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50時限目 嫌だ(2)
しおりを挟む熱い。
流れる汗すらも蒸発していく。足元でなぶる炎が痛くてたまらない。リリアは近づいてくるブラムの姿を見ていた。
「俺はいずれこの国の頂に立つ男だ」
炎にゆらめく彼は模擬剣の先端を彼女の額に向けていた。高濃度の魔力が、その中心に向かって集められていた。
「俺に汚点は許されない。誰かに負けることなんて許されないんだ。お前に負けた日から、地を舐めるような屈辱を味わされてきた。その気持ちがお前に分かるか?」
「知らない……わよ」
「知らないだろうな。家督を継ぐ必要のない女には」
脅すように炎を操るブラムに、リリアは言った。
「……あんたは何を求めているの」
「なに?」
「その強さに何を求めているの? 私には分からない」
リリアの言葉にブラムはハッとおかしそうに笑った。
「弱いものには分からないさ。全能感と優越感。天に立つものの地平を愚民に理解できるはずがない」
「……そう」
「終わりだな。大人しく俺に跪いてバルーンを捧げれば、これは撃たないでおいてやる」
高濃度の魔力の球体を掲げながら、ブラムは言った。異界物質、裁定拝火。魔界から召喚した炎は勢いを強め、二人の間を壁のように囲っていく。
絶体絶命。
追い詰められたリリアに選択肢はなかった。平静を失い、燃え上がる炎のように怒りをたぎらせたブラムが、手加減をするとは思えなかった。
それでも彼女が選んだ選択は、首を横に振ることだった。輝く熱球を前にして、リリアは毅然として反抗した。
「嫌だ」
リリアの否定と引き換えにブラムの口が開く。
彼の中でも最大級の魔導。異界レベルA。バーンズの血筋が誇る異界物質は、その攻撃力だけで言えばトップクラスに位置する。
「有象無象灰燼と成せ」
言葉と同時に火力が膨らむ。集約するエネルギーの塊を直視できたものはいなかった。火炎ではなく爆発に近い熱線がリリアを狙い撃つ。
「裁定拝火」
リリアの手は未だに剣の柄を持って震えていた。遠くから「逃げて」という悲痛な叫びが聞こえた気がした。
同じ問答を聞いたことがある気がする。迫り来る炎を前にして、リリアの意識は遥か昔の幼いころに飛んでいた。
『強さに何を求めているの』
父にそう問いかけたことがある。訓練用の木刀を取り落とした彼女は痛みで震えていた。何度打ち合おうが終わらない剣の道を前にして、絶望したようにこぼしたことがあった。
『強くなったら、私は何になれるの』
私はきっと産まれる場所を間違ってしまったんだ。フラガラッハの血を背負ってもなお、泰然と生きる兄や姉を見てそう思ったことがあった。私だけが出来損ないで不良品だった。皆がうらやむほどの才能を持って産まれていながら、何一つ活かせていない。
いっそ私が私として産まれていなかったら。リリアではないリリア。私じゃない別の人。もっと私の身体を上手に使える他の誰か。
私は私がいるのが嫌だ。
剣を抜こうと震えが止まらなくなってしまう自分が嫌だ。剣を持って誰かを傷つける自分が嫌だ。だからといって何もできない自分が嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
強い自分も弱い自分も、強くなることも弱いまま生きることも、誰かを虐げることも誰かに虐げられることも、進むことも諦めることも、期待に応えることも期待を裏切ってしまうことも。
全部が嫌だ!
「嫌だ」
ブラムへの返答を繰り返す。熱線はもうそこまで迫ってきている。リリアは鞘から剣を抜きはなった。炎に照らされた模擬剣が、キラリとひかる。
視界は狭く、ただ一点に。
よけるためじゃなくて、踏み超えるために。
このままじゃダメなんだ。約束したじゃないか。誓ったじゃないか。『カモイメルム』、逆境の花。私を信じてくれたんだから。初めて信じてくれたんだから。
「……見ろ、観ろ、視ろ……っ!」
せめて私はそれに応えなきゃいけない。
私は弱い自分が嫌いだ。何もできない自分が、どうしようもなく嫌だ。戦う理由はそれで十分だろうか?
リリアは自分の瞳に問いを投げかけた、自身の中にある異物。レベルSのイレギュラー。身体に埋め込まれたフラガラッハの血を、リリアは解放した。
「万視統覚」
彼女の魔眼はその問いに黄金色の輝きを持って応えた。
放たれた熱線よりも速く、リリアの脚が動く。人智を超えた挙動で、彼女の筋組織が悲鳴をあげた。その激痛を彼女は意にも介さなかった。
さらに一歩。
彼女の魔眼の真価。反射よりも速い。体内時間の凝縮。今や彼女の身体を支配するのは脳髄でもなく脊髄でもなく、二つの眼だった。全てがゆっくりと凪のように流れていく。
踏み出した脚が炎で炙られる。痛い。痛いけど目指すべき地平はまだ先だ。後方で熱線が爆発音を立てる。
視界は青く燃えている。
恐怖は変わらずにそこにあった。戦うことに対する恐怖。剣を取ることに対する恐怖。何もできないことに対する恐怖。
その全てを打ち破るように、リリアは最後の一歩を踏み出して剣を振った。
「やぁああああ……っ!」
誰もリリアの動きを視認できていなかった。全ては一秒に満たない一瞬のこと。ブラム・バーンズのバルーンが割れる音が、森にこだました。
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