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一色直
しおりを挟む一つ年下の彼氏の遠峯伊織と言う人間は、優しくて真面目で善人を絵に描いたような人間だ。私にはもったいないくらいの人。そう思っていた。多分、きっと周りの人だってそうだったに違いない。
つり上がった眦は一見すると怖い感じもする。だけど、その上にある柳のような眉は垂れていて、温厚な彼の性格を顕著に表わしていると思っていたし、男の人にしては少し小作りな口は、小動物のように口角が上がっていて人の好い印象を与えるのだと感じていた。
下瞼の涙袋の形が一層濃くなる笑みは美しかった。開いた口から垣間見える白い歯は歯並びが良くて清潔感もある。尤も、女の私が言うのもなんだけど、遠峯君はいつもどこか上品で大口を開けて笑ったりなんか、滅多にしない。背は物凄く高いってほどではないけど、目線が近いと却って威圧感を感じずに済むのも彼の好きなところ。
「あの、遠峯君、今日遅刻してごめんね。」
「?……気にしてないですよ。」
なんの変哲もない日常の切れ端の隣に非日常は潜んでいる。その日だって、私にしても、遠峯君にしてもきっとただの休日であることに違いはなかったはずだ。
おじゃまします、と卸したてのスニーカーを脱いでフローリングに足をつける前に、私は振り返り駅までわざわざ迎えに来てくれた恋人にぺこりと頭を下げて謝った。
その時私は自分の不甲斐なさとだらしなさに嫌気がさして、彼に呆れられて愛想をつかされやしないかと気が気じゃなかったのだ。それと言うのも、いつもアルバイトで忙しくなかなか会えない中で時間を作ってくれた彼との予定は、今朝私が朝寝坊をしてしまったことで丸潰れになってしまったことに原因がある。完全に私の落ち度だ。申し訳なさに何度も何度も謝る私を見かねた遠峯君は”今日はうちでのんびりしましょう。”と提案して自宅に招いてくれた。
背後に立ってドアを閉めて、いらっしゃい、と目を瞑りにこりと笑う彼は、もじもじしている私を見て、目を丸くして首を傾げると眉を寄せて困ったような顔をする。それから、
”本当に、僕もあの時来たばっかりだったんです。”
と、笑いながら鈍い私でもわかる様な嘘をついてまでフォローしてくれた。遠峯伊織君という人は終始こんな感じで誰にでも優しく、特に恋人の私には親切で怒ったところなど見たことも無いほど、いつもにこやかで柔らかな雰囲気を纏っている。
シンプルな服装や物腰穏やかな佇まい、丁寧な口調は誰からでも好感を持たれるのだろう。よく、こんな好い人捕まえられたね、と褒められるのだ。
大学三年の春先に初めて出会った時も、遠峯君はこうして学生証と定期券の入った鞄を丸々失くして途方に暮れる私に微笑みかけてくれた。
その時まで会話なんてほとんど交わしたことも無いのに、彼は親身になって私の話を聞いてくれて、学内の学生課や警察署まで付き添って、慣れた様子でパニック状態の私を宥めながら遺失物の手続きを済ませて、それから親切にも家まで送ると管理人に事情説明をしてくれた。
どうして他人の私にここまでしてくれるのだろう。
この時まで私は遠峯君の顔や名前を知っていても、同じサークルに所属していたなんて思いもしなかったし、親切にされる筋合いなんて無いと思っていた。管理人がマスターキーを玄関前まで持ってきてくれるまでの数分間、その疑問を口に出すと、彼は照れくさそうに首の後ろを掻いていたことがまだ記憶の中に残ってる。
”困ったときはお互い様でしょ?それに、ミーティングで何回も席が隣になったこともあるんです。センパイは憶えて無いかもしれないですけど。”
これで、好きにならない方がおかしいだろうと私は思う。結局のところ、失くした鞄は大学のすぐ近くの公園のゴミ箱に無造作に押し込まれていて、財布からはお金がすべて抜かれている状態で放置されていた。大方置き引きか何かだろうというのが、警察の見解で、ご丁寧に指紋まで拭き取られていたけれど、鞄の中身は手元に戻ってきて、涙が出るほど安心したことを覚えている。
あまりにもありきたりな文句でありきたりな告白をした時、彼はその時と同じく照れくさそうに笑って
”僕が先に言おうと思ったのに、”
と呟いた。思い出すと死ぬほど恥ずかしい思い出だ。
遠峯君の自宅に訪問するのはこれが初めてで、大好きで憧れすら抱いているこの人の私生活の一端を目にすることができるのかと思うとかなり緊張してしまう。ああ、どうしよう。私今絶対変な顔してると思う。
「あっつ…。部屋、エアコンつけて出ればよかった。具合悪くなったら言ってくださいね。」
「う、ううん。大丈夫。ほんとは来る予定じゃなかったし、仕方ないよ。」
上がりそうな口角を無理やり抑えている間、遠峯君は私の隣を通り過ぎるとフローリングの床に足をつけて、リビングまで案内してくれた。気づかわし気に横目でちらりと私を見つめてほほ笑むと、きれいな顔が一層綺麗に見えて思わずため息が漏れる。
初夏を迎えたばかりの季節だというのに、風が全く吹かないばかりか照り付ける日差しはじりじりと頭皮を焼き、屋外はじっとりと湿った熱気が立ち込めて肌に纏わりつくようだった。室内に入ると日差しは無い分、少しは涼しくて薄暗い廊下の向こうの開け放たれたリビングの扉から淡い光が漏れている。遠峯君のアパートは少し変わった作りをしていて、玄関から伸びた廊下はまっすぐに進むとリビングらしき部屋があるけれど、廊下途中で道が分かれていて、左に曲がるといくつか、ほかにも部屋があるように見えた。洗面所とか、トイレとか、そういう類の部屋なのだろう。
それにしても、下世話な話だけれど、奨学金を借りて通学しているという割には広くてきれいなところに住んでるんだ。駅からそう遠くないし、家賃だって馬鹿にならないんじゃないかな。だから、バイト忙しいのかも。親の金で一人暮らしをして学校まで通わせてもらっている私からすると耳の痛い話だ。頭も良くて勉強できるのに、すごいなぁ。
「此処、日当たり悪いんです。暗いと少し気味が悪いでしょう?」
「そう?涼しくていいと思う。」
「洗濯物、なかなか乾かなくて。」
「あはは、困るね。」
「ええ、……どうしました?」
ふ、とその、いくつもの扉の一つに視線が止まる。突き当りに設置された何の変哲もない、茶色の木製のドアが暗い廊下にひっそりと佇んでいて、閉じているはずの向こうから、この暑いのにひんやりとした冷気が漂っているように、私には思えたのだ。確かに、遠峯君の言う通り、埃一つも見当たらないほどに清潔に保たれた室内なのに、じめじめとしていて陰鬱な空気が漂っていた。
「あ、えっと。広くて、きれいなところだね。」
「…気になりますか?」
「?」
「……あそこ。」
正面に視線を戻すと、リビングを見つめたままの遠峯君の真っ白なうなじが見える。汗ばんでいて湿りを帯びた肌を見つめていると、くにゃりと彼の首が柔らかく曲がる。半分だけこちらを見た遠峯君は目を細めて、低く囁いた。
不自然に脱力した両腕が、ぷらぷらと揺れて、横顔はどこか作り物のようにも見える。遠峯君は、時々こうして、目を瞑って人形みたいな顔で笑う時がある。そういう時、私は彼が何を考えているのか、本気で分からなくて少しだけ怖い。
なんか、おかしなことでもしたかな?と思いながらも、私は彼にぎこちなく笑いかけた。
「なんかちょっと気になっちゃって。ほら、初めて来るから。」
そうすると宇佐美君はゆっくりと振り返り、ちょっとだけ背中を丸めて、私に顔を近づけ覗きこむように視線を合わせる。長い睫毛が瞳に影を作り、光を背に立った彼の顔が暗く翳っていく。背筋にじわりと汗が滲んで、鼓動が早くなり自然と喉が鳴る。
「……何があると思う?」
「え、…うん、と。あはは、…なに?」
「寝室です。」
遠峯君は私に問いかけた割には、さらっ、と質問の答えを出して、神妙そうな空気に緊張しまくった私は拍子抜けして”はい?”と聞き返す。てっきり、気を悪くさせるようなことでもしたのかと思ったのに。
遠峯君は私の話はよく聞いてくれるけど、自分の話はしたがらないから。
「そこ、左のドアの手前の方がトイレ、奥が洗面台。…で、右が僕の部屋。」
「はあ……。」
「ベッドと本棚と、それから…なんだろう?え~と。」
「……。」
いや、そこまで説明しなくてもいいんだけど。なんだかこの人時々ずれたこと言うっていうか、何なんだろう。天然?ちょっとよくわかんないなぁ。そういうところが可愛いんだけど。ぺらぺらと道案内するかのように話し始める遠峯君の急激な雰囲気の変化についていけない私は彼の言葉を復唱した。そうすると、彼はにんまりと笑って、おもむろに片手を上げると私の頬を手のひらで包むように触り、親指を耳たぶに当ててくすぐった。
さらさらとした感触が触れるか触れないかで皮膚の上を滑り、もどかしさに思わず顔を赤らめてしまう。
「あ、とお、みねくん?」
「今日はゆっくりできますね~。」
「う、ん。」
「…見たい?僕の部屋。」
「…それ、って。どういう。」
それってどういうこと?と聞き返そうとしたんだけど、宇佐美君は私に覆いかぶさるように肩に顎を乗せて、首から胸元、二の腕から両手を滑らせると私の手の甲を撫でた。しっとりとした声音と温い吐息が耳にかかり、背筋に薄く鳥肌が立つ。
その時、私の頭を過ったのは数週間前、ようやく会えた彼に堪らず首筋に抱き着いて、キスをしてなだれ込むように自室に引き込んだ出来事だった。きめ細やかな肌を赤く染め上げて、熱い息を吐きながら下唇を噛み、眉を寄せる彼の表情とか、緩やかに手首を握り、ねっとりと味わう様に指先を絡める仕草だとか、そういう淫靡で甘い記憶がことごとく脳を痺れさせる。
ああ、もう最悪。そういう人だって思われてるのかな。
妙な羞恥心で身体が熱くなり、ふわふわと宙に浮いているかのような頼りない酩酊感で立ち眩みすら覚えた。
”センパイ、意外と積極的なんですね。”
と、いたずらっぽく揶揄ったその唇がすぐ耳元で、かすかに震えて鼓膜を揺らすと目も合わせられず俯くことしかできない。緩く握られた手の甲に少しだけ硬い手のひらが合わさって、こすれた部分が瞬間的に発熱していく。
ぎゅう、とみぞおちに力が入り、目を瞑ると遠峯君は私の背中に腕を回して、人差し指で背筋をなぞる。のっしり、肩に寄り掛かった重さで、普段は女の子のような顔立ちで細身の彼もやはり、男の人なのだと感じた。きつく目を瞑ったまま、数秒ほどの時間がひどく長く感じられた。どっくん、どっくんと、鳴り響く心臓の音が胸を揺らして密着した彼のお腹は硬くて、それでいて柔らかい。心臓が爆発しそうだ。彼氏の家に上がるんだから、そういうこともあるってわかってるけどやっぱり緊張するし、なんかこの前みたくあんな風に言われたら本気で恥ずかしい。それだけが目的で会いに来たわけじゃないんだから。
「う、いおりくん。あの。」
「あはは、緊張してる?…冗談ですよ。」
沈黙の後、遠峯君はなだらかな声で何でもないことの様に、そう言った。途端に、肩に入った力が抜けて、私はため息を吐いてしまう。
「、揶揄わないで。」
「顔、真っ赤。…本気にしちゃったんだ?」
「しない方が、おかしいよ。」
硬く硬直した指先がつりそうで、ほぐすように動かして身じろぎをすると、遠峯君の身体が離れて、いつもの表情の彼が目の前で私を見下ろしているのが見えた。
「あ、ごめんなさい。期待してたんですか~。センパイがせっかく遊びに来てくれたのに可愛そうだと思って。」
「う゛っ、…別に期待してないけど。」
「ほんとに?」
図星を突かれて、ぐっ、と言葉に詰まると遠峯君は”また、後で。”と私の手を取って、踵を返す。子供を言い聞かせるような口調で、そんな風に宥められるとどちらが年上なのかわかりゃしない。たった一年だけど、私の方がお姉さんなのに。
柔らかく握られた手のひらは汗ばんでいて、軽く手を引かれると進まざるを得ない。なんだか完全に宇佐美君のペースだ。軽やかな足取りで鼻歌交じりに歩を進めた宇佐美君の視線はもう完全にあの扉からは離れていた。そういえば、結局あの突き当りの扉の向こうには何があるんだろう?そう思った私は、宇佐美君の背中に、素直に質問を投げかけた。
「あのさ、あれは?」
私が、そう口にすると、宇佐美君はぴたりと一瞬身体の動きを止めた後、静かにこちらを向かないまま、
「ただの、物置ですよ。」
と返答したのだった。
◇
「すみません、飲み物切らしてました。近くで買ってきます。」
「あ、私も行くよ。」
「いえ、ほんとすぐ近くですから。センパイはテレビでも見ててください。」
「そう?」
「何か欲しいものは?」
「ううん、なんにも。」
辿り着いたリビングは広々としていて、フローリングの床の真ん中に毛足の長いラグ、その上にソファとローテーブルが置いてある。部屋の隅には本棚、それから机、正面には大きな薄型テレビ。それ以外にはなにもなく、男の子の一人暮らしにしては綺麗過ぎるほど清潔で、一言で言えば生活臭がしない、そんな印象を受ける。
頭が良くて優しくておまけに顔もいいけど、遠峯君だって人間なのだから、ダメなところの一つもあるに違いないのに、ここまで完璧な生活を見せつけられると、なにも言葉が出てこない。統一された色味と無機質だけれど趣味の好いインテリアに感嘆の息すら上がる。
適当に座って、と促され腰を掛けたソファは柔らかく、腰が沈み込む様な感覚になった。備え付けのキッチンに鎮座する冷蔵庫を覗き込んだ遠峯君は、あっ、と声を上げて私に振り返ると冷蔵庫に何もないことを謝った。
「来るとき、なにか買って来ればよかったね。」
ほんとに、気が利かない女で申し訳ない。そんな心持ちになる。なにをするにも先回りして行動してくれる彼氏を持つと自分の情けなさが本当に嫌になる。
「いいんです。僕が好きでしてることだから。」
眉を寄せて卑屈なため息を吐いた私の気持ちを、遠峯君はいつものように先回りして、言葉をかけてくれた。それから、私の目の前に立つと腰をかがめて、キスをしてくれる。柔らかい唇が合わって、ちろりと、遠慮がちに薄い舌先が口の隙間に入り込み、私の前歯を撫でた。そわそわと浮き立つような感覚で、彼の頬に両手を当てて撫でると薄く開いた目が三日月の様に弧を描いた。
背もたれに身体を押し付けるように両肩を掴んで力強く掴まれた指先が皮膚に食い込んで、それが窮屈で心地よく胸のすくような気持ちを癒してくれる。角度を変えて何度もリップ音を鳴らし、舌を絡めるとざらついた表面の感触がぬるりと裏側を滑る。浅く唇を啄むだけの口づけを繰り返す彼に応えるように、首筋を抱きしめて縋り付くと指先に力が入った。
好きだなぁ。ずっとこうしてたい。
これまでも恋愛でだって何度も感じた平凡で柔らかく温かな幸福が身体を包み込み、満たしていくと彼への愛しさが私の胸を弾ませた。
「良い子で待っててくださいね。」
遠峯君は頬を少しだけ赤らめながら、私の頭をくしゃりと撫でると、それからすたすたと来た道を戻り一人で外へ出かけてしまった。残るのは小さな名残惜しさだけだ。
ばたん、と玄関の扉が閉まる重たい音が遠くから響き、私はテーブルの上のリモコンを操作して電源を付けた。丁度お昼を回った時間帯、バラエティ番組では都内某所のグルメツアーが放送されていた。つまらないテレビの内容を頬杖突きながら眺めていた私は、ついさっきキスをしたばかりなのにもう彼のことが恋しくてたまらなく、居ても立っても居られない気分になる。ほう、ととろけるような吐息を吐いたあと、退屈な欠伸を噛み殺したのだ。
立ち上がり、部屋を見渡すと本棚には少しの参考書とどこで購入したのかわからない小さな置物、作り物の観葉植物がいくつか並んでいた。あとは、なんだろう。小難しい推理小説?遠峯君ってどんな趣味してるんだろう?
私はこの時、折角何も話したがらない彼の私生活に踏み入れたのだから、なにも知ろうとしないのは勿体ないんじゃないかと思ったのだ。特に気になるのは、彼が単なる物置だって、言ったあの部屋。何か恥ずかしい物でも隠しているんじゃなかろうか。だって、あまりに完璧すぎるもの。
どこからどう見ても非の付け所の無い完璧な遠峯君の、欠けている部分を探したくなったのだ。それは、単なる好奇心というにはあまりにも後ろ暗くて醜い感情だった。
「少しくらいなら、いいかな。」
誰に言うでもなく、自分の中の後ろめたくも幼稚な感情に言い訳をした私は、ゆっくりと歩みを進めてリビングを出た。知らなくてもいい事も敢えて考えない方が得することも世の中にはあるって、それまでの人生の中で身をもって経験してきたはずなのに。どこまでも浅はかで愚鈍な私は、その時、そんな考えすらも頭に無かったのだ。
凡庸でつまらないけれど、穏やかで愛おしい生活がこの先も続くなんて、むやみやたらに信じ切っていた。
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