夜紅の憲兵姫

黒蝶

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閑話『冬の過ごし方』

『ぬくもり』

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この日は朝から薬を飲むよう指示を出し、今は電車に揺られている。
「今日はどこに行くの?」
「まだ教えない」
「ええ…」
瞬を連れ出せるのはこういった長期休暇だけだ。
だからこそ、できることはなんでもしたい。
あやふやな記憶を辿り、人間だった頃海に行ってみたいと話していたのを思い出した。
「あれ、もしかして…」
「ああ」
駅からでもよく見える景色がいい場所はここくらいしか思いつかなかった。
「すごい…本当に青いんだね!」
「そこからか」
「写真でしか見たことなかったから、合成かと思ってた」
瞬は苦笑しながらそんなことを話しているが、それがどれだけ過酷な環境にいたかを物語っている。
この町で海を見たことがなかったなんて、自由時間が全くなかったと言っているに等しい。
「誰もいないだろうから砂浜に行ってみるか」
「う、うん」
表情が少し引きつっているように見えたのは不安だからだろう。
誰だって初めてのものは不安だ。
特に他の人が感じ取れないものにまで敏感な瞬からすれば、不安や恐怖が大きくなるのも頷ける。
「あれ、先生と瞬?」
「詩乃ちゃん…?」
何故こんな場所に折原がいるのか分からず、一瞬呆然と立ち尽くしてしまう。
ただ、ずっと固まっているわけにはいかないので声をかけた。
「何かやっているのか?」
「昔、ここが見える場所に住んでたんだ。穂乃はお泊まり会でいないし、久しぶりに見たくなったから来た」
「そうか」
過去のことは敢えて深くは訊かないようにしている。
ただでさえ異界への狭間で再生されたものを勝手に見てしまっている上に、本人は無自覚かもしれないが時々苦しそうにしているのだ。
今回はいい想い出のようだが、無理矢理ひっかき回す必要もないだろう。
「海って初めて来たけど、すごく綺麗だね」
「そうだな。私もよくここに来ているんだ。静かだし、人通りも多くないから」
人混みが苦手だからなのか、人間そのものが苦手だからなのか。
今を壊したくなくて結局何も言えなかった。
「…休みは楽しめたか?」
「少なくとも、おかしなものに絡まれることは今のところないかな。ふたりはどうなんだ?」
「…まあ、それなりに」
「先生が色々な場所に連れて行ってくれるから楽しいよ」
「そうか。それはよかった」
言うつもりなんてなかったのに、瞬があまりに楽しそうに話すものだから止めずに見守ることにした。
海なんて俺もほとんど来たことはないが、瞬が喜ぶならそれでいい。
「それじゃあ私は行くよ」
「また学校でね!」
「気をつけて帰れ」
まだ杖無しで歩けるような状態ではないはずだが、もう快方に向かっているようにも見える。
念の為もう少し様子を見た方がいいだろうか。
「先生、もしかして疲れてる?」
ぼんやりしていたように見えたのか、瞬は不安げに瞳を揺らして尋ねてきた。
「全然。なんでそう思った?」
「詩乃ちゃんを見てる顔が疲れてたから…それとも、海が嫌いだった?」
「そういうわけじゃない。ただ、折原の診察をいつにするか考えてただけだ。
足はだいぶよくなってきているようにも見えるが、治ったらすぐ怪我しそうで危なっかしい」
「確かにそうかも。すぐ無理するところ、先生とおんなじだから…」
別に無理をしているつもりなんてなかったが、そんなふうに見えているのか。
足元に落ちていたシーグラスを瞬に渡すと、きょとんとした顔でこちらを見た。
「これ、何?」
「シーグラス。それから、このあたりの海水ならそこまで冷たくないはずだ」
「わっ、冷たい…!」
俺は俺にできることしかしていない。
それどころか、いつだって救われる側だ。
「…おまえがそうして笑っていてくれれば充分休んだことになるんだよ」
「先生?」
「なんでもない。もう少ししたら帰るぞ」
「うん。それまでに目に焼きつけておくね」
これだけ心穏やかに休みを過ごしたのはいつ以来だろうか。
休みにやると余計なことばかり考えていたのが、瞬どの思い出で埋まっていく。
こんな楽しい休みをずっと続けていきたい。
……そう願ってもいいだろうか。
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