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【 】
しおりを挟む性懲りもなく、同じ場所に戻ってきてしまっている自分に腹がたつ。覚悟は決めたはずなのに、入念に準備してきた計画だったのに。
最後の最後で意志が揺らいでしまった。
彼が欲しいと思ってしまった。彼に抱きしめてほしいと愚かにも願ってしまった。
「……また空っぽだ」
バラバラになってしまったショーケースに視線を落とす。散らばった破片に情けない自分の顔が見える。げっそりとした幽霊みたいな顔の自分を反射している。
そこには当然、守ると誓ったはずの泡はなくなってしまっていた。鳥かごから逃げ出したカナリアのように、もう手の届かないところへと行ってしまった。
一体何度失えば、私は気が済むんだろう。
何度、中身をこぼせば学習するのだろうか。本当に私は何も実らせることが出来ない人間だ。
「木々は私たちに知恵を与えてくれた。大地は私たちに恵みを与えてくれた。天は私たちに祈りを与えてくれた」
古い故郷の歌を口ずさんで、その場に座り込む。
……。
すると、いつの間にか私は子どもになっていて、目の前にはあの懐かしい店があった。私は店の前でぼんやりと商品を眺める幼い自分になっていた。
「…………?」
思い出すものよりもずっと鮮やかな店構えの外観。ペンキが剥がれたような跡もなく、それは昨日建てられたばかりの新築のように目の前にあった。
ガラス戸の隙間から店内を覗く。
内装が変わっている様子もない。だとすると、店の中央のショーケースに飾られているのは……。
思わず、心臓が高鳴る。
「やぁ、お嬢ちゃん、いらっしゃい」
店の方から扉が開かれる。驚いて見上げると、当時と変わらない店主のおじいさんが私に微笑みかけていた。
「久しぶりだね。最近姿を見せないからどうしたのかと思っていたよ」
「あ……の……」
「こんなところでボウっとしていないで。ほら、入って入って」
急かされるように店の中に入る。ちりんちりんと乾いた鈴の音が鳴る。目の前の光景に思わず目がくらむ。
鮮やかな色合いの異国の人形、青い花の模様が着彩されたティーカップとソーサー、可愛らしいフリルのドレス、ブリキのおもちゃは本物のような剣を持っていて、おもちゃの宝石が施された宝箱はどんな本物よりも美しかった。
おとぎの国に迷い込んでしまったよう。本当に少女時代に戻ったのかと勘違いするほど。自分の姿がみすぼらしいのを忘れて、私はその光景に心を踊らせた。
もう2度と戻らないと思った光景。
たとえ一時の夢だとしても、それを見て心を震わせない訳にはいかなかった。
「オルゴール……」
何度も夢に見たものと変わらない姿で、それはショーケースの中に存在していた。埃1つ被らずに、錆びもせずにそこにあった。
「どうして……」
ビーズの宝石は変わらずに、夜空に輝く星のように綺麗に光っていた。
「聞くかい?」
店主のおじいさんがにっこりと笑って、オルゴールをショーケースから取り出す。透明なガラスの箱をどかして、オルゴールのハンドルに手をかける。
キリ、キリ、キリ。
ハンドルが回る高い音。沈黙したオルゴールが目を開ける。ハンドルから手を放し、少しの間があった後で、オルゴールは高らかに歌い上げる。
こん。
かん。
きん。
旋律に耳を澄ませる。せり出してきたブリキの楽隊たちの一挙手一投足に目をやる。オルゴールが震わせる空気の振動に身を委ねる。
ハンドルが回した分だけ、オルゴールは歌う。同じ旋律を何度か繰り返す。永遠ではなく一瞬のきらめき。心を突き刺すような故郷の歌。
頬を伝う涙が温かい。
こんな温かいもの、まだ私の身体にあったんだ。
「う……ぁ……あ……!」
歌が止まる。
涙は止まらず、大粒の雨のようにポタポタと地面に垂れていく。
どうしてだろう。
前に聞いた時はこんなことにならなかったのに。あぁ子どもっぽいものだなんて、すぐに通り過ぎてしまったのに。
『本当に欲しいものなんて、この世界に有りはしない』
情けない。
何1つ成長していない。私はずっと何も欲しくなかった。何も欲しくないと思いたかった。
私は何も求めてはいけないのだと。
