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一章
4.様子のおかしい殺人鬼
しおりを挟むスラム街を進むこと約二十分。
辿り着いたのは荒廃した街の奥の奥。そこにある広大なゴミ捨て場、通称『名無しの墓地』。
ゴミが腐るほど廃棄されているその場所には、スラムでの抗争や諍いで命を落とした、ならず者達の死体も多く遺棄されている。
噎せ返るような死の匂い。小説では、その強烈な空気に紛れ込むように、まだギリギリ命の灯が消えていない稀代の殺人鬼が瀕死の状態で身を隠していた。
そして今も、この名無しの墓地のどこかに彼がいるはずだ。
もうすぐ来る希望、小説の主人公である俺の兄、アンドレアを心待ちにして。
「……ガウ、ここに会いたい人がいる。朱殷色の髪の……生きている男を見つけたら報告して」
「御意」
袖で鼻を覆いながら指示を出す。分かっていて来たとはいえ、実際に生々しい死の匂いを前にすると少し足が竦む。
俺が現実で生きているのはこういう世界なのだと、それを痛いほど思い知る。こういう場面を前にして安堵する辺り、むしろ主人公周辺の裕福な家に生まれることが出来ただけ、俺は運が良かったのかもしれない。
獣人の優れた五感を活用しながら辺りを捜索するガウ。その姿をぼーっと眺めながら考える。
もうすぐ、アンドレアの味方となる予定の切り裂きジャックを此方側に引き込むわけだが……実はまだ、彼に掛ける言葉に迷っている最中なのだ。
小説で、実際にアンドレアがジャックを堕とす時に使った言葉をそっくりそのまま言えばいいだけなのだろうけれど……なんだか、なんだかなぁ……なんてモヤモヤがちょっぴりだけ。
俺の命がかかった問題。生存ルートを現実にするための大切な策の一つ。
迷っている場合なんて無いってことは、分かっているのだけれど。
「主様。朱殷の男を発見しました」
「……。えっ。もう?はやいね」
ぽつぽつと降り注ぐ雨に打たれつつ、シリアスな空気を纏っていた最中。
ふいに気配も無く戻ってきたガウに声を掛けられ、思わず素であわわっと驚いてしまった。いけないいけない、きちんとクールを演じなければ。
相変わらず無表情のガウの後をてくてくと追う。
確かに、彼のもとへ近付いている。それを自覚した途端ドクンドクンと鼓動が音を立てて、強い緊張と不安が湧き上がった。
小説では、ジャックが耳にした希望の音はアンドレアの足音だった。けれど今、きっとジャックの耳に響いているのは俺の足音だ。小説で彼を救った希望じゃない、俺という自分勝手なイレギュラーなのだ。
俺は今から、本来救われるはずのジャックの運命を棒に振る。
そう思うとなんだか怖くて、怖くて……けれど、生存の為ならそんなことも言っていられない。
「主様」
俯きがちに歩いていると、ふいにガウに呼び掛けられてハッと顔を上げた。
返事をすることなく首を傾げる。ガウは鋭い瞳を僅かに細めて、その視線を今度は大きなゴミ箱の影に向けた。
その視線を追って目を見開く。影に隠れるようにして倒れる一人の男、その男は、たった今全身から流す血の色と同じ、朱殷の艶やかな髪を地面に流していた。
「ガウ、さがれ。俺ひとりでいく」
珍しく間を空けてから聞こえた「……御意」という返事。
いつも即答で肯定を口にするガウのことを考えると、今の数秒の間が本当に珍しく感じた。
思わず視線を向けるけれど、そこにあるのはいつもと変わらない無表情。気のせいか、と首を傾げながら、俺はふいっと視線を逸らしてジャックのもとへ向かった。
* * *
名無しの墓地に逃げ込んだものの、もう先は長くないと瞬時に悟るほどの深い傷。
スラム街に絶望を呼んだ稀代の殺人鬼『切り裂きジャック』は、静かに生の終わりを受け入れて目を閉じた。
そこに響く一つの足音。地面に伏せたまま視線を上げたジャックの視界に映るのは、至極色の長髪を靡かせた、見目麗しい絶世の美青年……──
ではなく。
「……」
「……」
殺人鬼の真っ黒な瞳と、ちっちゃな体をした俺のアメジストの瞳がぱちっと交わう。
クールを演じている俺の顔は小説でのアンドレアと同じ、しっかり無表情に保っているけれど、正直目の前に殺人鬼がいるという事実が怖くてたまらない。がくがくぶるぶる。
えぇっと、小説の展開だとアンドレアはこの後たしか……とストーリーを必死に思い返してなぞるように演じる。
全ては悪役である俺の強敵となる切り裂きジャックを仲間にするためだ。アンドレアを演じるなんて、命がかかっていることを考えれば造作も無い。
「おまえ、俺の……こほんっ、俺の、俺の……」
切り裂きジャックに掛ける最初の言葉。
それは『貴様、俺のモノになれ』だ。生粋のマフィアである強かな主人公らしい、とってもクールで俺様なセリフ。
小説を読んでいた時は何そのセリフかっけー!とよく思っていたものだ。
けれど……なんだろう。実際に自分が言うとなると、なんだかちょっぴり恥ずかしい。初対面で相手を自分のモノ扱いって……なんて、元日本人の謙虚な思想が邪魔してしまう。
ちょっぴり顔を火照らせてあうあうと言い淀む俺を見上げ、ジャックは何やら訝し気に眉を顰め始めた。これはまずい。完全に怪しまれている。
