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 大通りから邸に戻って、自室に着いた瞬間ベッドに倒れ込んだ。バージルが心配そうに僕の背中を撫でながら問い掛けてくる。


「おいセディ…本当に大丈夫か…?」

「うん。全然平気。ちょっと心が死んだだけ」


 それは大丈夫では無いのでは…と困惑の表情を向けてくるバージル。僕を宥めるように撫でる左手、その指に嵌った銀の指輪を見て更に心が沈んだ。
 妬むなんて、無意味なことだとは分かっているけれど。


「…兄様とは順調なの?」

「はっ!?何だよ急に…!」


 答えを聞かずとも、その照れたような赤い顔で全て察した。どうやら順調どころじゃないらしい。
 これからもっとハッピーになりますとでも言うような幸せそうな表情。微笑ましい気持ちと妬ましい気持ちがごちゃ混ぜになる。すごく複雑だ。

 僕と同じ伯爵家の次男であるバージルは、幼馴染である僕の兄の婚約者だ。幼少期からの付き合いなだけに、二人の仲は最早夫婦のようなもの。いつ結婚してもおかしくない二人だけれど、二人は他でも無い僕のせいで結婚を先延ばしにしている。
 友人だけれど、僕とバージルの間柄は既に兄弟に限りなく近いと言っていい。病弱な僕を心配する過保護な兄二人は、せめて僕の病に理解を示してくれる完璧な夫が出来るまでは絶対に結婚しないと断言しているのだ。

 僕の病は完治しない上に、環境の管理がとても面倒くさい。僕を受け入れてくれる人なんて絶対に現れないだろうに、二人は本気で僕の相手を探してくれている。
 それが本当に…申し訳なくて。


「…結婚しなよ。僕のことはいいからさ」


 ベッドの縁に腰掛けて呟く。浮かべた笑顔は少しだけ崩れてしまっていたかもしれない。
 顔を赤くして慌てていたバージルの気配がピタリと止む。数秒の沈黙が流れたあと、隣のマットがぽすっと沈んだ。ちらりと見上げると、並んで座ったバージルの困ったような微笑みと目が合った。


「何で?何で急に、結婚して欲しいって思ったんだ?」

「……」


 優しい声に涙腺が緩む。喉奥から何かが湧き上がるような感覚がして、僕は無言を保っていることが出来なかった。
 滲む視界と零れる嗚咽を止める術も知らず、ただ衝動のままに声を出す。


「だって…、だって…っ」

「うん」

「僕に良い人なんて出来ないからっ…絶対できないから…!」


 絞り出したようなその言葉に、バージルは「それは何で?」と静かに問いを返してくる。

 思い出すのは十年前の彼の姿と、ついさっき遠目で見えた彼の姿。近しい人間が突然雲の上の存在になったみたいな、喪失感にも似たあの感覚。
 淡い初恋は、一瞬にして現実離れした夢の出来事に変わってしまった。


「僕が無理なんだ…好きな人いるのに…っ、でも、その人は僕を好きじゃないから…」


 バージルの目がハッとしたように見開かれた。 

 滅多に外に出ない僕。身内以外の顔も名前も殆ど知らない僕が、突然こんなことになったとすれば。それなら、原因は少し考えれば直ぐに分かる。


「セディお前…ヘルツ公爵が好きなのか…?」

「っ…!」


 驚愕を滲ませたバージルの言葉に息を吞む。誰かが何気なく呟いた彼の名前にさえ、こんなにも胸が鳴ってしまう自分の愚かさに呆れた。
 ぐっと唇を引き結んで衝動を堪える。泣いても何にもならないのだから泣くだけ無駄だ。

 バージルから聞いたあの話が鮮明に蘇る。
 ヘルツ公爵は魔物嫌いの皇女様の為に討伐へ向かった。数年をかけて軍の体制を整え、魔王討伐すら視野に入れ、そしてそれを実行してみせた。
 全て、愛する皇女様の為に。


「失恋、しちゃったなぁ…」


 泣き笑いみたいな震えた声が零れる。それを聞いたバージルが一瞬息を呑んで、すぐに僕をぎゅっと抱き締めた。

 ヘルツ公爵が好きなのか。その質問に答えは返していないけれど、今の反応だけでバージルは全てを察したらしい。
 バージルは僕の"初恋"を知っている。十年前のあの日々のことも、そこで出会った青年のことも。彼の正体を十年経っても知ることが出来ていなかったことも。
 全てを知っているバージルだからこそ、僕の失恋の痛みは自分のことのように理解出来たらしい。


