64 / 302
閑話『夏の過ごし方』
室星の場合
しおりを挟む
「先生」
「どうした?」
資料を作る手を止めると、瞬が見覚えのある猫を抱えて立っていた。
「この子、洗ってあげたい」
「どこで拾ってきたんだ?」
「中庭。ちょっと寄り道したかっただけなんだけど、汚れてたから放っておけなかった」
生きていた頃に受けた暴力を思い出しているのかもしれない。
転んだ程度の傷ではなかったことも、助けを求めても誰にも見向きされない辛さも、瞬は誰より知っている。
「だけど、この状態の僕が触れるものって限られてるし…」
「第2理科室でなら洗える」
「行ってもいいの?」
「寧ろ俺ひとりじゃ分からないことが多すぎるから、一緒に来てもらえた方が助かる」
「分かった」
霊体が普通の猫に直接触れないという事実を瞬は知らない。
「猫って水が苦手でしょ?どうやって洗うの?」
「心配しなくても、この猫はそんなに暴れない」
たまたま持っていた石鹸を泡立てると、黒猫は大人しくされるがままになっていた。
「猫さん、もうちょっとだからね」
優しく体を洗うその姿は、ただの少年にしか見えない。
今でも授業をさぼると言い出すんじゃないかと想像してしまう。
【僕、あの先生の授業だけは絶対出ない】
【なんで出たくないんだ?】
【…なんとなく?】
【そうか。それじゃあここで授業だ】
あのときほど大量の教員免許を持っていてよかったと思ったことはない。
「猫さんの体、乾かしてあげないと…」
「これなら使えるはずだ」
「ありがとう先生」
人間以外でも使える道具というものがある。
そのなかにあったドライヤーを瞬に手渡すと、慣れた手つきで黒猫の体に風をあてた。
「できたよ猫さん」
「あとは自由に散歩でも楽しむだろ」
「駄目。ちゃんと怪我してないか確認しないと」
普通の猫ならそうしなければならないが、この黒猫はそう簡単に怪我したりしない。
「大丈夫かな…」
《相変わらず丁寧な子ね》
「え?」
「…意地の悪いことしてないでちゃんと話してやれ」
黒猫はぱっと1回転して、猫耳が生えた人型で着地する。
「猫さんじゃない…」
「ちゃんと猫ではあるのよ。けど、可愛らしくにゃんにゃん鳴くような性格はしてないの」
「…先生の友だち?」
「友だちというか腐れ縁だ」
いい人間と出会ってしまったという意味では仲間かもしれない。
……お互い厄介なものを抱えてしまっているという意味でも。
「恋愛電話って知ってるか?」
「一応。恋とか考えたこともなかったけど、電話しに行ってる同級生は見た」
瞬の話を聞いた猫又は、何故かにやにやしながら俺を見た。
「今は夏休みで生徒があまり来ないから、仕事が少なくてすむのよ。教師のあんたと違って、人間と積極的に関わってないしね」
「…早く行かないと木嶋桜良を待たせることになる」
「なんであの子の名前が…あんたが言うなら本当でしょうね」
予知日記に書かれていたことを察知したのか、それ以上は追求されなかった。
理科室を出ていく直前、瞬の方を向いて微笑んだ。
「ねえ。この教師の話が聞きたいならまた今度教えてあげる」
「え?」
「こいつにちょっかい出すな」
「そんなに心配しなくても、あんたの大事なものを傷つけたりしないわよ」
くすくす笑って去っていく姿を見送っていると、隣から視線を感じる。
「…ねえ、先生。さっきのどういうこと?」
「さっきのって?」
「僕、先生の大事なの?」
あの悪戯猫、余計な言葉を残していったな。
本人にそうだと言うのもおかしな気はするが、違うと嘘を吐いて傷つけたくない。
「…そうかもな」
「今の、もう1回言って」
「もう言わない。そろそろ折原たちと勉強会をするんじゃなかったか?」
「そうだった…!」
溶けるように消えていく姿を見つめながら、流山瞬がいなくなった日のことを思い出す。
【人間って意外と脆いのよ。特に精神なんて1度傷つけられたらなかなか持ち直せないんだから。
…けど、あんたが心配してたって気持ちは相手に伝わったんじゃない?それがどんな形であれ、思っていることは変えられないもの】
自分を愛してくれた主人を亡くした黒猫と目の前が絶望で黒く染まる経験をした俺は、お互い大切なものを失った仲だ。
だが、俺の大事なものは今目の前にある。
「…気をつけていってこい、瞬」
あいつが望んでくれる限り、この先も見守り続ける。
夏の終わりが近づくのを感じながら、大切な人たちが楽しい時間を過ごすことを祈った。
「どうした?」
資料を作る手を止めると、瞬が見覚えのある猫を抱えて立っていた。
「この子、洗ってあげたい」
