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第92話 数字の羅列
しおりを挟む独房を歩きながら、かつてレイナが言った言葉を俺は思い出していた。
『数字の羅列で構いません。ゼロ、イチ、ナナと番号でお呼びください。そちらの方が慣れています』
彼女は自分の名前のことを、そういう風に言っていた。
今、独房を通ってみると、彼女の言葉が何を意味していたのか痛々しいくらいにわかってしまった。
【003】【004】【005】【006】【007】【008】【009】【010】【011】…………。
扉の1つを開けてみると、独房の中は、子ども1人が横になるのがやっとという位の広さだった。明かりもなく、真っ暗な室内はジメリとした湿気で覆われていた。
窓もなく、あるのは扉に付いている郵便ポストのような穴だけ。おそらくここから食糧を入れていたのだろう。カビのようなものがこべりついている。
「まるで家畜みたいな扱いね……」
「実際そうだった」
ニックはパトレシアの言葉に、小さな声で返した。
「3日に1度の血の儀式を終えた子どもは、この独房に収容される。それ以外に外に出られるのはイザーブ市からの監査の時だけ。それも半年に1回だ。陽の当たらない場所で……ずっと生活していたんだ」
「こんなところ……で。人間が暮らせるのか……?」
「人間とも思っていなかったんだ。扉の前のナンバーを見ただろう……。あれこそが、教祖さまたちの考えだ。子どもじゃなくて、物として管理していたんだ。死なない程度に、生きようとする意思を排除していた」
パトレシアは辛そうに唇を噛み締めた。「私の故郷でこんなことが起こっていたなんて」とつぶやいた。
「イザーブはあまりに無軌道に発展し過ぎていた。おかげで俺たちは暮らすことが出来たんだけどな……」
「……ねぇ、ちょっと気になったんだけど」
ニックの言葉に口を挟んで、ナツは怪訝そうな顔で言った。
「どうして、あなたは今でもここで暮らしているの?」
「それは……」
その言葉にニックの表情は固まり、一気に緊張した雰囲気になった。言いたくなさそうに彼は視線を下げた。
「どうして?」
「俺は……」
ナツの疑問はもっともだった。
通ってきた道から分かる通り、イザーブの周辺はいまだに魔物たちが跋扈している。到底、人間が暮らす場所とは思えない。
古びた扉とナンバープレートに目を向けながら、ニックはようやく口を開いた。
「俺は今でも人間が嫌いだ」
死ぬ間際の老人の手のように、シワだらけの手を伸ばし、彼はナンバープレートの1つに触れた。
「俺がこいつらのような子どもだった時、ちょうど異端狩りの真っ最中だった。どこの村や町に行っても、俺たちは迫害されたんだ。両親も姉貴も最後にはみんな殺された」
「家族を……殺されたのか」
「みんな殺された。俺が生き残ったのは、たまたま使える魔法が逃げるのに適していただけだ。俺は透明になって、息を殺して生きてきた。人間なんてみんな死んじまえって、呪いながら生きてきた」
いくつかのナンバープレートは、横にバツのマークが付いていた。『失敗』と書かれたそれが何を意味するか、聞かなくても分かった。
その1つから目を逸らし、ニックは語り続けた。
「だから異端者のコミュニティがあると聞いた時は嬉しかった。教祖さまは異端者たちの命の恩人だ。それは間違いない。ボロボロになった俺たちを、教祖さまは庇護してくれた。『いつか必ず人間に復讐しよう』と。俺もそれに賛同した」
「いまだに教祖を信仰しているってこと……?」
「そう……だな。人間のことを嫌いだということが変わらないように、あの人への感謝の念は変わらない。ただ……」
先へ進むごとに独房はどんどんと暗くなっていく。時折、キラリと光るのはネズミだろうか。カサカサという音が近づいては、遠ざかっていった。
キキ、キキと警戒するような音が独房に鳴り響く。
もう何年も誰も足を踏み入れていなかったからか、ネズミたちは人間に対してかなり警戒していた。
光を照らしてネズミたちが追い払ったあと、ニックの声だけが虚しく響いた。
「こんなやり方をするのはあんまりだった。みんな人が変わってしまったようだった。ラサラもバイシェも悪いやつじゃなかった。ただどうしようもなく、人間が嫌いだっただけだ。それがそのうち、ネジがどんどん外れて……壊れていった」
「それに対して、おまえは何も言わなかったのか」
「言えるわけないだろ。俺は所詮下っ端の門番だ。この施設の運営をしていたのは、それ以上の幹部クラスだ。口を挟めば下手したら俺が実験材料だよ。俺に出来るのは、最後の生き残りとして見守ることだけだ」
「見守る?」
ニックは頷いた。
「そうだ。……なぁ、怒らないで聞いてくれよ」
「……あぁ」
「ここに暮らしていた奴らは、非道だったとはいえ元は仲間たちだ。俺の新しい家族だったんだよ。みんなここで死んじまったけれどな」
ニックは悔やむように、カビの生えた地面を見た。
「だから、せめて死体くらいは普通に埋めてやろうと思った。こんなところに置いておいても、ネズミの腹が膨れるだけだからな」
「そうか……それで」
孤児院の外側の風景を思い出す。
色とりどりに育てられた花々や、整備された芝生。壁もはげているところはなく、魔物よけの結界も貼ってあった。
ニックが邪神教が崩壊して以降も、留まっていた訳がようやく分かった。死んだ仲間たちのためだったのか。
「どれだけ責められても足りないことは知っている。けれど、それとこれとは別問題だ。せめて安らかに眠らせてやりたい」
「……じゃあ、どうして俺たちを攻撃してきたんだ。お前は一体何に怯えている?」
「当然、復讐だよ。あの子らが成長していたら、ちょうどあんたら位の年齢になる。生き残った奴らがこんなところで、のうのうと暮らしている俺を知ったら殺そうと思うのは当然だからな。だから武器を構えた」
「全てはこの場所を守るため……か」
「誰にとっても、ここは忌むべき場所だ。みんな忘れたがってる。けれど、俺が忘れてしまったら、誰も覚えているやつはいなくなる。ここで死んでいった子どもや仲間たちがいるという事実がある以上、この場所を守りたいんだ」
彼は深い暗闇の方へ、目を向けながら言った。顔色は青白く疲れ切ってはいたが、しっかりとした意思を感じる瞳だった。
「ニック、あんた見かけより良いやつだな。もちろんやったことは許さないが」
「ありがとよ。ただ俺は良いやつじゃねぇよ。本当にかわいそうなのは、連れてこられた子どもたちだ」
奥の方に行くにつれて、空気は冷たく、寒く感じるほどになっていった。もしかしたら、外と繋がっているところがあるのかもしれない。
幾つかの番号を通り過ぎていくと、ようやくサティの姿が見えてきた。自分で火を焚きながら、1つの扉の前で立ち止まっていた。ぼんやりと光るサティの青い髪は、幽霊のように透き通って見えた。
「遅かったね、見つけたよ」
サティは明かりを照らしながら、扉のナンバープレートを指差した。そこには比較的はっきりと残った字で、こう書いてあった。
【017】
扉は固く閉ざされていて、中の様子はうかがえない。だが、かつてここに誰がいたかは、予想がついた。
「……レイナ」
「ここに記憶の鍵があることは間違いない。私の予想だと、この孤児院に連れてこられて、彼女がどんな生活をしていたかが明らかになるはずだ」
サティの言葉を聞きながら、自然と手に力が入って汗が滲み始めていた。心臓が一気に鼓動を早め始める。書かれた数字を見て、何もすることが出来ない俺を、サティが煽るようにいった。
「どうした開けないのかい?」
「……開ける、開けるよ」
自分に言い聞かせるように言って、大きく息を吐き出す。錆びて壊れそうなドアノブに手をかける。
覚悟は決めた。
俺がレイナの何を知ろうとも、どんな過去があろうとも、俺は今のレイナを救って一緒に家に帰る。俺がするべきことはこれだけだ。
ドアノブをひねる。
思っていたよりも軽い手応えで、硬い扉はきしみながらギイイイと音を立てて開いていった。
「こ、こは……」
目の前に現れたのは、他の部屋と変わらない様相の室内。それから床に染みついた血。
ギギギという扉を開く音が頭の中で反響する。記憶のピースがある。
そして頭の内側からハンマーで叩かれているような激しい痛みとともに、視界が城から黒へと明滅し始めた。
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