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後日談

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 鋭い瞳孔が此方を射抜く。
 諦念を選んだ頭でも生きる為の本能は諦めを知らなくて、僕はとにかく視線を真っすぐ返した。目を逸らしたら終わりだ。それだけは明確に察した。

 数匹の狼が草木を掻き分けて近付いてくる。今は動くことも出来ないから、生死は完全に運に委ねられた。


「…こんなことなら…」


 人って本当に愚かだ。いや…僕が愚かなだけか。
 こんな時になって初めて、本気で後悔するなんて。あの時ああしていればとか、やっぱりちゃんと伝えていれば良かったとか。
 どうせいつ死ぬかなんて誰にも分からないのに、時間は無限であると無意識に誤解して、うじうじと悩みを永遠引き摺っていた。その事実をようやく自覚する。


「何も思わないだろうなぁ…」


 僕がここで死んだとしても、彼はきっと何も思わないだろう。そんなことを呑気に考えて憂鬱になった。
 そもそも、こんな森の奥深くで死んでしまったら生死すら誤解されそうだ。食人植物に喰われて殺された…って、今頃きっと邸の皆はそう思っている。僕が帰る前に公爵様が戻ったら、勿論そうやって報告されるだろう。

 そうしたら、きっと僕は探されることも無く。彼が僕を探すことも無く。
 僕は一人ひっそりとここで死ぬ。誰にも知られず、たった一人で。

 ……あぁ…本当に言っておけばよかった。


「……」


 後悔に苛まれながら指輪を見下ろした瞬間、不意に狼達が勢い良く地面を蹴り上げた。
 のそりと顔を上げると、そこには一直線に迷いなく走ってくる狼達の姿。どうやら完全に僕を獲物として認識したらしい。

 目の前に鋭い牙が迫り、それでもおかしなくらい焦燥は湧かなかった。頭も心も酷く冷静に、自分の結末を明確に察する。
 霞んだ意識の中、小さく掠れた声が口から零れた。



「………ギル」



 全てがスローモーションのように過ぎる。
 脳裏に浮かんだのは、不器用ながらも穏やかな優しさを見せる、遠い昔の彼の姿だった。
 公爵様のことは勿論慕っているけれど、やっぱり僕は"ギル"のことが忘れられないらしい。

 あの時の彼は少し窮屈そうで、疲労を抱えているように見えた。
 あんなにも彼の幸福を願っていたのに、それを潰したのは他でもない僕だ。愛する人と結ばれない未来が確定しているというのに、加えて僕なんかと結ばれることになるなんて。
 今もこうして迷惑をかけて、僕は彼の為になることを何一つ出来なかった。本当に、後悔しかない。

 お荷物がいなくなったら少しは気楽になるかな、なんて思いながら、迫り来る死の予感を抵抗せず受け入れた。


「……、っ…?」


 ギュッと目を瞑り、激痛を覚悟した数秒後。
 いつまで経っても訪れない痛みを怪訝に思って、恐る恐る瞼を上げた。


「──…は」


 乾いた声が小さく漏れる。
 瞳が大きく揺れながら見開き、目の前の光景から視線を逸らすことが出来ない。
 視界の端に見えた指輪が、光の反射でキラリと光ったように見えた。

 呆然と見つめる先には広い背中、そしてその背中越しにぐったりと倒れる狼達。
 僕では持ち上げることすら叶わないだろうと一目で分かる大きな剣を手に、彼は静かに振り返った。


「セディ」

「っ……!!」


 懐かしい声音、懐かしい呼び名。
 その響きが紡ぐ呼び名は、親しい者にしか許さない僕の愛称だった。


「ギル……?」


 思わず口にしたのは、思い出の中にいる彼の愛称。公爵様とは少し違う、僕が心から慕う初恋の人。

 震える呟きを拾った公爵様は、心底驚愕したように目を見開いた。
 数秒の間硬直した後、ハッとした様子でへたりと座り込む僕の正面に膝をつく。瘴気の影響で僅かにすら動けないことを察すると、公爵様は不意にマントを剥ぎ取って僕の体をくるりと包んだ。


「あ、あの…?」

「……」


 有無を言わさずぐるぐる巻きにされ、いよいよ抵抗のひとつも出来ないほど拘束されてしまう。その状態で僕を横抱きに持ち上げた公爵様を見上げて、流石にあたふたと仰け反った。


