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母のおでこには、おはじきみたいに丸くて、ぷっくりと膨らんだ大きなほくろがあった。
それは私にとって母を探す時のかっこうの目印だった。どんな人混みの中にいても、母のほくろはすぐに見つけることができる。砂粒の中で光るガラスの欠片みたいに。遠くにいても目につくのだ。
だから東京の人混みで、ほくろのない母と待ち合わせした時に、私は少し手間取ってしまった。背の小さな母が一生懸命手を振っているのを見つけて、私は慌てて手を振り返した。
「ごめん。遅れて。講義が長引いちゃってさ」
渋谷駅前の広場で、私は母と半年ぶりに再会した。
母のほくろがあった場所は薄いベージュになっていた。手術痕はほとんど分からない。ほくろの存在が当たり前だった私からすると、何かが欠けているような、ムズムズした感じがした。
母は私に「待ち合わせ場所。間違えたのかと思ったよ」と冗談めかして笑った。化粧をして、授業参観に来る時みたいな格好をした母と、私は歩き始めた。
物珍しそうに辺りを見る母のペースに合わせながら、私はゆっくりと坂道を登った。目指すギャラリーは路地を曲がった所にあった。
それは美大生になった私の、初めての展覧会だった。学生の作品を飾ったグループ展で、私は年下の同級生に誘われて、何点かの油絵を置かせてもらっていた。
東京には、絵が上手い人が沢山いた。
嫉妬の気持ちすら湧かないような才能の持ち主がゴロゴロいて、私は初めて、自分がどれだけ小さな世界の住人だったのかを痛感していた。
地元でチヤホヤされていた私は、ここでは凡才以下だった。光り輝く宝石ではない。灰色の石ころだった。
コンビニの前を曲がる。人通りが少なくなってくる。
展覧会をやると報告した時、母は我が事のように喜んでくれた。わざわざ電車で二時間かけて、母はやって来た。
楽しみね、と母が言う。すごく嬉しそうに。誇らしげに。胸がチクリと痛む。
本当は断ろうかと思っていた。
並んだ絵の中で、自分の絵はひどくくすんでいる。とても褒められるようなものじゃない。
母の顔を見る。
どうしてか、ほくろのないおでこに目がいってしまう。
母がほくろを取ったのは、私が上京した後だった。どうして今まで取らなかったんだろうと私は思っていた。ほくろを取ること自体に、私は大賛成だった。
母にとって、顔の目立つ場所にあるほくろはコンプレックスだったはずだ。街ですれ違いざまに、他人から揶揄するような言葉を聞いたことがある。一緒にいた私が気がついたくらいだ。母が気がついていないはずがない。
ただ、そのほくろが、いざなくなってしまうとどこか寂しいものがある。
何かが欠けている。花のない花瓶のような。そんな感じ。
「どうして、今更ほくろ取ろうと思ったの」
信号が青になるのを待ちながら、私は母に聞いた。
母は懐かしそうに話し始めた。
私が覚えていないくらい昔の話だった。
幼い私が地元のお祭りで迷子になったことがあった。すごく混雑していて、どこを探しても見つからなかった五歳の私は遠くの人混みから、母の元へ自力で帰ってきたらしい。
良く見つけられたね、と驚いた母が私に言うと、幼い私は「お母さんのほくろが見えたから」と答えたそうだ。ずっと取らないでね、と泣きながら言ったらしい。
だからおまじないみたいなものよね、と母は笑いながら言った。私が迷子になっても、ほくろを目印に帰って来られるように。
「だから、あなたが一人暮らしし始めたから、もう良いかなと思って」
幼い私は随分と勝手なことを言ったようだった。
母はずっと私のわがままを聞いてくれていた。今の今まで。当人が忘れてしまってからも。
いや。
別に忘れた訳じゃない。
本当に忘れ去ってしまったのなら、ほくろの無い母のほくろを見て、こんなにも寂しい気持ちにはならないはずだ。
そう言う気持ちをグッと押し込めて、私は母に「良い感じだよ」と言った。それもまた本当だった。
これから始まるのは、ほくろのない母の人生だ。おでこのベージュを見ながら、私はそう納得した。
ギャラリーのガラス戸を開ける。ひんやりとした空気の中を歩いていく。私の絵がある場所はギャラリーの一番奥だった。母は一つ一つの絵をじっくりと鑑賞していた。知らず知らず私の手には汗がにじんだ。教授の講評よりも、素人の母の視線が妙に緊張した。
油彩で描いた花の絵。
母は私の絵の前でしばらく立ち止まっていた。
「ああ」
一息つくと、母は私に言った。
「大人になったね」
私は目を閉じて、その言葉を噛み締めた。
それから「そうかな」と少しの疑問系で返す。
そうね、と言った母の目は潤んでいた。
あの時もこんな風に泣いていた。
私は少し思い出す。
迷子になった私を見つけて、母は嬉しそうに泣いていた。
こんな風に。ほくろがあった時と何も変わらずに。
