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一章

18.醜い弟1(アンドレア視点)

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 母上が亡くなり、いつしかベルナルディ邸からは完全に光が失せてしまった。
 まだ微かな柔らかさがあった父上は厳格な人間になり、母上が居た頃は多少保たれていた平穏も、跡形もなく崩れ去った。

 本館には毎日のように、生々しい血の匂いが漂っている。
 母上が居たなら、このザマは一体何事かと邸全体に喝を入れていたことだろう。だが、その母も今はもういない。
 あの日から変わったことと言えば平穏を脅かすものばかり。その最たるものは、あの傲慢な継母と一度も姿を見せない“弟”の存在だ。

 突如としてベルナルディ邸に表れたあの女は、父が強くものを言えない実情を良いことに、毎日のように俺に罵声を浴びせてきた。
 あの女は父上に好意を寄せているらしい。そんな父上に愛された母上の腹から産まれた俺を、どうやら酷く憎んでいるようだった。

 この女を母に持つのだから、きっと弟とやらも同じような人間なのだろう。
 傲慢で、我儘で、俺の座を脅かす敵同然の存在。きっと未だ顔も見たことのない弟とやらも、継母のように醜い顔つきをしているに違いない。

 会ったことのない、六つ下の弟。
 継母からの度重なる嫌がらせに辟易していた俺は、いつしか醜い弟の偶像を創り上げ、その存在を酷く恨むようになった。



 * * *



 転機が訪れたのは二年前。
 その日は、外の空気が微かに重苦しかった。

 どうやらどこかのファミリーが抗争を引き起こし、朝っぱらから死人が大量に出ているらしい。側近から情報を耳にした時は面倒事の予感に酷く呆れたものだが、俺は重い腰を上げて外の様子を確認しに行った。

 だが、俺が現場へ向かった時には既に抗争は幕を閉じていた。
 鼻を刺激する血の匂いと、視界に広がる地獄絵図。父上への報告書が厚くなりそうだ、と溜め息を吐きつつ、俺はすぐに踵を返した。
 生き残った者に話を聞いてみると、どうやら問題事と呼べるものは特になく、強いて言えば前線で使っていた獣人奴隷が一匹逃げ出した程度らしい。

 深手を負っていたようで、恐らくどこかで力尽きているだろうとのことだった。
 それなら捜索は甘くても構わないだろう。そもそも獣人奴隷が逃げ出したところで、それは言ってしまえば『武器を一本紛失した』という程度のこと。
 使い手の立場からすれば、壊れた武器など探したとて時間の無駄。獣人奴隷の件は特に気にすることなく、邸への帰路についた。



 その件が終わっていなかったのだと気付いたのは、ベルナルディ邸の裏手……別館の門前を通り過ぎようとした時のことだった。


『……若様、別館の門前に何者かが倒れているようです』


 馬車で軽く血を拭っていた時、ふと馬車を止めてそう言ったのは側近のミケだった。
 ありきたりな茶髪を血で染めたミケは、警戒するように遠くの門前を睨み付けている。その“何者”とやらは若しや危険な存在なのか。俺もミケに続いて窓から門前を窺うと、確かに何かが血を流して倒れているのが見えた。


『あれは……獣人か?』


 その正体に驚いたのか、ミケは側近の皮を忘れたようにぽつりと呟いた。
 遠目でよく見えないが、言われてみれば確かに、その何者かには獣耳が生えているように見えた。状況から推測するに、恐らく例の抗争で逃げ出した獣人奴隷で間違いないだろう。

 まったくあの獣人も不幸なものだ。よりによってベルナルディ邸の門前で力尽きるとは。
 とは言えあの門は本館ではなく別館のもの。あの忌々しい弟とやらが住まう別館の門前ならば、特に手を出す義理もない。

 獣人奴隷の処分は別館の者に任せるか。そう淡々と考えた直後、ふいにミケが驚いたように上げた声で思わず硬直した。


『おい若、例の弟が出てきたぞ……!』


 ぴくっと固まった体をすぐに解し、ミケの指差す方向をそっと覗き見る。
 門前に倒れる血濡れた獣人奴隷……そのすぐ傍に、確かに小さな人影が近寄っているのが見えた。


『初めて見た、マジでいたんだな……若の弟』

『……』

『てか若にめっちゃ似てねぇ?すっげぇ美人じゃん!かわいい!』


 すっかり側近の皮を剥いではしゃぎだすミケ。
 そんなアホを軽く殴って静かにさせ、改めて窓を覗き目を凝らす。確かによく見ると、その姿には鏡で見た己の姿の面影があった。

 同じ至極色の髪とアメジストの瞳。だがそれぞれ違いも確かにあり、弟の髪は俺と違い柔らかさがあり、瞳は眠そうに垂れ下がり幼さが感じられた。


『……あれが、あの女の』


 俺の弟、とは間違っても呼べなかった。俺にとって例の弟という存在は、忌々しい継母の実子であり、恨みの対象だ。
 傲慢な継母の実子。そんな子供が下賤と言われる獣人を前にしてすることなど、想像せずとも明らかだ。

 一体どんな拷問をあの獣人に与えるのかと、侮蔑の視線を弟に向けた直後。
 小さな人影が起こしたのは、予想を大きく裏切るものだった。


『……何を』


 獣人の前にあろうことか膝をついたかと思えば、その小さな身体はちょこまかと忙しなく別館の中へ戻っていく。
 屈強な構成員を数人連れて戻ってきた姿を見て再び拷問の様子を想像したが、それも軽く裏切られ、数人の構成員は獣人を持ち上げて邸の中へ入っていった。

 その間も、弟はまるで獣人を心配するかのような視線を向けておろおろと体を揺らしている。
 強欲そうな表情も、傲慢そうな態度もそこにはない。構成員に関しては弟に血が触れないよう獣人から距離を離したり弟を抱き上げたりと、どう見ても弟を主として認め心酔しているようだった。



『あれが……俺の、弟?』



 呆気にとられた声がぽつりと零れる。


 俺が作り上げた偶像の醜い弟の姿は、視界のどこにもいなかった。

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