えぇいままよ!これはもう言うしかない!あうあうと情けない姿を見せ続けるよりかは、何でもいいからとにかくセリフを吐いた方がいい。
そう判断し、俺はぎゅっと目を瞑ってくわっと言葉を放った。
「お、おまえっ……俺の“家族”になれ!!」
あっやべ。そう思ったのは、言葉を全て紡いだ後だった。
間違えた。完全にセリフを間違えてしまった。
サーッと青褪めた顔を恐る恐る上げる。ジャックはぽかんと間の抜けた表情を浮かべて硬直していて、まるで俺とジャックの周辺だけ時が止まったかのような錯覚を受けた。
「あっ、あ、あぅ……ちがくて、その……」
まずい。クールな仮面が剥がれてきている。立て直さないと。悪役ルカ・ベルナルディのとっても怖い表情を思い出さないと。
むむっとクールな表情を思い出しながら、今のミスをしっかり反省する。
違う、本当に違うのだ。俺はただ、アンドレアの本来のセリフである『俺のモノになれ』をちょっぴり崩したくて、フランクな感じに変えたくて……。
それで、仲間とか友達とか色々な呼び方を思い付いたはいいものの、なんだかしっくりこなくて……。
そして、俺はやがて閃いてしまったのだ。『モノ』よりちょっぴり穏やかな言い方を。
マフィアは自分たちの組織……自分たちの家の人間を構成員も含めて『ファミリー』と呼ぶ。
だから、俺が言いたかったのはつまり『お前、俺のファミリーに入れ』という意味だったのだ。
それをそのまま言えばよかったというだけの話なのに。俺ってば、緊張しすぎて色々と言葉を端折ってしまったのである。はわわ……。
「──か、ぞく?」
慌てふためく中、雨音に紛れてふと聞こえた声にハッと動きを止める。
そーっと見下ろすと、地面に伏せるジャックが何やら瞳に雨粒を溜めているのが見えた。
頬にもたくさん雫が伝っているし……雨粒が目に入ったら痛そうだなと思って、俺は慌てて膝をついて手を伸ばした。
そこで二度目のやべっが起こる。そういえばアンドレアは高貴なマフィアとして、自分より下の身分には絶対に膝をつかなかったんだった。こんなことしたら、ジャックに舐められて逃げられてしまうかもしれない……。
「ぐぬぬ……」
けれどそんなことを今更考えても後の祭り。
もう既に膝をついてしまったのだ。思わず投げやりな気持ちになって、もう知らん!なるようになれ!と思い切ってジャックに触れた。
ジャックの瞳を覆う雫をハンカチで優しく拭って、うむうむと満足気な笑みを一つ零す。けれど雨はジャックの目元を正確に狙っているのか、何度も何度も黒い瞳が雨粒で滲んでしまった。
こりゃあだめだ、拭っても拭っても雨が邪魔をする。
そう考えた俺はすかさず作戦変更。ジャックの瞳を雨から守るために、ぎゅっと頭を抱え込むように抱き締めてあげた。
よし、これなら雨を防げること間違いなし。俺ってば超クール。大天才。えっへん。
「貴族の子だろうに、膝をついて、涙を拭って……それだけじゃなく、抱き締めてくれるなんて……」
「……む?」
「僕の、僕だけの天使……」
ふいに何やらジャックが声を発した気がしたけれど、雨音がザーザーと強くなって何も聞こえなかった。
どうしよう。きっと『このガキ、身分の低いヤツにも余裕で膝をつく甘ったれ小僧だな。いいカモになりそうだぜ、ケッケッケ』とでも思っているのだろう。
クールなマフィアを演じるつもりだったのに。しょぼん……。
うぅ……もう知らん。結局アンドレアを完璧に演じることは出来なかったし、ジャックとの出会いシーンはぐちゃぐちゃのゴタゴタになってしまった。
俺は失敗したんだ。兄への媚売りが成功しなければ、俺は予定通りこの殺人鬼ジャックに殺される。そうして母と共にストーリー退場となる運命なのだ。
こうなったらヤケだ。絶対受け入れてもらえないだろうけれど、当たって砕けて諦めよう。そうしよう。
自暴自棄にそう考えて、俺は問いを口にした。諦めの色が籠った、お世辞にもマフィアらしいとは言えない情けない口調で。
「あ、あのね……かぞく、なってほしいの……だめ……?」
うるうる。涙をためたしょんぼりとした顔で言う。
クールな仮面はとっくに壊れた。玉砕覚悟でした問いに、ジャックが返した答えは。
「──……家族は愛し合うもの、だよねぇ?」
「へ……う、うん。そうだよ……?」
聞こえた小さな問いにこくりと頷く。その通り、家族とは愛し合うものだ。
……あれ?『ファミリー』の場合は違うんだっけ?うーん、まぁいっか。
「それじゃあ、僕を愛し尽くして?僕だけの天使……僕のちいさな、ご主人様……?」
視線で追うことすら出来なかった。
瞬きの後。気付けば俺を押し倒して覆い被さるようにして四つん這いになっていたジャック。
彼は微かに狂気の滲んだ火照った頬をにへらぁっと緩め、耳元でそう囁いた。
「は、はぇ……」
どうしよう。何かがおかしい。
アンドレアがジャックを拾った後は淡白な主従関係となり、お互い仕事以上には干渉することはなかったと小説に書いていたはずなのに。
何やら歪んだ感情が籠っていそうなこの瞳からは、主との淡白な関係性なんて微塵も感じられない。
まずい、非常にまずい。
どうやら俺は、ジャックに関するストーリーを完全に捻じ曲げてしまったようだ。
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