ハーフ&ハーフ

黒蝶

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遡暮篇(のぼりぐらしへん)

番外篇『彼女の話』

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あのふたりを見ていると、いつだって思い出す。
ひとつっきり残ったミシンを撫でながら、愛しい相手の名をほぼ無意識に口にする。
「...アイリーン」
あいつと出会ったのはどれ程前だったか。
怪我をしていたあいつを護りたくて、ふたりきりで生活していた。
「ミシンってこう使うのか?」
「そうよ。...ラッシュってやっぱり器用で羨ましいな」
「おまえの教え方がいいからだよ」
ふたりだけで密かに挙式を済ませる直前、初めてミシンというものを使った。
ベールが何かに引っ掛かったのか、刺繍が取れてきていたのだ。
「...手縫いの方が早い」
「でも、ラッシュの作るものはどんなものだって好きだよ」
「そうかよ」
照れていたのもあり、そんな言葉しかかけられなかった。
もっと器用に話せていれば、もっと別の接し方ができていれば、何かを変えられたのかもしれない。
全てを終えた後はふたりきりでグラスをあわせた。
「...うん、今日のお酒は美味しい気がする」
「本当に苦いのが苦手なんだな。あんまり無理して呑みすぎるなよ、アイリーン」
「うん」
彼女が作るものはとにかく繊細で、俺には世界で1番綺麗なものに見える。
──それは今でも変わらない。
「おまえのことだから、きっとのんびりしてるんだろうな」
ポケットに入っている止まったままの懐中時計...これも想い出の品だ。
古くなり止まってしまっているが、それでも手離せないものであることに変わりはない。
無性に会いたくなっては手のひらを見つめるのを繰り返している。
「...独りには慣れてると思ってたのにな」
そんな言葉を呟きながら、ウイスキーを一気に浴びるように呑む。
『これを、俺に?』
『ごめんなさい。あんまり要らないかもしれないけれど、これくらいしか思いつかなくて...』
初めて貰った贈り物で、それから恋から愛に変わるまでそんなに時間はかからなかった。
あのときの表情も声も仕草も、目を閉じればすぐに思い出せる。
アイリーンとの出会いがあったから、あいつが側にいてくれたから頑張ってこられた。
本当は今すぐ会って声が聞きたい。
そしてお互いどんなことをして過ごしてきたのか、楽しく語り合うのだ。
「...もしも生まれ変わったら、俺が必ず見つけてやる。
約束はちゃんと守るから安心してくれ、アイリーン」
月光が寂しさを紛らわせてくれるような気がして、そっとミシンに手をかける。
少しずつ仕上げながら、らしくもなく彼女の顔ばかり思い浮かべた。
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