奴隷上がりの公爵家次男は今日も溺愛に気付かない

上総啓

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本編

10.ミハエル=アーレント (兄side)

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 十年越しに再会した弟は、無垢だった瞳に仄暗い色を宿していた。

 フレンから報告を受け、領地から帝都にある公爵邸へと直ぐにでも戻ろうとしたのだが。視察を途中で放り出すことも出来ず数日が経ってしまった。
 シュネーがこの十年、奴隷として生きてきたことは報告を受けていた。邸へ戻ったら、シュネーの心を癒す為の努力を惜しまないつもりだった。

 だが、現実はそう甘くない。
 貴族として何不自由無い生活を送ってきたからこそ、私は甘ったれた予想をしていたのだ。
 家族と再会して、貴族としての暮らしや、空腹なんて二度と感じないくらいの食事を与えて。そうすれば、傷んだ心もきっと癒えるだろうと。
 私は理解していなかった。今までの人生で、シュネーが一体どれほどの地獄を味わってきたのか。


『…お兄様』


 浮かぶ笑みは相変わらず愛らしい。
 だが、それは私の知っている"シュネー"の笑顔では無かった。心の底から浮かんだような、純粋なものではなかった。
 まるで私の機嫌を常に窺うような、怯えたような視線が辛かった。ほんの少し伏せられた瞳にあるのは、親しさではなく恐怖や不安だけで。

 シュネーは、私の存在そのものを忘れてしまっていた。

 話を聞く限り、シュネーは私のことだけでなく、父上の存在も忘れているようだった。
 それどころか、ここで暮らしていたことも、自分が本来貴族であることすらも、全て。
 その事実を突き付けられた時、目の前が暗闇に支配されるような感覚に陥った。

 これはきっと罰なのだ。
 自分の"唯一"すら守れなかった愚か者への、最大の罰。
 シュネーに恨まれる覚悟はしていた。再会して、どうして守ってくれなかったんだと詰られることも、憎まれることも想定していた。実際、恨みも全て受け入れて償うつもりだった。

 だが、これ程重い罰は想定外だ。憎まれるどころか、存在そのものを忘れ去られてしまうなんて。
 抱えきれない罪悪感。この感情を吐き出す先すら無いことが辛かった。シュネーの中には私への恨みや憎しみすら一切無く、向けられる瞳は何処までも無機質で、不安に塗れていて。


 これこそが最大の罰なのだと、私は漸く気が付いた。




 * * *




「――…お兄様?」


 心配の色が滲んだ声。
 ハッとして我に返ると、シュネーはさっきまで絵本を覗き込んでいた瞳を私の方に向けていた。

 絵を見て興味深そうに上がっていた眉が、今はへにゃりと下がっている。本当に心配してくれたのだと察して胸が締め付けられた。
 慌てて笑顔を見せて「ごめんね」と声をかける。するとシュネーはほっと息を吐いて、安堵したように微笑んだ。
 その柔らかい笑みはまるで天使のようで、思わず見惚れてしまった。


「ごめんなさい…つまらなかった、ですよね…」

「え…!?ううん、そんなこと無い!とっても楽しいよ!」


 申し訳なさそうに頭を下げるシュネー。寂しそうな表情に胸が痛んで慌てて首を振った。シュネーと過ごしている時間が楽しくないはず無い。
 一日中シュネーの愛らしい姿を眺めているだけでも至上の幸福だというのに…。


「何か気になる絵本はあった?」

「あ、はい…!この絵本なんですが…――」


 公爵家の天使が戻ってきて数日。どうやらシュネーは書斎が気に入ったらしく、最近は毎日こうして絵本を読んでいる。物語と共に、文字を学べるのが気に入ったのだとか。
 シュネーは可愛らしいばかりでなく、勉学も怠らない聡明さも持ち合わせているらしい。私の弟は天才のようだ、しかも可愛い。

 天才且つ愛らしいなんて…シュネーが完璧過ぎて逆に不安だ。警備と護衛を今以上に強化しないことには、まだシュネーの外出を許可することは出来ないな。
 身の程を弁えない屑共にシュネーを害されるようなことがあれば…考えるだけで恐ろしい。私の可愛い弟に手を出す人間は徹底的に潰す。男なら更に徹底的に殺す。

 だが…私が「外出は許可出来ない」と言った時の、シュネーの寂しそうな微笑みが頭から離れない。
 外で思い切り遊びたい年頃だろう。シュネーの場合は、奴隷として窮屈な環境で生きてきた分、外の世界に人一倍興味もあるはずだ。これ以上、邸の中や庭のみを許して、真綿に包むように囲ったままには出来ない。