「え、えぇ!?あの、公爵様…!?」


 あわあわと赤面しながら抵抗する僕を見下ろし、公爵様は鋭い瞳を無言で細める。静かに、と語る瞳にハッと口を噤んだ。

 僕に触れることさえ苦痛に違いないのに、加えて騒がしい声まで耳に入れてしまうのはとんだ拷問だ。そろりと顔を伏せて「すみません…」と小さく呟き、それ以降は顔を見せず声も聞かせないよう徹底した。


「……あまり動くと傷に障る。大人しくしていろ」


 しょんぼりと体を縮めた僕を見て何を思ったのか、公爵様は不意に小さく呟いた。
 まるで僕を心配してくれているかのような、柔らかい遠慮さえ滲んだ声に思わず胸が高鳴る。そんな感情は含まれていないと分かっていても、弱った頭は目の前の状況を都合よく捉えてしまって少し焦った。

 公爵様は別に、僕のことを想ってくれているわけじゃない。
 ただ偶然、狼に襲われている僕を見つけて救ってくれただけだ。仮にも公爵夫人が森に迷い込んで獣に食い殺されて…なんて、そんなの社交界では笑いものにされてしまうだろう。
 下手をすれば、公爵様の名にも傷が付いてしまうかもしれない。それは絶対に駄目だ。

 そこまで考えて行動出来なかった自分が嫌になる。
 狼を前にして諦めるんじゃなく、せめてその辺の鋭利な枝でも拾って自死を選ぶべきだった。
 僕なんてどうせ瘴気の病のせいで長くは生きられないし、笑われるような無様な死に方さえしなければ、せめて公爵様の体裁だけは守れただろうに。


「……何故」

「…!…は、はい」

「何故、此処に…何があった」


 足音だけが響く静かな空間の中、不意に公爵様が話しかけてきてビクッと震えてしまった。
 慌てて見上げるけれど、公爵様の表情は影がかかってよく見えない。加えて僕のことを見下ろす様子もない。それに少しだけ寂しくなりながら、淡々とした問いに答えるべく口を開いた。


「あ、えっと…僕にもよく、分からなくて…。食人植物に襲われて、気づいたらここに…──」

「待て、食人植物に襲われただと?」


 明らかに怒りの滲んだ声にまたもやビクッと体を震わせる。怒って当然だ、そんな間抜けなことになって死にかける名ばかりの妻なんて、公爵様にとっては苛立ちの対象でしかないだろう。
 咄嗟に謝罪を口にしようとした時、ふと公爵様が予想外の言葉を返してきた。


「ケイトは一体何を…いや、そんなことは後でいい。瘴気に当てられただろう、体は大丈夫なのか?」

「え、あ…はい…さっきよりは、全然…」

「何?さっきは重症だったという事か?」


 ど、どうしてこんなにぐいぐい来るんだろう…。

 まるで本気で心配してくれているみたいな表情だ。
 焦燥を滲ませ、眉を垂れ下げるその姿。辺境での療養中、僕が散歩中に体調を崩してギルが浮かべていた表情とまるで同じ。
 公爵様とギルの面影が重なるのが何度か苦しくて、湧き上がる妙な感情を堪えるためにぐっと衝動を呑み込んだ。


「……あの…本当に、大丈夫です…慣れてるので…」

「……」


 瘴気に当てられる辛さには慣れている。幼い頃からこの病に苦しめられてきたのだ。流石にもう苦痛には慣れた。

 なんてことを答えると、公爵様は何も言わずに顔を逸らしてしまった。
 僕の慣れなんて公爵様には関係ないし、興味もないだろう。要らないことを話してしまったな…と反省してそっと伏せた。これ以上は、聞かれたこと以外何も言わないようにしよう。

 そう思い口を噤むと、静かな空気と緩やかに揺れる腕の中に抱えられているせいか、途端にふっと眠気が襲ってきた。
 瘴気の影響と無理に歩いた疲労がどっと押し寄せてきたらしい。

 眠っちゃ駄目だと言い聞かせても、結局体は正直だった。


「守ると誓ったのに…すまない…──」


 意識が遠のく瞬間、後悔の色が滲んだ彼の声が聞こえた気がした。

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