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第11話 大英雄、水をかけられる

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 ナツから朝ごはんを頂いてから帰宅すると、自分の家の庭に入ったところで冷たい水をぶっかけられた。

「うわっち!」

 さっきシャワーを浴びて来たのに、再び全身ずぶ濡れになる。ポタポタと水滴を垂らしながら、唖然あぜんとするしかなかった。
 
 誰がこんなことを……と横を見るとレイナが巨大なバケツを持っていた。

「すいません、見えなかったもので」

「……何してたんだ?」

花壇かだんに水をあげていました」

 なぜか憮然ぶぜんとした表情でレイナは言った。

「アンク様が歩いてくるから悪いのです」

「花壇に水をやるなら、バケツじゃなくてジョウロだろ。そんなバケツいつ買ったんだ」

「たくさん水をあげた方が花も喜ぶかと思いまして」

「……百歩譲ってそうだったとしても、花壇は向こう側だからな」

 花を植えているは反対側だ。この辺りには雑草しか生えていない。いつの間にうちのメイドは雑草を育て始めたんだ。

「このあたりに花壇を作ろうかと思いまして」

「白々しい嘘だ」

「アンクさまこそ、どちらに行っていらしたのですか」

「…………う」

 しまった、完全に墓穴を掘った。

「えーと……」

 ナツとの約束もある手前、下手なことは言えない。いや、約束があろうがなかろうが、昨日起こったことは簡単に口にして良いことではない。

「む、むにむに」

「ごまかさないでください。どうされたのですか」

 俺を覗き込むレイナの表情からは何を考えているか読み取れない。くすんだグレーの彼女の瞳は、少し怒っているようにも見えるし、怒っていないようにも見える。

 嘘をつくべきか、本当のことを言うべきか。どちらにしても地獄に思える選択に脂汗をかいていると、意外にもレイナはあっさりと折れた。

「いえ、喋りたくないならよろしいのです。しょせん、私はメイドですから。それで…………朝食はいかがなさいますか?」

「あ……悪い。食べてきたんだ」

「そうですか」

 レイナはそう言うと顔を伏せて目をらした。そしてきびすを返すと早足で玄関へと向かった。

「どうした?」

「何でもありません」

 いやこれは怒っている。さすがに分かる。
 その後を追いかけて、ダイニングキッチンで彼女が隠そうとしているものを見て、俺はようやく自分の過ちに気がついた。

「……ご飯作ってくれたんだ」

 レイナが持っていたものはスープと、気合を入れて作ってくれたのが分かるほど、分厚いサンドウィッチだった。

「悪い……ちゃんと遅くなるって言えば良かった」

「いえ、私が勝手に作ったものですから。お気になさらず」

「後で食べるよ。置いておいてくれ」

「結構です、アンクさまには新鮮なものを食べて欲しいですから」

 完全にねている。
 レイナは持っていた食べものをゴミ箱に直行させようとした。「ゴミはゴミ箱です」と言いながら、皿をかたむけたレイナを見て、思わず魔法を発動してしまった。

「固定《フィックス》」

 小さなキューブをイメージして、彼女の動きを止める。腕の部分だけに意識を集中させて、ゴミ箱行きを阻止する。

「……あ、悪い……」

 と言いつつも止まった彼女の手からスープとサンドウィッチを回収する。固定を解かれたレイナは、口をとがらせて俺に抗議した。

「乱暴です」

「捨てちゃうんだろ。もったいない」

「作ったのは私です。このサンドウィッチに関するあらゆる権限は私にあります」

「材料を買ったのは俺だ」

「……へりくつです」

「……俺が悪かった。腹が減っているのは本当だよ」

 そう言うと、レイナは諦めたように肩をすくめた。
 
 相変わらず頑固だ。
 ふと、彼女の手元に目を落とすと、手袋の先が赤くにじんでいることに気づいた。人差し指の方が血で濡れている。

「怪我したのか?」

「お気になさらず。ハムと間違えて自分の手を切ってしまっただけです」

「うわー、結構深く切ってるな。ちゃんと消毒した方が良い。ちょっと見せてみな」

 近づいて手袋を取ろうとした俺に、さっきまで不機嫌そうな顔をしていたレイナが、ハッと息を呑んだ。

「だめっ……!!」

 レイナは聞いたことない甲高い声を出した。感情をあらわにした必死の叫びで、彼女は拒絶した。
 
 だが、すでに何もかもが遅かった。
 すでに彼女の手袋は外されて、レイナの赤々とした血が俺の手のひらに流れていってしまった。



 —————ブツッ。



 レイナの赤い血と俺の手が触れた瞬間に視界がブラックアウトした。

「え?」
 
 ……何も、
 何も見えない。
 家は、レイナは、どこに?
 どこにいったんだ?