「セディ…」


 僕よりも悲痛に塗れた声を発するバージルに、堕ちていた気分はほんの少しだけ良くなった。僕の失恋を悲しんでくれる人が近くにいる、それだけで心が晴れるような気がした。

 そうだ、気を取り直そう。病の症状が酷くなっても、瘴気で発作を起こしても、結局最後はピンピンして見せるのが僕なのだから。
 いつまでもメソメソしていないで、いつもみたいに切り替えないと。


「初恋は叶わないって、よく言うし…」


 苦く笑って呟くと、バージルはそんな僕を更にぎゅっと抱き締めた。

 初恋は叶わない。
 "ギル"と再会する前に僕の希望は消え去った。いや、最早"ギル"はいない。僕の知っている、僕の望んだ"ギル"はもういないのだ。
 だからよかった。無闇にぶつかって玉砕する方がきっと傷ついていただろう。何もしないうちに希望が折れたことには寧ろ安心した。

 子供の頃の淡い初恋なんてさっさと忘れよう。お得意の諦観を選べば心の痛みはスッと消え去って、代わりに胸にぽっかりと空いた穴に喪失感が居座り始めた。




 * * *




 失恋の喪失感を抱える日々。それがこの先ずっと長く続くのだろうと、そんな何も無い日常は案外直ぐに終わりを迎えた。

 その日、いつも通り別館の自室で読書をしていた時。最近執務で忙しくしていたはずの兄様が、バージルと共に高揚した様子で僕の元を訪れた。
 手には何やら白い手紙が握られていて、何度も読み返したのだろうと分かるほど一部分に皺が出来ている。一体どうしたのだろうと首を傾げた僕に、兄様が興奮した面持ちで手紙を手渡してきた。


「セドリック!お前の初恋は破れてなんかいなかったんだよ!」


 上擦った声で嬉しそうに語る兄様。その言葉の意味を直ぐに理解することは出来ず、数秒の間固まった。


「――…え?」


 初恋は破れてなんかいなかった。何度も頭の中で繰り返して、僕はようやくそれが意味することを理解した。
 まさか、と見開いた目で手紙を開く。そこには彼の名前と共に、僕を名指しした求婚の文章が数行に紡がれていた。


「嘘…ギルが、僕に…?」


 零した声は掠れていた。じわじわと湧き上がる喜びは遅れて現れて、気付くと見下ろした手紙にはぽつぽつと雫が落ち始めていた。彼の文字が所々滲みだしたものだから、慌てて裾で目元を拭う。ただ、彼の文字を汚したくなくて。

 嗚咽も漏らさず静かに涙を流す僕を見て、二人は下手をすれば僕よりも嬉しそうな色を瞳に滲ませて微笑んだ。両側から抱き締められて「よかったな」と撫でられると、堪えていた感情も決壊してしまう。
 何度も何度も手紙の文字列を辿り、やがて僕が落ち着きを取り戻すと、二人は求婚についての顛末を話し始めた。



 求婚状が送られてきたのはつい今朝のことらしい。
 ここシュミット伯爵家は、伯爵と言っても侯爵家に匹敵するほどの力を持つ。面倒な病を持つ僕に好意を抱く人間はいないけれど、シュミット伯爵家の僕になら話は別。
 これでも求婚状の類はかなりの頻度で届くから、兄様は今朝も同様に僕への求婚状は等しく捨てようとしていたのだとか。けれどふと、兄様はその中に件のヘルツ公爵の名を見つけた。
 それが求婚状であることを知った兄様たちが、これは朗報だと慌てて僕の元に訪れたというのが事の顛末。


「天下のヘルツ公爵家が伯爵家如きの財力を望む訳が無い!これは間違いなくセドリック、お前だけを望んだ求婚に違いないよ!」

「十年前のことを覚えていたのはお前だけじゃ無かったんだ」


 涙ながらに語る二人。十年越しの初恋が叶ったことを、自分事のように喜んでくれていることがよく分かる。
 僕も涙を堪えて頷いて、改めて彼の手紙を読み直した。たった数行に纏められたその文章に微かな違和感を抱いたけれど、それは気の所為だと早々に首を振る。

 十年前の思い出も、僕への好意も語られていない。ただ求婚の意思だけを連ねたその手紙。
 湧き上がる小さな不安はぐっと奥底に封じて、全てを振り切るように手紙をぎゅっと抱き締めた。



