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攻略対象file3:冷酷な大公子
71.覚醒
しおりを挟む「……あなた、私のことを優しいと言ったでしょう」
「はい。大公妃様は優しいです」
不意に問われて小さく頷く。その言葉に嘘は無いのだと真っ直ぐ見据える僕に、大公妃は一瞬眩しいものを見るかのように瞳を細めた。
「…私は優しい人間では無いわ。身勝手で…弱い人間よ。けれど…あなたは優しいのね」
掠れた声。まるで鉛のような重苦しい声に、ふと違和感を抱いた。
酔っているにしては何かがおかしい。霞んだ意識を持て余すような様子の大公妃に視線を向け、やがて違和感の正体に気が付いてハッと息を呑んだ。
「大公妃様…!」
ガタッと大きな音を上げて立ち上がる。反射的に発した声は廊下にも届いたようで、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
僕の名前を叫んで駆け込んで来たのは、焦燥を滲ませた様子のシモン。シモンは僕達の姿を視認すると、目を見開いて固まった。
「フェリアル様、これは一体…!?」
我に返り駆け寄って来たシモンは、ソファに力無く倒れる大公妃を見て困惑の声を上げた。
「わからない…突然、倒れて…っ」
僕のことを優しいと語って、小さく微笑んだ直後。大公妃は柔らかな表情を保ったまま、突然ふらりと倒れ込んだのだ。
ソファに沈む大公妃の表情はとても穏やかで、けれど酷く青褪めている。その対極さがやけに鮮明で生々しくて、鼓動が大きく嫌な音を立てた。
混乱することしか出来ない僕の傍で、シモンは鋭い視線を室内の隅々に行き渡らせる。ふとテーブルに置かれたワイングラスに目を留めたシモンが、何かが気になった様子でグラスの下のコースターを持ち上げた。
コースターの下に隠されていたのは、青紫色の粉が包まれた薄い紙。まるで誰かに見つけてもらうことを前提としているかのような隠し場所だ。
「フェリアル様、これって…」
「っ……!」
唖然とした様子で語り掛けてくるシモン。浮かんだ仮説と今までの思考の誤りに気付き、ようやく頭が冷静になった。
「…。…シモン、ライネスを呼んで、それとお医者様も」
「…分かりました。けど、フェリアル様は…」
「僕は待ってる。僕よりシモンの方が…上手く説明、出来ると思うから」
シモンはこの状況を素早く、それに加えて正確に理解したはずだから。
静かに告げて大公妃に向き直ると、シモンは何も言わずに部屋を出て行った。遠ざかる足音を聞いて床に座り込み、大公妃の青白い手をぎゅっと握る。酔いが回って熱くなっていたはずの手は、氷のように酷く冷え始めていた。
応急処置をしようにも、この青紫色に染まった粉は解毒が効かない猛毒だ。寧ろ下手に体を動かしただけで全身に毒が回ってしまう、裏でも高額で取引されるという幻の毒。
ゲームでとある攻略対象者が使っていたものだから、この毒についてはよく覚えている。
「違ったんだ…」
弱い声が漏れる。それと同時に視界が滲み、ぎゅっと握り締めた手にひとつふたつと雫が零れ落ちた。
違った。予想が全て外れていたどころか、前提から間違っていた。
僕は勘違いをしていたんだ。大公妃の死は『見るも無残な姿』と語られていたから、てっきり暗殺者か何かを仕向けられて殺されてしまったのだと思っていた。
けれど、違った。大公妃の死の真相は、事故死でも病死でも他殺でもなかった。
今思えば、警戒心が強いはずの大公妃が、護衛も侍女も連れずに一人になったのは不自然だ。そして何より、隠し通す気の無いコースターの下の毒。
大切な人を失う不安を抱えて、孤独な毎日を過ごして。
ついに限界が訪れて、耐え切れなくなってしまったのだろうか。
『どうせ届いたところで意味が無いもの』
ふと、寂しそうに呟いた大公妃の言葉を思い返す。
その言葉の真意を、僕はようやく理解した。
「大公妃様…」
ぎゅっと握った手を僅かに離す。石のように硬直が始まり、一本の亀裂が入り始めた皮膚。毒の正体は考えているもので間違いなさそうだ。
ゲームで語られていた『見るも無残な姿』とは、このことを言っていたらしい。
幻の毒とも呼ばれるこの毒は、ウェーヌム草という希少な毒草から作られる。原材料そのものが存在の希少なものである為、一般的にはおろか裏でも滅多に流通されていない。
しかしその分効果は凄まじく解毒手段も無いため、確実性を重視する暗殺には重宝される代物。この毒の成分そのものを消し去ることが出来れば事実上の解毒が可能だが、それが出来るのは聖魔力を持つ聖者だけ。