それで自分がしたことを許されるとでも思っていたのだろうか。血を分けた弟を救えなかったことに縋り付くように、私は何もかもを諦めていた。
諦めるように自分を説得し続けていた。まるでそれで自分が赦されるとでも信じているかのように。
「欲しいのかい?」
「……ちが、くて……」
「欲しくないのかい?」
「そう、でもなくて……!」
私は結局何がしたいのだろう。
欲しいか、欲しくないかの2択だ。何に迷っていて、何から逃げているのだろう。自己犠牲でもすれば満たされると思っていたのだろうか。
そんなことはない。
私の欲望の箱は未だに空っぽのままだ。
「わ、たしだって……」
オルゴールの音はもう聞こえない。
私の寂しさを満たしてくれるあの音はもうない。沈黙。失ってしまった音色はもう元に戻らない。幼い頃の私を支えてくれた音はもうそこにはない。
私は本当は欲しかった。
誰よりも強くそれを欲していた。
「わたしだって、もっと一緒にいたかった……! 叶いようもない願いだけれど、あの人ともっと一緒にいたかった……! 普通の女の子みたいに日々を過ごしてみたかった!!」
言葉にして口に出すと、なんて陳腐でありふれた欲望なんだろう。
けれど、私はそれを叫ばずにはいられなかった。涙を流して、祈らずにはいられなかった。
ずっと私が目を背けてきたものだ。
泡じゃない。彼がそこにいるというその事実が欲しい。身体が欲しい、言葉が欲しい、掌が欲しい、抱きしめてくれる力強い肉体が欲しい。
私と一緒にいて欲しい。
ただそれだけなのに。
「どうして……こんなにも遠いんだろう……」
欲望を口にしなかったのは、結局のところ、それが叶わないと知っているからだ。口に出してしまうと、より一層、その不可能性を実感させられる。
「良いんですよ、それで。私たちは何かを願わずにはいられない生き物ですから」
「それが叶わないと知っていても……ですか」
「もちろん。それが不可能でも、たとえ悪いものであろうとも、自分の欲望を失ってしまったら、私たちの存在はブリキの人形とそう変わらない。外見だけを取り繕った生命の中身は、本当の空虚です」
店主はゆたかにたくわえたヒゲの奥でにっこりと笑った。優しい彼の微笑みは、孤児だった私を店の中に入れてくれた当時のままだった。
「私は……まだ、間に合うでしょうか……私はまだそんな空虚な存在にはなっていないでしょうか」
「はい、願えばいつだって、あなたの願いはいつだってあなたの側にいます」
「……側に……いる」
散り散りになったガラスケースの、湖面に浮かんだ透明な存在の、雨に打たれて輪郭を表した私を。
今、彼が覗いていた。
手を伸ばして、彼はそのまま……。
「ありがとうございます」
店主にお礼を言って立ち上がる。
私をにっこりと見た老人は何かを思い出したようで、おもむろに口を開いた。
「そういえば、伝言を預かっています」
「伝言? 誰から……?」
「あなたと同じように綺麗な白い髪を持った子どもからです」
「……あ」
『気をつけて、僕たちの欲望は底無しだから』それだけです。意味は私にはわかりません」
店主はそう言うとにっこり笑った。
「ご存知ですか」
「はい、私の大切な人です」
「その方も同じことをおっしゃっていました」
「伝言をお願いしてもよろしいですか」
「もちろん」
店主はにっこりと笑った。
彼に手向けの言葉を送ろう。永遠に太陽の元に出ることが出来なかった私の弟に送ろう。
「見ていてくれて、ありがとう……と」
「きっとお喜びになられると思いますよ」
「そう、だと良いな……」
たぶんもう2度と会うことはない。その声を聞くことはもう一生ない。
でも今はそれでも良い。
時間がない。急ごう。
天井に向かって手を伸ばして、彼の名前を口にする。
「アンク」
たったそれだけで、世界は白けて輪郭を失っていった。子どもの頃に憧れた御伽の国は再び思い出の中へと帰っていった。
もう2度と戻ることはないだろう。思い出す必要さえないだろう。
そう考えて目を閉じた沈黙の狭間で、ふとオルゴールの音が聞こえた気がした。
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