それが今の私には温かくて、やっぱりちょっと寂しく思える。
それは私にとって母を探す時のかっこうの目印だった。どんな人混みの中にいても、母のほくろはすぐに見つけることができる。砂粒の中で光るガラスの欠片みたいに。遠くにいても目につくのだ。
だから東京の人混みで、ほくろのない母と待ち合わせした時に、私は少し手間取ってしまった。背の小さな母が一生懸命手を振っているのを見つけて、私は慌てて手を振り返した。
「ごめん。遅れて。講義が長引いちゃってさ」
渋谷駅前の広場で、私は母と半年ぶりに再会した。
母のほくろがあった場所は薄いベージュになっていた。手術痕はほとんど分からない。ほくろの存在が当たり前だった私からすると、何かが欠けているような、ムズムズした感じがした。
母は私に「待ち合わせ場所。間違えたのかと思ったよ」と冗談めかして笑った。化粧をして、授業参観に来る時みたいな格好をした母と、私は歩き始めた。
物珍しそうに辺りを見る母のペースに合わせながら、私はゆっくりと坂道を登った。目指すギャラリーは路地を曲がった所にあった。
それは美大生になった私の、初めての展覧会だった。学生の作品を飾ったグループ展で、私は年下の同級生に誘われて、何点かの油絵を置かせてもらっていた。
東京には、絵が上手い人が沢山いた。
嫉妬の気持ちすら湧かないような才能の持ち主がゴロゴロいて、私は初めて、自分がどれだけ小さな世界の住人だったのかを痛感していた。
地元でチヤホヤされていた私は、ここでは凡才以下だった。光り輝く宝石ではない。灰色の石ころだった。
コンビニの前を曲がる。人通りが少なくなってくる。
展覧会をやると報告した時、母は我が事のように喜んでくれた。わざわざ電車で二時間かけて、母はやって来た。
楽しみね、と母が言う。すごく嬉しそうに。誇らしげに。胸がチクリと痛む。
本当は断ろうかと思っていた。
並んだ絵の中で、自分の絵はひどくくすんでいる。とても褒められるようなものじゃない。
母の顔を見る。
どうしてか、ほくろのないおでこに目がいってしまう。
母がほくろを取ったのは、私が上京した後だった。どうして今まで取らなかったんだろうと私は思っていた。ほくろを取ること自体に、私は大賛成だった。
母にとって、顔の目立つ場所にあるほくろはコンプレックスだったはずだ。街ですれ違いざまに、他人から揶揄するような言葉を聞いたことがある。一緒にいた私が気がついたくらいだ。母が気がついていないはずがない。
ただ、そのほくろが、いざなくなってしまうとどこか寂しいものがある。
何かが欠けている。花のない花瓶のような。そんな感じ。
「どうして、今更ほくろ取ろうと思ったの」
信号が青になるのを待ちながら、私は母に聞いた。
母は懐かしそうに話し始めた。
私が覚えていないくらい昔の話だった。
幼い私が地元のお祭りで迷子になったことがあった。すごく混雑していて、どこを探しても見つからなかった五歳の私は遠くの人混みから、母の元へ自力で帰ってきたらしい。
良く見つけられたね、と驚いた母が私に言うと、幼い私は「お母さんのほくろが見えたから」と答えたそうだ。ずっと取らないでね、と泣きながら言ったらしい。
だからおまじないみたいなものよね、と母は笑いながら言った。私が迷子になっても、ほくろを目印に帰って来られるように。
「だから、あなたが一人暮らしし始めたから、もう良いかなと思って」
幼い私は随分と勝手なことを言ったようだった。
母はずっと私のわがままを聞いてくれていた。今の今まで。当人が忘れてしまってからも。
いや。
別に忘れた訳じゃない。
本当に忘れ去ってしまったのなら、ほくろの無い母のほくろを見て、こんなにも寂しい気持ちにはならないはずだ。
そう言う気持ちをグッと押し込めて、私は母に「良い感じだよ」と言った。それもまた本当だった。
これから始まるのは、ほくろのない母の人生だ。おでこのベージュを見ながら、私はそう納得した。
ギャラリーのガラス戸を開ける。ひんやりとした空気の中を歩いていく。私の絵がある場所はギャラリーの一番奥だった。母は一つ一つの絵をじっくりと鑑賞していた。知らず知らず私の手には汗がにじんだ。教授の講評よりも、素人の母の視線が妙に緊張した。
油彩で描いた花の絵。
母は私の絵の前でしばらく立ち止まっていた。
「ああ」
一息つくと、母は私に言った。
「大人になったね」
私は目を閉じて、その言葉を噛み締めた。
それから「そうかな」と少しの疑問系で返す。
そうね、と言った母の目は潤んでいた。
あの時もこんな風に泣いていた。
私は少し思い出す。
迷子になった私を見つけて、母は嬉しそうに泣いていた。
こんな風に。ほくろがあった時と何も変わらずに。
それが今の私には温かくて、やっぱりちょっと寂しく思える。
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