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後日談

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 どうして彼がここに……?

 驚愕の表情をあらわに立ち上がると、公爵様は乱れた呼吸を整えながらゆっくりとこちらに近付いてきた。
 呆然と立ち尽くす僕の数歩先で立ち止まった公爵様は、まるで僕に触れることを躊躇するかのような迷いを見せる。いつも惑いなど一切無く、真っ直ぐに目の前を見据える視線。それが今は何故か大きく揺れていた。


「……良かった。部屋に戻ったら君が居なかったから、若しや逃げたのかと不安で……」


 ここにいたのか、と語る公爵様の瞳に安堵が宿る。
 ほっと息を吐く姿にまた瞬いて、その言葉の真意を必死に考えた。僕が部屋にいなくて、不安を感じたなんて。普段の彼からは絶対に出ない言葉だ。
 それに、逃げたってどういうことだろう。僕が公爵様から逃げる、なんて……そんなの、絶対にありえない。むしろ彼の方が、立場に縛られて僕から逃げられずにいるだろうに。
 僕という枷から逃げることが出来ず、今もなお愛する人を想いながら絶望の底に沈んでいるだろうに。

 それなのに、彼の瞳からはどうしてか絶望なんてものは一切感じない。
 僕を見つけたことにただただ安堵したかのような、そんな温かい色を宿した瞳。


「……君が消えたという事実そのものが、君の答えなのかと思った」


 ぽつりと零された言葉に目を見開いた。
 僕が消えたという事実が、僕の答え。僕が彼に『待ってくれ』と告げた、その答え……?

 分からない。彼の言葉の意味が、彼の真意が分からない。
 どうして彼が今、そんなにも切実な色の籠った表情を浮かべているのか。何もかもへの理解が追い付かないから、頭が混乱する。彼は今、一体なにを考えているのだろう。
 どんな心情で、僕をそんな瞳で見つめているのだろう。


「セディ。君に近付いても、良いだろうか」


 呼び掛けの声と呼び名にハッとした。
 目も口も大袈裟なくらい大きく開いて、間の抜けた表情を晒しているという自覚はある。けれど、どうすることも出来なかった。今はそんなことよりも、彼が僕に向かって紡いだ呼び名への衝撃の方が大きかったから。

 彼は確かに、僕を『セディ』と呼んだ。
 それは僕の愛した……今でも愛する彼、ギルが呼んでいた名だ。公爵様は知らない、ギルが紡ぐ僕の呼び名。
 どうして彼が、それを。


「……」


 呆然と黙り込みながらもなんとか小さく頷く。
 すると彼は安堵したように微かに頬を緩めて、ゆっくりと僕の傍まで近寄ってきた。僕の反応を窺うように繊細な動きで、そっと手を伸ばす彼を静かに見つめる。

 僕が抵抗も拒絶もしないのをほっとした様子で眺めて、やがて彼は僕の頬にゆっくりと手を添えた。
 普段の冷徹な態度は微塵も感じない。まるでギルのような……優しい温もりが籠った手に視界が滲む。本当に、かつての彼が戻ってきたかのような錯覚を受けた。


「ギル」


 思わず口にしてしまったその名にハッと息を呑む。
 彼にはあの頃の記憶がないのだ。それなのに、僕なんかが愛称を呼んだら怪訝に思うはず。そして、嫌いな僕が愛称を紡いだことに嫌悪することだろう。お前なんかがその名で呼ぶなと。
 僕への嫌悪が滲んだ表情。そんな顔を見るのは辛い。反射的に顔を伏せて口を噤むと、途端に静寂がその場を包んだ。

 頬に添えられた彼の手がぴくっと反応したきり動かなくなる。
 公爵様は今、一体どんな表情を浮かべているのだろう。想像するだけで体が震えて、更に深く俯いた。


「ご、ごめんなさ……っ」


 とにかく、彼に不快感を抱かせたことを謝らないと。
 混乱する頭で初めに思ったのはそんなことで、僕は思考も定まらないままに伏せていた頭をぐっと下げた。
 その瞬間、ふいに頬に触れていたはずの手が動き出した。

 目で追うことが出来ないくらいの速さで後頭部に移動したその手がぐっと僕の体を引き寄せる。目の前を公爵様の広い胸が覆って、気付いた時には、僕は彼の腕の中にいた。


「へ……?」


 ぽかんと目を丸くして硬直する。
 数秒固まった後、じわじわと我に返りながらそっと視線を上げた。
 突然僕を抱き寄せた彼の真意が、いよいよ本格的に分からなくなってきたものだから。だから、普通なら忙しなく慌てているはずのこの状況も、何となく冷静に受け入れることが出来たのかもしれない。


