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【聖者の薔薇園-終幕】
286.ぴんちと影と皇太子(後半グリードside)
しおりを挟む「や、やっぱり下りる……」
ぱたぱたと足を動かして抵抗するけれど、ライネスの抱擁は見掛けに反してピクリともしないくらい力強い。諦めてしょぼんと力を抜くと、頭をよしよしいい子いい子と撫でられた。完全に舐められている。むっきー。
むすっと頬を膨らませて眉をぬーんと顰める。ジト目でそろりと見上げ、ライネスの予想外の表情にハッと目を見開いた。
愉快気な笑みか、若しくは穏やかな笑顔か。どちらにしてもむっきーだと思いながら移した視線の先には、今にも泣きそうな悲痛の表情があった。
悲痛と言うよりは、感極まったようなそんな感覚。静かに一筋だけ頬を伝う雫に胸がきゅっとなって、思わず僕もゆらりと瞳を揺らしてしまった。
「ライネス……?」
「……っごめんね、ちょっと、待って……」
片手で目を覆って唇を引き結ぶライネス。
静かな空間に小さな嗚咽が響いて、それを聞くと胸が締め付けられるから。だから僕は両腕を伸ばし、たらんとなっていた足でむぎゅっと腰に抱き着いて、コアラみたいに強く抱き着いた。
流石にこの状況なら、ライネスの涙の原因が自分であることは察することが出来る。僕はここにいるよって、そう伝えてあげないといけない状況なのだということも。
ふわっと揺れる髪にライネスの顔が埋まって、そこから嗚咽が零れて聞こえる。至近距離で誰かの悲痛を感じるのは意外と胸が苦しくて、僕までぐすんと唇を八の字に歪めてしまった。
「っ……」
「目の届く場所にいて……隣じゃなくていい、傍にいて……」
隣でなくとも、傍に。その言葉の意味を正しく理解する前に、涙を拭ったライネスにすとんと床に下ろされてしまった。
見上げると既に表情はいつもの穏やかなものに戻っていて、さっきの泣きそうな表情はどこにも無い。きょとんとすると同時に、今度は後ろから伸びてきた腕にひょいっと捕獲されてしまった。
「なに逃げてやがるアホチビ。ちょこまか消えやがって、そんなに閉じ込められてぇか」
「ひぇ……」
「分かってくれフェリ。兄様はフェリのことが大切で、心配なんだ」
額に青筋を立てるガイゼル兄様と、無表情でちょっぴりしゅんとしているディラン兄様。二人とも僕のことを心配してくれているのはよくわかった。わかったけれど、うーむ……ちょっと過剰すぎるかなぁなんて……。
心配してくれるのは嬉しいけれど、流石に閉じ込められるのはちょっと、ちょっと……。二年も行方不明になっていた身で偉そうな立場に立つことは出来ないけれど、それでも拘束やら監禁やらは勘弁してほしいところだ。
誰か助けてくれないかなーなんて冷や汗たらたらしながら見渡す。
ローズは兄様達の言葉に無言でうんうん頷いているし、トラードは完全に他人のフリでそっぽを向いている。なんてこった、感動の再会をした仲だというのに薄情すぎる。
どうしようもないのでちょっぴり怖いライネスにちらりと視線を向けてみる。にこっと笑顔が返ってきて期待した直後、ライネスはとっても優しい声で穏やかに言った。
「これで安心だね」
「なっ……!」
「しっかり反省しようね、フェリ」
皆の方では二年も経っていたなんて知らなくて……これは全部不可抗力で……なんて言い訳は出来無さそうな雰囲気。
ライネスの容赦ない笑顔に突き放され、ぷるぷると震えながら諦めてがっくしと項垂れた。
* * *
帝都から遠く離れた国境付近の農村。
そこに訪れた皇太子とその一行は、村近辺の森で長年放置されていた魔物の住処の殲滅に挑んでいた。
住処となっている洞窟は全部で三つ。二つに皇太子一向の騎士達が向かい、一番強い魔物が潜んでいるというもう一つの洞窟にはシモン様が単身で向かった。
前世で関係があったのか、皇太子とシモン様という異様な組み合わせが増えたのはここ二年間のことだ。
前世の汚名返上なのか、これから皇帝となる上での支持を集める為なのか。二年前から帝国各地を巡り始めた皇太子。そんな皇太子と何やら取引をしたらしいシモン様は、姫の捜索と鍛錬の為に暇が出来るたび彼らの魔物討伐に加わるようになった。
「君は行かないのですか?」
シモン様が消えていった洞窟を見据えつつ欠伸をした瞬間。手前に立っていた皇太子が不意に振り返り、微笑を浮かべたままこてんと首を傾げた。
お前は何しに来たんだと言わんばかりの笑顔だ。気持ちは分かるがどうか弁明を聞いてほしい。
「俺も行く気満々だったんすけどね。最近腕が鈍ってるから一人でやりたいって言うもんですから仕方なく待機してるんです」