 混乱した頭の中をビリビリと強い電流が走る。
 記憶にない景色が俺の脳裏をスライドショーのように駆け抜けていく。次から次へと移り変わるスライドが物語を見せ始める。

 色のない街、顔のない人々、平坦な声。
 スライドが次から次へと展開されていく。ストーリーはどんどんスピードを早めていく。
 
 知らない光景。見たことのない土地。
 それから、返り血を浴びて真っ赤になった人間。
 


 なんだ、
 これはなんだ。




 もう一度頭の中で電流が走る。スライドが焼き切れる。フィルムを失った映写機のようにカラカラと乾いた音が頭の中で鳴る。

「う……」

 再び目を覚ました時、俺は床に倒れていた。
 
 目の前にはレイナが自分の手を押さえてペタンと座り込んでいた。その顔はびっしょりと汗をかいて、綺麗な白い髪が突風に当てられたかのようにボサボサになっていた。
 
 レイナは荒く息を吐き、おびえるような表情で俺を見ていた。瞳を小刻みに揺れ動かし、顔も血の気が引いて真っ青だった。

「今のは、何だ」

 問いかけると、彼女は激しく首を横に振った。
 レイナはなんども息を吐いて、深呼吸を試みていた。俺から離れるように指を隠して、「分かりません」と言って少しだけレイナは後ずさった。

「レイナも見たのか?」

「いえ、何も。アンクさまが突然叫んだので驚いてしまいました」

「叫んだ?」

「はい、何かを怖がるように、突然」

 途切れ途切れの言葉でレイナは説明する。俺が意識を飛ばされていたのは、1分ほど。指の血に触れると、突然頭を抱えて苦しそうに叫んでいたらしい。

 見ると、持っていたスープとサンドウィッチの皿が床に落ちてしまっていた。スープは無残に溢れてしまって、割れた皿の上でサンドウィッチがひしゃげてしまっていた。

「悪い……」

 レイナがせっかく作ってくれた料理を台無しにしてしまった。
 彼女の指からはポタポタと血が垂れていた。床にこぼれたスープと混じり合って、薄紅色の水たまりになっていた。

「それ、手当てしたほうが良い」

「触らないで!!」

 近づいてきた俺から逃れるように、レイナは距離を取った。拒絶するように、恐れるように。昨日よりもさらに遠くへ、何かに怖がっているかの様にレイナは後ずさった。

「触らないで……ください」
 
 俺から顔を背けてレイナは呟いた。彼女はもう俺の方を見ようとしなかった。救急箱から包帯を取り出すと、雑に自分の指に巻いて手袋をはめた。ダマになった包帯の束が彼女の手袋の中で膨らんでいる。

「これで十分です。片付けるので退いてもらえますか?」

 レイナは顔を伏せたまま、モップを取りに掃除用具入れの方へ歩いて行った。

 俺は床に座り込んで、落ちたサンドウィッチを1つ取った。形は崩れてしまっていたが、まだ食べられそうだ。焼いたハムとチーズとレタスを口に含む。香辛料の風味が口の中に広がる。

「おいしい」

「……そんなものを食べないでください」

 モップを持ったレイナが疲れ切ったような顔で俺を見下ろしていた。
 割れた皿を拾いながらサンドウィッチを回収していく俺を見て、レイナは大きくため息をついた。

「また、作りますから。アンクさまが怪我をしてしまっては大変です」

「これだけ食べさせてくれ」

「はぁ……」

 割れた皿とこぼれたスープの具材を拾い集めて、紙袋に包んで捨てる。落ちたサンドウィッチは全て回収した。

「少し休む。なんか頭痛がする」

「その方がよろしいかと。あとで頭痛薬を持って上がります。それと……」

 皿を持って部屋に戻ろうとする俺に、レイナはモップを水につけながら声をかけた。

「気を使わないでください、私はあなたのメイドなのですから」

「そんなこと言うなって……」

「私は、ただの使用人ですから」
 
 吐き捨てるように言うと、レイナはせっせと床のモップがけを再開した。ゴシゴシと床の汚れを拭いていく彼女の背中からは、どことなく寂しそうでもあった。

 何と声をかけて良いのか分からず、俺は階段を上がった。濡れた服を脱いで、レイナが作ったサンドウィッチを食べる。

「……うまいな」

 口をもぐもぐと動かしながらベッドに横たわり、俺はさっき見えた見知らぬ光景を思い出していた。

 あれは一体何だったのだろう?
 真っ赤な血を浴びた人間の映像は、俺の記憶の中で消えずにいつまでも残っていた。

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