「どこで拾ってきたんだ?」
「中庭。ちょっと寄り道したかっただけなんだけど、汚れてたから放っておけなかった」
生きていた頃に受けた暴力を思い出しているのかもしれない。
転んだ程度の傷ではなかったことも、助けを求めても誰にも見向きされない辛さも、瞬は誰より知っている。
「だけど、この状態の僕が触れるものって限られてるし…」
「第2理科室でなら洗える」
「行ってもいいの?」
「寧ろ俺ひとりじゃ分からないことが多すぎるから、一緒に来てもらえた方が助かる」
「分かった」
霊体が普通の猫に直接触れないという事実を瞬は知らない。
「猫って水が苦手でしょ?どうやって洗うの?」
「心配しなくても、この猫はそんなに暴れない」
たまたま持っていた石鹸を泡立てると、黒猫は大人しくされるがままになっていた。
「猫さん、もうちょっとだからね」
優しく体を洗うその姿は、ただの少年にしか見えない。
今でも授業をさぼると言い出すんじゃないかと想像してしまう。
【僕、あの先生の授業だけは絶対出ない】
【なんで出たくないんだ?】
【…なんとなく?】
【そうか。それじゃあここで授業だ】
あのときほど大量の教員免許を持っていてよかったと思ったことはない。
「猫さんの体、乾かしてあげないと…」
「これなら使えるはずだ」
「ありがとう先生」
人間以外でも使える道具というものがある。
そのなかにあったドライヤーを瞬に手渡すと、慣れた手つきで黒猫の体に風をあてた。
「できたよ猫さん」
「あとは自由に散歩でも楽しむだろ」
「駄目。ちゃんと怪我してないか確認しないと」
普通の猫ならそうしなければならないが、この黒猫はそう簡単に怪我したりしない。
「大丈夫かな…」
《相変わらず丁寧な子ね》
「え?」
「…意地の悪いことしてないでちゃんと話してやれ」
黒猫はぱっと1回転して、猫耳が生えた人型で着地する。
「猫さんじゃない…」
「ちゃんと猫ではあるのよ。けど、可愛らしくにゃんにゃん鳴くような性格はしてないの」
「…先生の友だち?」
「友だちというか腐れ縁だ」
いい人間と出会ってしまったという意味では仲間かもしれない。
……お互い厄介なものを抱えてしまっているという意味でも。
「恋愛電話って知ってるか?」
「一応。恋とか考えたこともなかったけど、電話しに行ってる同級生は見た」
瞬の話を聞いた猫又は、何故かにやにやしながら俺を見た。
「今は夏休みで生徒があまり来ないから、仕事が少なくてすむのよ。教師のあんたと違って、人間と積極的に関わってないしね」
「…早く行かないと木嶋桜良を待たせることになる」
「なんであの子の名前が…あんたが言うなら本当でしょうね」
予知日記に書かれていたことを察知したのか、それ以上は追求されなかった。
理科室を出ていく直前、瞬の方を向いて微笑んだ。
「ねえ。この教師の話が聞きたいならまた今度教えてあげる」
「え?」
「こいつにちょっかい出すな」
「そんなに心配しなくても、あんたの大事なものを傷つけたりしないわよ」
くすくす笑って去っていく姿を見送っていると、隣から視線を感じる。
「…ねえ、先生。さっきのどういうこと?」
「さっきのって?」
「僕、先生の大事なの?」
あの悪戯猫、余計な言葉を残していったな。
本人にそうだと言うのもおかしな気はするが、違うと嘘を吐いて傷つけたくない。
「…そうかもな」
「今の、もう1回言って」
「もう言わない。そろそろ折原たちと勉強会をするんじゃなかったか?」
「そうだった…!」
溶けるように消えていく姿を見つめながら、流山瞬がいなくなった日のことを思い出す。
【人間って意外と脆いのよ。特に精神なんて1度傷つけられたらなかなか持ち直せないんだから。
…けど、あんたが心配してたって気持ちは相手に伝わったんじゃない?それがどんな形であれ、思っていることは変えられないもの】
自分を愛してくれた主人を亡くした黒猫と目の前が絶望で黒く染まる経験をした俺は、お互い大切なものを失った仲だ。
だが、俺の大事なものは今目の前にある。
「…気をつけていってこい、瞬」
あいつが望んでくれる限り、この先も見守り続ける。
夏の終わりが近づくのを感じながら、大切な人たちが楽しい時間を過ごすことを祈った。
1
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
助けてください!エリート年下上司が、地味な私への溺愛を隠してくれません
和泉杏咲
恋愛
両片思いの2人。「年下上司なんてありえない!」 「できない年上部下なんてまっぴらだ」そんな2人は、どうやって結ばれる?
