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本編
12.婚約者
しおりを挟む扉を開けた先に居たのは、艶やかな黒髪を揺らす美形の男性だった。
「ハロルド、待たせたね」
片手をひらりと振って、お兄様が男性に近付く。僕はどうすればいいか分からず、扉の前でピタリと立ち止まってしまった。
そわそわする僕に気が付いたのか、黒髪の男性がふとこっちを見る。僕を視界に入れた途端、切れ長の赤い瞳が僅かに切実な色を宿して見開かれたように見えた。
けどたぶん、気の所為だと思う。本当に僅かな変化に見えたし、見間違いかも。
というのも、男性には表情が無かったのだ。
お兄様が声を掛けた時も、僕を見た時も表情ひとつ動かさなかった。一目見て、騒がしいことが苦手なタイプなんだろうなと想像できるくらいの雰囲気だった。
「シュネー?そんな所で固まってどうしたの、おいで」
「あ…はい」
僕が立ち止まっていることに気が付いたお兄様が、振り返って首を傾げる。柔らかい笑顔と差し出された手に誘われて、ふらりとお兄様のもとへ駆け寄った。
お兄様の手を両手でギュッと掴み、ちらりと男性に視線を移す。
相変わらず、男性は僕を無表情でじっと見つめるだけだった。
「…シュネーが怖がってる。早く何か言え」
数秒無言の空気が流れた室内に、やがて呆れたような溜め息が零れる。その主であるお兄様が、男性に低く語りかけた。
初めて聞く声音だった。いつもの穏やかな声では無い、氷のような凍てついた声。
貴族は親しい人間相手だと砕けた口調になると言うから、きっとそれなんだろうなと解釈して頷く。でないとお兄様がこんなにも冷たい声を出す訳が無い。
奴隷にも優しい声と言葉を貫くお兄様なのだ、僕に優しく接して下さるなら、きっと誰に対しても穏やかなはず。
男性が僕をじっと見つめて、無表情のまま口を開いた。
「……ハロルド」
「…あっ…シュネーです」
数秒遅れて名乗り返す。名前だけボソリと呟かれたものだから、一瞬何のことだか分からなかった。
ビクビクと様子を窺うと、男性…ハロルド様がふと立ち上がる。僕の目の前まで来て、チラリとお兄様に視線を向けた。
お兄様はハロルド様の言わんとしていることが直ぐに分かったようで、一瞬嫌そうに顔を歪めながらも頷いた。
お兄様は膝を着いて僕と目線を合わせると、優しい笑みを浮かべて言う。
「シュネー、ハロルドはシュネーの婚約者だよ」
「…こんやくしゃ…?」
「うん、でもシュネーの意思が一番大切だからね。今日は顔合わせだけ。嫌だと思ったら遠慮しないでお兄様に伝えて?婚約なんて即刻破棄するから」
にこにこ顔で語るお兄様。
困惑して固まってしまったが、直ぐに我に返って考える。これはどういうことなのかと、必死に思考を回す。
どうやらお兄様は、僕を新しいご主人様に売るわけではないらしい。となるとこれは…僕の任務に関わることだろうか。
ハロルド様と婚約して何らかの任務を達成する…?だとしても、結局何をすればいいのか分からない。
黙り込む僕を見てどう解釈したのか、お兄様はぽん、と僕の頭を撫でて立ち上がった。
「取り敢えず二人だけで会話でもしてみようか?勿論、シュネーが二人きりは嫌だと言うなら私も同席するよ」
「……お前がシュネーと離れたくないだけだろう」
不服そうなハロルド様の様子にハッとする。二人の間に流れる空気が鋭くなってきたことを察し、慌てて声を上げた。
「あ、あの!僕ハロルド様とお話してみたいです!二人きりで!!」
「……」
「えー…そっかぁ…」
残念そうに唇を尖らせるお兄様と、無言でそわそわと体を揺らし始めるハロルド様。気のせいだろうか、ハロルド様の雰囲気がどこか嬉しそうだ。
「……シュネー、庭へ行こうか?」
「へ…?」
「花が好きだと…聞いたのだが…」
ハロルド様からふと問われて首を傾げる。そんな僕を見て慌てたように言葉を付け足すと、ハロルド様は機嫌を窺うように僕の反応を待った。
もしかして、ハロルド様は僕の正体を知らないのかな。確かによく考えたら、相手が奴隷だと分かっていて婚約の話を受け入れる貴族なんていないか。
奴隷の顔色を窺うというのもおかしな話だ。理解した僕は笑顔を浮かべて「行きたいです!」と頷いた。
* * *
「シュネーは薔薇が好きなのか」
薔薇園を並んで歩いていると、不意にハロルド様が問い掛けてきた。
僕があまりにも熱心に薔薇を眺めるものだから気になったらしい。ハロルド様と視線を合わせるのが怖かっただけですだなんて絶対に言えない…。
こういう時の良い返しなんて分からないから、こくこくと頷くだけに留める。緊張し過ぎて声もまともに出せないことが申し訳なかった。
こんなんじゃ僕から婚約をどうにかする前に、先に彼から婚約破棄を告げられてしまうかもしれない。どうしよう…と悩むが、ハロルド様は怒った様子もなく「そうか」と目を細めた。
「何色が好きなんだ」
「へ…?」
脈絡が無さすぎて変な声を出してしまった。
薔薇の話から急に内容が飛んだなぁ…貴族の会話ってこういう感じなのかな、難しいなぁ…なんて思いながら何とか答える。
「青色…です…?」
困惑しながらも何とか答える。僕の答えを聞いて一瞬不思議そうにしたハロルド様は「青…」と呟いて何かを考え込むように首を傾げた。
「青い薔薇は見たことが無いが…シュネーが好きだと言うなら必ず用意する」
「……はい?」
あれ、おかしいな…今とんでもない言葉が聞こえたような…。
数秒呆気に取られて固まる。その言葉の意味を理解すると、一気に顔が青ざめた。
もしかしてさっきの『好きな色』って、単に好きな色を聞いた訳じゃなく『好きな薔薇の色』を聞いていたのか…?