 求婚について了承の返答を送るなり、その後の動きは物凄い速さで進んだ。 

 通常は数ヶ月かけて用意する式のことも、当日着る衣装のことも。そして公爵家が僕を受け入れる為の準備まで全て。まるで求婚状を送るよりずっと前から準備を始めていたかのような周到さだ。そんなはずは無いけれど。

 そうしてたった二週間程度で全てが終わり、僕は初恋が叶った喜びを嚙み締める暇もなく公爵家へ向かうことになった。




 * * *




 しかし高鳴る鼓動を堪えて訪れたその日々は、想像していたものとは全く違った。
 期待に反して、結婚式当日まで彼に…ギルに会う機会は一度として得られなかったのだ。
 使用人に聞いてみても、返って来るのは当主は忙しいからの一言だけ。確かにギルは公爵だし騎士団長だしで暇など到底作れないのだろうけれど、それにしたってと落ち込む気持ちは止められない。

 封じていた不安が蓋を破って現れて、それが募る度に無理やり幸せな未来の夢を見続ける。ギルは本当に忙しいだけだ、きっと大丈夫、大丈夫なのだと言い聞かせて。
 けれど、ようやく当日を迎えた結婚式。その虚勢は一気に崩れ落ちてしまった。



「二日後に辺境の領地へ向かえ。既に邸は用意している」



 控え室に入って来たギル。こうして近くで姿を見たのは凱旋の日以来だ。
 高鳴り始める鼓動を抑えて、ようやく会えたと抱き着きそうになる衝動も堪えて。冷静な表情を繕って立ち上がった僕に、ギルは開口一番そう切り出した。

 笑顔も無く、好意を持った言葉も無い。遠目で見たあの冷徹な表情を貼り付けた彼は、感情の籠らない声でただ一言そう語ったのだ。


「……え…で、ですが…僕達は結婚、するんですよね…?」

「あぁ。だが君には病があるだろう。帝都で暮らし続けることは酷の筈だ」


 淡々と紡がれる言葉にハッとした。彼の真意が分かってしまったからだ。
 つい先日皇女様と隣国の王子との結婚が決まったことを思い出す。求婚状が届いてからは、ギルが好意を寄せる相手は自分だと思っていたから噂についてはとうに忘れていた。けれど、今思い返せば少し不自然だ。
 示し合わせたかのように同時期に発表された二人の結婚。ギルが僕を結婚相手に選んだ本当の理由。

 ギルは僕を覚えてなんかいない。ギルもまた僕と同じ、恋に破れた人間なのだ。
 公爵という立場のギルはいずれ必ず相手を迎えなければならない。愛する皇女様との未来が潰えたというのに、好きでも無い人間を夫人の席に置いて共に過ごすなど苦痛でしかないだろう。


 だからギルは僕を選んだのだ。
 かつて辺境で共に過ごした僕ではなく、病弱な伯爵令息である僕を。


 辺境の魔物は全て討伐され、この病を持つ人間にとって最も療養に最適な場所は辺境となった。
 つまり僕を妻として迎えても、療養させることを名目に辺境へ追い出すことが出来るのだ。ギル…いや、ヘルツ公爵にとって、これ以上の都合の良い条件を持つ相手は僕以外に居ないだろう。

 少し考えれば十分分かることだった。
 そもそも、十年も前の薄い記憶を引き摺っている僕は異常なのだ。ヘルツ公爵が当時のことを覚えている可能性なんて無に等しかったのに。
 それなのに僕は、滑稽にも初恋に浮かれて彼の気持ちを察することも出来ず…。
 ここ数日、ほんの少しの間でも公爵夫人になった気分でいた自分を恥じた。


「……わかり、ました」


 俯いて小さく頷いた僕に、ヘルツ公爵は何も言葉を返さなかった。
 俯いていたから彼がどんな表情をしていたのかは分からないけれど、きっと従順に頷いた僕に安堵していたことだろう。

 公爵は結局、その後も無言と無表情を崩すことは無かった。
 式はとても質素なもので、参加者も身内と付き合いの長い心からの友人達しかいない。
 僕の病を気遣ってのことだと思っていたけれど、きっとこれもただ、面倒な式をなるべく早く終わらせる為だけのものでしか無かったのだろう。

 そう思うと胸が痛くて、心が苦しくて。
 嬉しそうに涙を流す兄様やバージルと目が合う度、幸福を装った笑顔を繕うのが辛かった。
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