまなかった…配慮が足りなかった…」

「…?は、はい……」


 何の謝罪なんだろう…?

 分からないけれど、とにかく頭を上げて欲しくてこくこく頷いた。
 意味が分からなくたって結果は初めから決まっている。主人が頭を下げる前提がそもそもおかしいけれど、実際にこの状況になるなら受け入れる以外の選択肢は無い。
『シュネー』がどうなのかは置いといて、ハロルド様が謝罪してきたら『ロク』は何度だって許すしかないのだ。

 僕があっけらかんとした態度で頷くと、ハロルド様はほっとしたように息を吐いた。

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