約束のスピカ

黒蝶

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約束のスピカ

問9

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《何考えてたの?》
「思い返してたんだ。色々あったんだなって」
もう手が届かないところにいる相手に謝ることはできない。
それでも…たとえ僕が永遠にこの場所から離れられなくても、先生のことは覚えていよう。
僕に向き合おうとしてくれた、たったひとりの人だから。
《君は生きている頃から襲われやすい体質だったの?》
「分からない。不思議なものが視えたことはあったけど、食べられそうになったことはなかったと思う」
《そっか。…君を護っていた人がいたのかもね》
おかげさんはそう言って笑っていた。
また明日も来るのかと訊かれて、多分と答える。
相変わらずフードを被ったままだけど、おかげさんとの会話は少しずつ増えていった。
翌日、久しぶりに自分の教室へ行ってみる。
毎日渋々ホームルームだけは出ていたから、どの机に座っていたかは覚えていた。
白い花がささっている花瓶が置かれている席に着こうとしたら、何かが近づいてくる音がする。
視えないと分かっていても、どうしても怖くなって隠れてしまった。
久しぶりに見た先生はなんだかやつれていて、疲れた顔をしている。
花瓶の水を換えながらぼそりと呟かれた一言に胸が苦しくなった。
「…こんなことをしても、もう帰ってこないのに」
どうして先生はそこまでしてくれるの?
僕なんかいなくなった方がいい、みんな幸せだって思ったのに、どうして先生は悲しそうなの?
…そんな疑問をぶつけることもできないから逃げた。
その場にいるともっと胸が苦しくなりそうで、どうしても我慢できなかったんだ。
自分の部屋に入ったとき思い出したのは、初めて手当てしてもらったときのこと。


『流山、逃げるな』
『い、嫌だ…』
この人にも殴られるかもしれない、怒っているみたいだしどうしよう…。
人と関わるのがずっと不安だった。ずっと怖かったんだ。
だけど、毎日逃げても先生は諦めずに追いかけてきた。
『嫌だじゃない。ちゃんと見せてみろ』
『見せるって、何を…?』
図鑑を抱える手に力を入れると、先生は視線を合わせるようにその場にしゃがみこむ。
『傷』
『傷?』
『消毒せずに放っておいたら大変なことになるぞ』
話したことがない相手と、痛いことや苦しいことをしてくる相手。
それ以外の人がいるなんて思わなかった。
おばあちゃん以外では久しぶりで、痛くしないなんて声をかけられながら手当てを受けると変な感じがする。
『できた』
『…どうして?』
『放っておけるわけないだろ。それだけ傷を負ってるのに何もしないならそれは教師じゃない』
服で隠していたつもりだったのに、どうして傷だらけだって分かったんだろう。
不思議な先生だと思いつつ、授業は1年生の5月からちょくちょく抜けていた。
誰も探しに来ない、学校には一応来てるしテストだけ受ければいい…人が沢山いる場所で授業なんて受けられない。
静かな場所で落ち着いて過ごしたかった。
…そんな僕を、いつも探しに来てしまう人がいる。
『見つけた』
『放っておいてくれればいいのに』
『人が多い場所が苦手なのか?』
直球でそんなことを訊かれたのは初めてで、ばっと顔をあげる。
先生は本気で心配しているみたいだった。
『…人が多いと、具合が悪くなる。信じてもらえないだろうけど』
今までだってそんなのは甘えだって誰にも分かってもらえなかった。
この先生もそうだろうって思っていたのに、ふっと笑ってその場に腰をおろす。
『それじゃあ仕方ないな』
それから毎日先生の授業を受け続けて、嫌なことを忘れられた。
夜学校に忍びこんでいるのがばれたのは、6月末頃。
いつも使っているルートから入って屋上に行くと、望遠鏡がセットされていた。
『やっぱり今日も来たのか』
『……』
先生が相手でもあんまり話さないようにしていた。
ぬくもりをどう返したらいいのか分からなかったから。
だけど、この日関係が少しだけ変わることになる。
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