裏世界の蕀姫

春人ルート

第57話

「君にはこれにサインしてもらう」
「これって…」
「この前渡した身分証が役に立つようになる書類。心配ならゆっくり中身を読んでて。
俺はその間に、あの人たちと話をしてみる」
行かないで、そう言いたかったけれどぐっと堪えた。
「…月見、大丈夫？」
「ごめんなさい…」
「そんなに謝らなくていい。取り敢えずこれを食べてみてほしい」
雪乃が優しく話しかけてくれて、ここにいたら安全なんだと少しほっとした。
もらった紙に目を通し終えて最後に名前を書く。
これでもう、あの人たちとは何の繋がりもない。
窓から見える春人はあの人たちに向かって笑みを向けてはいるけれど、なんだかいつもと様子が違った。
「大丈夫。春人はきっちり仕事をこなす人だから」
その言葉は心強いけれど、どうしても気になっていることがある。
「…あの、雪乃も新しい生活を始めたんですよね？不安はなかったんですか…？」
「全然って言えば嘘になる。ただ、楽しいことが待っているんじゃないかと信じてみることにした。
その結果今があるから、あのとき頑張ってくれた人たちには感謝しかない」
雪乃が笑みを浮かべたところで、春人がこちらに戻ってきた。
「もう終わったの？」
「はい。諦めが早い人たちで助かりました」
その手には私がサインしたものとは別の紙らしきものが握られていて、あの人たちのサインが並んでいた。
「契約が破られた場合には、この紙の効果が発動します」
雪乃は春人の方を見て苦笑していた。
「そういうところ、本当にしっかりしてる。相手からすれば威圧感がすごかったと思う」
「いえ、冷静に話しましたよ。…冷静に、ね」
背筋がぞくっとするような笑みに、少しだけ体が固まってしまう。
一体どんな内容が書かれているのか気になったけれど、あの人たちの偽りの優しさに騙されてしまわなくて安心した。
「もう少ししたら、また町歩きしましょうか」
「は、はい」
「私は接客に戻るけど、何かあったらすぐ声をかけて」
雪乃はそう言って席を離れていった。
春人は疲れたのか、心なしか元気がないように感じる。
「だ、大丈夫ですか…？」
「ああいう人たちばかり相手にしていた時期もあるから、交渉自体はなれてる。
ただ、悪意を隠して話す人と一緒にいるのはちょっと体力が削られるだけ」
「本当に、」
ごめんなさい、そう言おうとした瞬間頬をむにむにと触られる。
「君は悪いことなんてしてないんだから、別に謝る必要なんてない」
…先を越されてしまった。
私の為に頑張ってくれて、本当に感謝している。
ただ、負担をかけていないか心配になった。
「それ、ゆっくり食べて。それからこの時期ならではの場所に連れていく」
「ありがとう、ございます」
今はこうしてお礼を言うことしかできない。