「連日魔物との交戦に精を出しているのに、腕が鈍っていると?」
「まぁシモン様はストイックな人なんで!やっぱ凡人とは価値観が違うんじゃないっすか?」
へぇ、と目を細める皇太子。
と言うかこの人は行かないんだろうか、なんて皇太子相手に思うにはあまりに不敬なことを考えた途端。チラリと視線を向けてきた皇太子が微かに口角を上げて語った。
「体力温存ですよ。私には民との交流という最も大切な任務が絶えず舞い込んできますので」
「……なるほど?」
「騎士は私から報奨を受け、私は民から支持を得て、民は皇太子から絶対の安寧を授かる。効率的な方法を実行しているだけです」
それは結局サボっているということなのでは……。
そんな疑問がまた湧いてしまったが、口にも顔にも出さずにぐっと飲み込んだ。世の中には触れなくていい真実もあるのだとシモン様に教わったから。
「なんか、この二年で更に腹黒くなりましたよね」
「それを本人に告げる愚直さは評価しますよ」
あ、と硬直して誤魔化すように愛想笑いを一つ。思ったことをそのまま口にするのが悪い癖だと、シモン様から毎度毎度説教をされているというのに。
まぁとは言え、口に出すのがアレなだけで別に嘘とかではない。皇太子が二年前よりもずっと腹黒くなったのは本当のことだ。
前世を思い出す民が増えたことによって、同時に皇族への不信感も増加した。まんまとマーテルに洗脳され、姫という罪の無い少年を無惨な結末まで追い込んだ戦犯なのだから、当然と言えば当然だが。
皇太子はそんな状況から脱却すべく、すぐに民との交流を開始した。お得意のキラキラスマイルをフル活用した粗雑な方法だったが、かつて神の子と呼ばれるほどだった美貌は簡単に役立ったらしい。
帝都や近郊のみならず、国境付近の村や集落も一つ残さず訪れた皇太子一向。交流だけでなくそこでの問題や住み着く魔物の一掃までして去るものだから、皇族への評価はともかく皇太子への支持は右肩上がりで増え続けた。
最近は皇帝がほぼ影と化し、国民達は皇太子の皇位継承に大いに期待を寄せている。
流石に皇位継承となれば慎重になるため、皇太子の若さや政務経験の少なさを考慮して継承はまだまだ先となるだろうが。
「ていうか、ここまで支持が増えたんだからもう各地を巡るのやめても良いんじゃないですか?殿下が皇位を継承する未来はもう確定したも同然ですし」
何故未だ各地を巡り続けているのか。ふと抱いた疑問を口にすると、皇太子は途端に笑みを消して真剣な表情を浮かべた。
「いえ、そういう訳にはいきません。発展していない村々を含め、各地を巡って思い知りました。帝国にはまだまだ問題が多く残されている、改善すべき現状が続いていると」
「……」
「私はまだまだ皇帝を名乗るに相応しくない未熟者でした。帝都に籠っていれば気が付かなかった事ばかりです。この機会に、帝国各地に残る問題を全て把握しなければ」
あぁそういうことか、なんて。皇太子の真剣な姿にふと腑に落ちた。
皇太子が民達を魅了出来るのは、例の完璧な仮面だけが理由じゃない。根底にある絶対的な誠実さと、弱きを救う価値基準と覚悟。そして、これぞ皇族と呼ぶに相応しい強い信念だ。
ただの腹黒皇子かと思ったら、そうではなかったのか。
この皇太子が後の皇帝なら、帝国の未来は安泰に違いない。なんて密かに思いつつ洞窟に視線を戻した瞬間、突然何処からか強い風が吹いた。
「殿下。緊急のご報告が」
驚きながらも風を防いで視界を開くと、そこには皇太子の護衛騎士の姿があった。
申し訳ないがとんでもない変態という印象しかないその大柄な騎士が持っていたのは、大きく『号外』と書かれた新聞紙。
「これは……?」
「つい先ほど発行されたばかりの号外です。少し先の開けた道で配られておりました」
「……君、やけに姿を見ないと思っていたらサボっていたのですね」
「いえいえまさか。偶然開けた道に出て、偶然号外を受け取っただけです」
相変わらず無表情且つ淡々とした声音の変態……いや、護衛騎士。
恒例の口論を経て新聞を開いた皇太子は、すぐにハッと目を見開いて硬直した。
号外と言うからにはビッグニュースが乗っているのだろうが、それほど驚く内容とは一体何なのかとても気になる。
皇太子と護衛騎士の背後からそろりと覗き込み、見出しに書かれた文章を読んであんぐりと目を見張った。
数秒後に硬直を解きぱっと顔を上げる。混乱する頭の中、大声で叫びながら洞窟に飛び込んだ。
「シモンさまーー!!」
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