 それは分かっている…そんなことは重々承知の上で、私はシュネーを公爵邸の敷地内から出したくないのだ。

 十三歳だというのに、シュネーの体は未だ幼児に近い。
 抱き上げれば腕の中にすっぽりと収まる上に、何より軽すぎる。小鳥の羽のような軽さだ。
 シュネーは自分の体を平均的な大きさだと思い込んでいるようだが、それは全くの勘違い。今まで碌に食べ物を与えられず、肉体労働で体のみを酷使され続けたのだろう。下手をすれば七歳程の子供と並んでも違和感が無いくらいだ。

 そんなシュネーを外に出すなんて危険過ぎる。
 やはり当分の間は外出を控えさせた方がいいだろう。シュネーがここでの生活に慣れてきた頃、私が市井に連れて行ってあげればいい。
 護衛や警備は、それまでに必ず強化させておかなければ。


「――お兄様、この文字は何と読むのですか?」


 そんなことを考え込んでいると、不意にシュネーが絵本から視線を上げて問いかけてきた。

 くりくりと不思議そうに揺れる瞳が可愛らしい。頬がだらしなく緩むのを感じながら、シュネーが指さしている箇所を見た。
 指し示されたそこに描かれていたのは、姫と騎士が月の下で向かい合っているものだった。騎士が地面に膝をついて、姫に何やら乞うている。
 そしてその頁の一番下に紡がれた、短い一言。


「……"愛してる"」

「あいしてる…?」


 きょとん、と目を丸くするシュネー。
 もう一度絵本を見下ろすと、今度は納得したように一つ頷く。


「この騎士さまは、お姫さまのことが好きなのですね」


 騎士の絵を熱心に見つめながら、シュネーは瞳をキラキラと輝かせてそう言った。

 シュネーは、少年がよく読むような英雄譚などはあまり興味が無いらしい。
 それよりも、少女が好むような恋物語に心惹かれるようだ。確かにシュネーには野蛮な物語より可愛らしい恋物語がよく似合う。時折頬を染めて読む姿なんか天使そのものだ。


「お兄様、騎士さまはお姫さまに一目惚れしたとありますが、そもそも一目惚れとは何ですか?」


 ふいに問われたそれに瞳を瞬かせた。
 一目惚れとは何なのか、なんて深く考えたことは無い。確かに一目惚れとは何なのだろう。言葉通り、一目見て、惹かれてしまうことを言うのだろうか。


「うーん…出会って、顔を合わせて直ぐに、あぁ好きだなって感じた…ってことじゃないかなぁ」


 はぁ…と頷くシュネーだが、どこか納得出来ていない様子だ。納得出来ていないと言うよりは…理解出来ていない様子。


「…なるほど!」


 悶々とした顔で悩みこんでいたシュネーが、ふとハッとしたように目を見開く。どうやら悩みの答えを導き出せたようだ。

 スッキリした表情で頁を捲る手を再開するものだから、そのあまりの可愛さに思わず抱き締めてしまった。
 衝動のまま小さな体を膝の上に乗せるが、シュネーが抵抗する様子は無い。どうやら絵本を読むことに夢中らしい。可愛いが、危機感が無さ過ぎて少し不安だ…。

 柔らかい雪のような髪を撫ぜると、それはふわふわと指に絡み付く。
 暫くシュネーの柔い頬や艶やかな髪を堪能していると、やがてパタ…と絵本を閉じる音が聞こえた。


「…シュネー?」


 読み終わったのだろうかと覗き込むと、初めに無造作に放られた絵本が視界に入る。シュネーの膝の上に置かれたそれは、あと少し動けば床に落ちてしまいそうな程危うい位置にあった。
 それを回収して隣に移し、今度はシュネーの顔を覗き込む。案の定の光景に、思わず小さく微笑んだ。


「…ん…むにゃ…」

「ふふ…かわい…」


 こっくりと寝息を立てるシュネーを抱き上げ、肘掛に用意してあったブランケットで包み込む。
 書斎の扉を開けて廊下へ出ると、シュネーの護衛の為に待機していたユルゲンが近付いて来た。


「自室へ戻る。呼び出しは全て拒否しろ、シュネーが目覚めるまでは誰も部屋に入れるな」

「…はっ」


 一瞬唖然とした表情を晒したユルゲンだったが、直ぐに従順な反応を返した。

 腕の中で、ブランケットに包まれたシュネーが微かに唸る。抱き上げられた体勢のまま眠っては疲れも溜まるだろう、早く部屋へ戻らなければ。
 軽く頭を撫でてあげると、可愛らしく眉間に寄った皺がスッと直る。騒がしくして起こす前に戻ろうと足を進めて、数歩目のところではたと振り返る。
 静かに後を追っていたユルゲンに、そういえばと指示をした。


「少女向けの絵本を増やすように伝えろ。英雄譚のような野蛮なものは全て書斎から回収しておけ」

「は…?…っ御意!」


 間抜けな表情で固まるユルゲンをそのままに、早々に自室へと戻った。

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