「あ、の……公爵、さま……?」


 徐々に状況を理解してじんわりと赤く染まる頬。
 ドクドクとうるさいくらいに高鳴り出す鼓動をなんとか抑えながら声を上げると、ようやく彼にも動きが見えた。


「やはり、君はあの頃のことを……覚えているのか……?」


 あの頃。覚えて……。
 彼の言葉に、さっきまでドキドキと高鳴っていた鼓動が違う意味でドクンと大きな音を立てた。

 どうして。それじゃあ、その言い方じゃあまるで、まるで……。
 公爵様も、十年前のあの日々を覚えているみたいじゃないか。


「あぁ、セディ……」


 揺れる瞳をぎゅっと瞑って呟く彼。公爵様……いや、ギル……?
 まだいまいち理解の追い付かない頭をなんとか動かし、思考を巡らせる。彼からの抱擁に顔を赤くしつつ、なんとか言葉を紡いだ。


「公爵様……ギルも、あの時のこと、覚えているの……?辺境で一緒に過ごした時の、ことを……」


 今の彼は『公爵様』というよりも『ギル』に近かったから、思わず敬語も外して緩い口調で問い掛けてしまった。

 すぐに不敬に気付いてハッと口を噤むけれど、意外なことに彼が眉を顰めることはなかった。いつもなら、僕が近付くだけで険しく顔を歪めて立ち去ってしまうだろうに。
 今はその真逆。むしろ僕の言葉に感極まった様子で頬を紅潮させて、彼は更に抱擁の力を強めた。


「でも……それじゃあどうして……僕の気持ち、わかってるのに……政略結婚なんて……」


 彼はあの頃のことを覚えている。つまり、公爵様はギルで、ギルは公爵様で……。
 優しい彼の面影があるなら、記憶があるなら、どうして彼は僕のことをこんなにも苦しめるのだろう。ギルは優しい人だ、他人の気持ちを利用するような人じゃない。
 けれど実際、彼は僕の気持ちを利用した。自分のことを滑稽なまでに慕う僕の恋心を嘲笑うかのように、公爵様は……ギルは僕を利用した。

 そう考えると、不意に身を切り裂くような激痛が心を襲った。
 大好きなギルがそんなにも冷酷な人だったなんて、僕は信じたくない。公爵様とギルをどこかで別人として捉えていたからこそ、今まで僕は耐えることが出来ていたのに。
 記憶も全て残っている、ギルと公爵様が完全に重なった今、この痛みは耐え切れない程のものに変わってしまった。

 公爵様が短く息を呑む。僕の言葉にぐっと眉を寄せて目を瞑る姿に瞬いた。
 どうして、どうして彼がそんな苦しそうな顔をするんだ。苦しいのは僕の方なのに。

 まるで……失恋したのは自分だとでもいうような。


「……すまない。君がフロスト令息を慕っている事を知っていたというのに、私は君の想いから目を逸らし、強引に自らの懐に引き寄せてしまった……許されざる事だというのは、重々承知している」

「…………?」


 一瞬、彼の重い空気に流されそうになったが直ぐに持ちこたえた。

 どうして突然バージルの名を?
 僕がバージルを慕っているって、どういうことだろう。そもそもバージルは兄の婚約者だし、彼とは本当の兄弟のような間柄なのに……?


「それでも……どうしても、君を諦めることが出来なかった」


 君。彼は確かにいま、君といった。君というのはつまり……目の前にいる僕のことで……って。


「皇女様じゃなくて……僕?」

「……?何故、突然皇女の話になるんだ?私は今、君のことしか考えていないのだが……」


 重い空気が完全に霧散する。
 お互いに頭上にハテナを浮かべて硬直すること数秒。やがて二人同時にまさか……と蒼白の表情を浮かべた。


「き、君は……フロスト令息を慕っているのだろう?だと言うのに、私が君を諦められず、君を横から攫うような真似をしたから……だから、君は私を恨んでいるのだろう……?」

「恨んでいるのは公爵様でしょう……?公爵様は皇女様を愛していたのに、僕が身の程も知らず公爵様を愛してしまったから……」


 名ばかりの妻が鬱陶しくも自分を愛してきたから、僕を嫌っていたのだろう。
 そう言うと、彼はいつもの無表情を完全に崩してぶんぶんっと首を横に振った。



「そんな筈無いだろう……!私は君を愛しているのだから……!」



 庭園の花々がまるで笑い声を上げるように風に強く揺れた瞬間、彼は嘆くようにそう叫んだ。

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