青色の薔薇は未だに発見も改良もされていない、幻の薔薇と呼ばれているものだ。
よりによってそんな色を答えてしまうなんて…。
「あ、あ…ちがっ…!青じゃなくて…!」
「…?青は嫌いか?」
「い…いや、青色は好きですけど…でも…」
「そうか、それならやはり青い薔薇だな」
あたふたする僕を見て何を思ったのか、ハロルド様は穏やかに視線を緩めて僕の頭を撫でた。宥めるような優しさがお兄様とよく似ていて、思わず警戒が解ける。
一瞬で絆されてしまうくらいの温かさだった。さっきまでは、無表情で感情の読めない彼に恐怖を抱いていたけれど…今は安心の方が勝っている。
会話が下手で不器用な僕にとっては、ハロルド様の語る短い答えと淡々とした口調、そして何よりこの無言が寧ろ心地よかった。
だからだろうか。喉の奥が熱くなって、衝動を堪え切れなくなってしまったのは。
「……ハロルド様は…」
小さい呟きでも、彼は機敏に拾ってくれる。催促するわけでもない、ただ淡々と待つような無言に力が抜けた。
「ハロルド様は…"シュネー"が好きですか…?」
自分でも、馬鹿な質問をしていることは分かってる。こんなことを聞いたって、ハロルド様を困らせてしまうだけだ。それでも、僕はどうしても聞きたかった。
ハロルド様はどうして僕を婚約者に選んでくれたのか。アーレントの名が魅力的だっただけなのか、それとも"シュネー"に好意を感じたからなのか。
僕が『ロク』として、抱いてはいけない感情を抱いてしまいそうで。だからこそ、戒めの為に聞いておきたかった。
彼の本音を知れば、今この瞬間にも芽生えそうな不要な感情も封印してしまえる。
そう、思ったのに。
「……"君"が好きだ」
返って来た答えは予想外のものだった。目を見開く僕の目の前に片膝をつくと、ハロルド様は淡々とした無表情を真剣なものに変えて再び答える。
「君が好きだ。君を守りたくて、君の隣に立ちたいから…俺は君と…結婚、したいと思っている」
僅かに染まった顔が、彼の本音を証明している。
自分の体がほんの少し震え始めたが、その理由は分からない。恐怖なのか、はたまた喜びなのか。それなら、僕は何がそんなに嬉しいのか。
思考は既にぐちゃぐちゃだったけれど、そんなことには構わず口は勝手に動いた。自分で考える間もなく、次の質問が無意識に飛び出す。
「例えば"シュネー"が奴隷でも、好きですか」
掠れた声が出て数秒、僕はすぐに後悔した。どうしてこんなことを聞いてしまったのかと。
焦る僕には気付かなかったようで、ハロルド様は何度か目を瞬かせると、今度は当然だとばかりに頷いた。
「何者でも好きだ。君が奴隷だろうと悪人だろうと、君が君で在る限りこの想いは変わらない」
「――…」
ほろりと何かが頬を伝ったような気がして。次の瞬間胸がぐっと苦しくなる。けど、不快な苦しさじゃない。
シュネーだとかロクだとか、奴隷だとか貴族だとか。きっと数秒後には、そういう面倒くさくて小難しいことを考え始める。
けど今だけは。今だけは、湧き上がったこの不思議な感情を、心底大切に抱えたいと思った。名前も意味もよく分からない、胸がぎゅっと締め付けられるようなこの感情を。
他でもない、ロクとして。
直後に夢が覚めると知っていても、それでも。
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