「年下上司なんてありえない!」
「こっちこそ、できない年上の部下なんてまっぴらだ」
思えば、私とあいつは初対面から相性最悪だった!
人材業界へと転職した高井綾香。
そこで彼女を待ち受けていたのは、エリート街道まっしぐらの上司、加藤涼介からの厳しい言葉の数々。
綾香は年下の涼介に対し、常に反発を繰り返していた。
ところが、ある時自分のミスを助けてくれた涼介が気になるように……?
「あの……私なんで、壁ドンされてるんですか?」
「ほら、やってみなよ、体で俺を誘惑するんだよね?」
「はあ!?誘惑!?」
「取引先を陥落させた技、僕にやってみなよ」
トレンチコートと、願いごと
花栗綾乃
ライト文芸
私のちっぽけな殻を破ってくれたのは、ふらりとやってきた訪問者だったー。
冬休み。部屋に閉じこもっていた実波は、ふらりとやってきた伯母の瑞穂と再会する。
そんな数週間の、記録。
スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜
市瀬まち
ライト文芸
その喫茶店を運営するのは、匂いを失くした青年と透明人間。
コーヒーと香りにまつわる現代ファンタジー。
嗅覚を失った青年ミツ。店主代理として祖父の喫茶店〈喫珈琲カドー〉に立つ彼の前に、香りだけでコーヒーを淹れることのできる透明人間の少年ハナオが現れる。どこか奇妙な共同運営をはじめた二人。ハナオに対して苛立ちを隠せないミツだったが、ある出来事をきっかけに、コーヒーについて教えを請う。一方、ハナオも秘密を抱えていたーー。
ヒロイン失格 初恋が実らないのは知っていた。でもこんな振られ方ってないよ……
ななし乃和歌
ライト文芸
天賦の美貌を持って生まれたヒロイン、蓮華。1分あれば男を落とし、2分あれば理性を壊し、3分あれば同性をも落とす。ところが、このヒロイン……
主人公(ヒーロー役、京一)を馬鹿にするわ、プライドを傷つけるわ、主人公より脚が速くて運動神経も良くて、クラスで大モテの人気ナンバー1で、おもっきし主人公に嫉妬させるわ、さらに尿漏れオプション持ってるし、ゲロまみれの少女にキスするし、同級生のムカつく少女を奈落の底に突き落とすし……、最後に死んでしまう。
理由は、神様との契約を破ったことによる罰。
とまあ、相手役の主人公にとっては最悪のヒロイン。
さらに死んでしまうという、特殊ステータス付き。
このどん底から、主人公は地獄のヒロインを救い出すことになります。
主人公の義務として。
未亡人クローディアが夫を亡くした理由
臣桜
キャラ文芸
老齢の辺境伯、バフェット伯が亡くなった。
しかしその若き未亡人クローディアは、夫が亡くなったばかりだというのに、喪服とは色ばかりの艶やかな姿をして、毎晩舞踏会でダンスに興じる。
うら若き未亡人はなぜ老齢の辺境伯に嫁いだのか。なぜ彼女は夫が亡くなったばかりだというのに、楽しげに振る舞っているのか。
クローディアには、夫が亡くなった理由を知らなければならない理由があった――。
※ 表紙はニジジャーニーで生成しました
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる