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第58話 大英雄、長い1日
しおりを挟むそわそわする。
落ち着かない。
テーブルに置かれたコーヒーを何度もすすって、時計を見る。時刻は午前10時23分。さっきから3分しか経っていない。体感時間ではもう1時間以上経っているのに。
「レイナ……まだかな」
朝ごはんを食べてから、レイナがデートの準備をするために2階の自室に上がっていって、早30分。早々に支度を終えてしまった俺は、リビングの椅子に座ってレイナが降りてくるのを待っていた。
緊張する。
誰かと約束してデートなんてするのは久しぶりだった。地に足がついていないというか、心臓の音が聞こえてくる感じというか、20歳以上は若返ってしまったような気がする。
最初に魔物と戦った時よりも緊張しているかもしれない。
またコーヒーを飲む。これで7杯目。落ち着かない。
コン、コン。
コーヒーで腹が破裂するんじゃないかと思えてきた時に、ようやく階段を降りてくるレイナの足音が聞こえてきた。木の床を歩く静かな音が近づいてくる。
俺の目が階下に降りた彼女の姿を捉えた。
「お待たせしました……」
「…………………あ」
言葉が出ない。
実際に見るとその可愛さは想像以上で、俺のちっぽけな胸では受け止め切ることが出来なかった。
「ど、どうでしょうか……?」
普段あまり化粧をしないレイナだったが、今日はピンクのチークを引いていた。アイラインも整えられていて、丁寧にセットされた髪は2つの髪留めで後手にクルリと結ばれている。
普段から綺麗だとは思っていたが、今日はもろもろ3倍増しくらいに見える。眩しくて直視できない。
「どうしましたか。どこか変でしょうか」
「あ……いや」
彼女の姿を視界に収めるのにやっとで、発声まで意識が回らない。餌が投げ込まれるのを待っているアザラシみたいに、何も言わず口だけを開けていたことに気がついた。
「似合っている。とてもくぁいい」
「くぁいい……?」
「か……」
口もうまく回っていない。
しっかりしろ、大事な時だ。パチンと頬を叩いて、気合を入れる。
「とても可愛い」
「……そんな」
まばたきを2回。
それから、アナログ温度計の目盛りみたいにレイナは徐々に顔を赤く染めた。スカートを強く握りしめて、彼女は慌てた声色で言葉を続けた。
「ほ、褒め上手ですね。そんなに褒めても何も出ませんよ」
「かわいい」
「は、早く行きましょう!」
俺から視線を逸らして、レイナは逃げ出すように扉まで歩いた。振り返って俺が視線を向けているのを確認すると、レイナは真っ赤な顔で言った。
「そ、そんなに見ないでください! 私だって……恥ずかしいのです! そ、外に出るのは久しぶりで……」
レイナは額にいっぱい浮かんだ汗をぬぐって言った。
「こんなオシャレをするのも……初めてで……」
「あ、悪い」
「あ、謝らないでください……! さ、さ、行きましょう」
「……そうだな……行こうか」
立ち上がって手を差し出すと、レイナは悩んだように手を引っ込めて、視線を伏せた。
「あの……そ、それはちょっと恥ずかしいです。手を握られるのは、慣れません……」
「そ、そうか」
俺から離れたレイナの手は、所在無げに宙で揺れていた。一言、「別に嫌な訳ではありません……」と言ったレイナは俺を見上げた。
「ただ、手はちょっと緊張します……」
「じゃあ……服ならつかめるか」
「あ……はい……!」
悩むように視線を泳がしていたレイナだったが、覚悟を決めて息を吐き出すと、俺の服をギュッと掴んだ。
「こ、こんな感じですか」
「あー、そうだ。そう」
「……気恥ずかしいですね」
俺もだよ、と言いそうになって言葉を飲み込む。
こんなところで、踏みとどまっていたのでは、サティが言うように一生記憶のピースなんて集まらない。
勇気を出せ。
覚悟を決めろ。
「よし、行こう」
「……はい……!」
俺が1歩踏み出すと、レイナはそれに合わせるように彼女もまた歩を進めた。さらに1歩、遅れて彼女が足をあげる。
そんな繰り返しで進んでいると、まるで下手くそな2人3脚でもやっているみたいに、ぎこちなく不恰好だった。
「もうちょっと普通に歩かないか」
「アンクさま、こそ。なんだか普通じゃないです」
「そうか……? よっ」
「そんなに歩幅を広げなくても……。なんだか、これではまるでロボットみたいですね」
よたよたと進む自分たちに気づいて、レイナが堪えきれずに笑った。「ふふっ」と吹き出したレイナは、心底おかしそうに自分たちの足元を見ていた。
「やっぱり普通じゃないです」
「そんなこと言われても……なぁ。一回立ち止まって見ようか」
「いえ、このままで良いです。なんだかとっても楽しいので」
慣れない足取りでよたよたと歩きながら進んでいく。誰かと歩幅を合わせるのはこんなにも難しかったのか。
うまくいかない歩行で少し緊張が解けたのか、レイナは安心したように言った。
「……アンクさまにもこういうところがあるのですね」
「こういうところって?」
「いえ、あなたはもっと女性の扱いに長けていると思っていたのです」
「いや……別にそんなことはない」
今でこそモテモテを絵に描いたみたいな生活で「大英雄さんは随分とプレイボーイね」みたいな噂が飛び交っているが、実際のところは魔物退治ばかりで色恋沙汰とはかけ離れたところでずっと生活していた。
「それは気のせいだ。いつだって、どこか緊張しているよ」
「では……誰がお好きなのですか?」
「誰って……」
「お3方の中でです。リタさん、パトレシアさん、ナツさん。あの3人の中でアンク様は誰にもっとも好意を寄せているのですか?」
レイナは俺の顔をちらりと見上げて、そんな質問をした。俺と目が合うと、彼女はすぐに視線を下げてしまったので、どんな表情をしているのか分からなかった。
ただ、小さな手のひらだけが強く、俺の服を握りしめていた。
「あー……」
早速厄介な質問だ。返答を間違えれば、ゲームオーバーになる。
……答えは慎重に。
全員好きだ、というのが正直な気持ちだ。好意があるかと言われたらイエスだ。
だが、誰が1番だと聞かれると答えは出ない。
どう答えれば良いのだろう。嘘はつきたくない。しばらく考えてみたが、結論は出なかった。
「悪い……分からない」
「答えを出すのに随分と時間がかかりましたね」
「うん、考えたんだけどな。誰が一番好きかというより、戸惑っている部分の方が大きい」
「戸惑っているとは?」
「昔から知り合いではあったけれど、その時は恋愛感情とか無かったからな。だから、知らない間に彼女たちが大人になっていたことに驚いている」
俺がそう言うと、レイナは「そうですか」と言って、落としものを探す子どものように、下を向いたまま不安げに瞳を揺らした。
しばらく歩いて、風の音と鳥の声だけしか聞こえない風景がしばらく続いた後で、レイナは再び口を開いた。
「私には、アンクさまは皆から好かれているように思います。だから、私がこうやって一緒に歩いていることに、不快な思いもされる人もいるのではないかと思いました。それが不安に思えたのです。アンクさまは……そのう……いろいろと噂もありますし……」
「噂?」
「口に出すのもはばかられるようなものです」
「例えば、どんなものがあるんだ?」
レイナ辺りの様子を気にするように、キョロキョロした後に、ごにょごにょと俺の耳元で囁いた。
「あおかん……」
「青……姦」
パトレシアの穴の中はつい昨日のことだ。もう噂が広まっているのか。
「本当ですか?」
「否定は出来ない」
瞬間。
右腕に痛みが走る。
レイナが腕が強くつねっている。ぎゅうっとひねるように握っているので、なかなか痛い。これは本気だ。
「そ、そんなあなたと同居している私の身にもなってください……!」
火のように顔を赤くしたレイナは、頬を膨らませて怒った。「信じられません、信じられません」と何度も口にして、腕に力を入れていた。
「分かった、分かった。気をつける……!」
「気をつけるじゃなくて、絶対ですよ!」
何も言わずに、大きく頷く。
つねった手は離してくれたが、じんじんとした痛みはしばらく残っていた。
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