つまり、大公妃を救う手段はひとつも無いということ。
そしてそれ程までに危険なその毒には、もう一つの最悪な効果がある。
指先と足先から徐々に体が石化していき、壊死するかの如く亀裂が入って崩れていく。それこそがこの毒の真の恐ろしさだ。
『見るも無残な姿』と呼ばれていた理由がようやく分かった。確かにこの毒を使うのなら、死後は無惨な姿になるに違いない。
「…そんな…」
一度見てしまえば、脳は勝手に最期の瞬間を想像する。この手だけでも相当な衝撃だというのに、これが全身に行き渡って崩れるとなれば…想像しただけで恐ろしい。
その姿を、ゲームでライネスは見たのだ。母の死を、無惨な死の姿をその目で。それはどれほど辛いことだったろうか。
少しでも悲劇の一端を止めようと、ライネスの苦しみを減らせるようにと動いたけれど。僕は理解していなかったんだ。
一連の出来事が『大公家の悲劇』と呼ばれる所以。その本当の悍ましさを。
「…。…だめ…大公妃さま…」
細い手をぎゅっと握り締める自分の手が震え始める。ようやく状況を感情で理解した。
つい数秒前までは、酷い混乱の所為で逆に冷静さを保つことが出来ていた。
頭でも感情でもこの状況の惨さを理解した今、確かな焦燥がじわじわと湧き上がってくる。着実に壊死を始める毒が大公妃の体を蝕んで、ハッとした時には既に手首まで亀裂が入り始めていた。
圧倒的な『死の運命』を前に、どうすることも出来ないという絶望、無力感。
視界は滲んで涙は溢れ続ける。ぽつりぽつりと大公妃の手に落ちる雫を虚ろに見つめながらも、硬直する手を離すことだけは決してしなかった。
「母上!!」
ただ静かに座り込んでいると、不意に大きな足音が聞こえてきて誰かが勢いよく部屋に駆け込んで来た。
振り返る前にその人が傍に近付いて、僕の隣に力無く膝をつく。「母上…?」というか細く震えた声が聞こえて視線を向けると、そこには呆然とした表情を浮かべるライネスが居た。
シモンの気配が感じられないのは、医者を呼びに行っているからだろうか。
「これは…どういう…っ、…何が…何故…?」
混乱している様子のライネスが、ふと壊死の進む大公妃の腕に気付く。息を呑むと周囲を見渡し、グラスの傍にある毒を見て目を見開いた。
ライネスも状況の理解が早い。全てを悟ったのだろうライネスは、揺れる瞳を大公妃に向けた。
「母上……」
結局、ゲーム通りになってしまった。
大公妃は亡くなり、その瞬間をライネスが見てしまう。見るも無惨な姿と語るあの場面は、本編開始後に忠実に再現されることだろう。全て運命の思うがまま、シナリオ通りに進んでしまった。
こんな絶望的な状況からの打開は不可能だ。僕は聖者でも主人公でもない、未来に背を向けられた悪役なのだから。奇跡だって僕を救ってはくれないだろう。
無力感を抱え、唇を噛み締めた直後。
不意に何かに気付いた様子のライネスが「亀裂が…!」と大きな声を上げた。
ついに崩れ始めたのだろうかと嫌な鼓動を立てながら、ライネスが驚愕の目を向ける手を見下ろす。それは僕がぎゅっと握っていた方の手だった。
「……は…」
ついさっきまで石化が進み、亀裂が入り、そして崩れそうになっていた大公妃の手。
それが何故か嘘のように綺麗な手に戻っていた。
それだけではない。指先から徐々に肌の亀裂が消えていき、それは肘の上くらいまで進んでいた毒を追うようにして続いていく。
全て、僕が触れている大公妃の左手から。
「なんで…」
この毒に解毒手段は無いはずなのに。
事実上の解毒が可能なのは、聖者が持つ聖魔力によるものだけ。それなのに、どうして大公妃の毒が消え始めているのか。
心なしか、見開いた目から零れ落ちた涙で更に解毒が進んでいるような気がした。
呆然とする僕とライネスをよそに解毒は着々と進む。
やがて壊死の速度に追い付くと、その部分から突如小さな光が現れ、それは徐々に目が眩むほどの強い輝きへと変化した。
「フェリ…!!」
何故だか手を離してはいけないような気がして、強い光から逃れることなくその場に留まる。
驚いた様子のライネスが僕に手を伸ばしたけれど、それが届く前に光に呑み込まれてしまった。
目の前が強い光で真っ白に染まった後。
完全に亀裂の消えた大公妃の姿が見えた瞬間、突然酷い疲労と倦怠感が体に重く伸し掛る。
やがて全身が光に溶け込むかのような感覚と共に、意識がふっと途切れた。
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