夜紅譚

黒蝶

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第16章『消えゆくもの』

第137話

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《…泡沫様と呼ばれていたわね。昔は》
「そう呼んでもいいか?」
《様、なんて他人行儀は嫌いよ》
「なら、泡沫。おまえのことをもっと聞かせてくれ」
《聞かせてくれと言われても、これ以上話せることはないわ》
泡沫は今の噂をどう思っているのだろうか。
「噂、改変されているんだろ?」
《どうやらそうみたいね。自覚はないけれど、私自身も大切なことを忘れてしまっている気がするの》
「大切なこと…」
泡沫は寂しげな笑みを浮かべ、桜を見ながら頷く。
ようやく確認できたその姿は、この世の美しいもの全てを集めてもまだ足りないくらい儚いものだった。
《何を忘れているかも分からないのに、そんなふうに思うのは変かしら?》
「そんなことない。一緒に探すよ、私も」
《この花が散れば、次の春まで出てこられないわよ?》
「それでも探す」
《頑固な人ね…。でも、悪い人ではないことは分かった。それと、人間の感情を持ち去るときも気をつけるわ》
「そうしてもらえると助かる」
泡沫はただ桜を見つめている。
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい様子を、ただ近くで見ていることしかできなかった。
「泡沫様、ですか?」
「本人はそう呼ばれていたと言っていたが、そういう事件や妖の話はあるか?」
「調べてみないと分からないですね…。けど、何もないってことはないと思います」
隣で話を聞いていた瞬が手をあげる。
「どうした?」
「昔、このあたりに大きなお屋敷があったらしくて…。そこの引きこもりのお嬢様がそんなふうに呼ばれてたはず」
「そうなのか?」
「先生から聞いた話なんだけど、ちょっと曖昧なんだ。好きな人と結婚したいから日中は部屋に引きこもって、親が決めた相手と顔を合わせないようにしてたって」
本当の想い人が分かれば、泡沫も少しは寂しくなくなるだろうか。
「あとは先生待ちか…」
「年度末で忙しいみたいだよ。さっきも書類作ってたし、あんまり寝てないみたいだし」
「なんだ、ちび。寂しいのか?」
「……ちょっと行ってくるね」
「ごめん、ちょっと待てって!からかうつもりじゃなくて、寂しいならそう言えばいいのにと思っただけで…」
監査室を飛び出した瞬を追いかけ、陽向もそのまま出ていってしまう。
気持ちを言葉にするのはそう簡単なことじゃない。
特に瞬が経験してきたことを考えると、私たちが感じているより何倍も難しいと感じているはずだ。
…陽向はそれを分かったうえで言ったんだろう。
追いかけようと立ちあがると、しゃらしゃらと鈴の音がした。
「……誰だ」
《──》
「おまえは、この前の…」
その少女は、いくつかの事件に関わっているであろう存在だった。
《もうすぐ、名前が奪われる》
「新しい噂が暴走するんだな」
《あの人を止めて》
「あの人って誰なんだ?どこへ行けばいい?」
《それは──》
そよ風にさらわれるように、少女は姿を消す。
開いていた窓から春風が桜の花びらを運んできた。
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