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またね、なんて
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きみ……石川さんは、不思議なひとだ。中学校のときもこの高校でも、きみと僕はクラスメイトになった。
きみは中学生のころからはやく着替えるのが得意で、トイレでこっそり着替えていることが多かった。そのトイレというのが旧校舎のトイレだったから、夏休みに入る頃にはいつも、『花子さんの正体は石川さん』なんてうわさが流れていた。
もう少し現実的なうわさなら、たとえば昔負ったひどい火傷の痕が残っているからだとか、とにかく肌を見せたくないからではないか、というもの。また旧校舎のトイレに、着替えだけでなく別の目的があるのではないかといううわさも立った。
結局うわさはうわさ。周囲は石川さんから距離を取って、石川さんも周囲から距離取っていた。
僕が石川さん……きみを好きだと思ったのは、ほんの一瞬だった。
目が合ったんだ。国語の時間、小説の美しさを説く教師から顔を背け、窓際に視線を向けたとき。ガラスに淡く映り込んだきみの瞳と、目が合ったんだ。
きみは僕の後ろの方の席で、窓に映し出された僕と、同じような顔をして窓を見つめていた。
昼休憩の時間だ。教室に入りこんだ人間の熱気が、春の半ばの寒さを和らげる。四季の感覚を忘れてしまうほど忙しい人でなければ、春にさえやってくる寒さを知らない人はいないだろう。
昼休憩とは、多くの生徒にとっては、大事な交流の場としてありがたられる。だけど僕は、食という行為を消化させるためだけのこの時間が、好きになれなかった。
もやもやと言葉にできそうでしかし、今ひとつ言葉としてまとまらない。そんな気分を抱えながらごはんを飲み下した。きみの髪が短くも隠れがちなうなじに目線をやる。
かすかにきみの肩は揺れていて、ああ、食べているんだろうなとあたりを付ける。そのときは、きみがごはん好きだったなんて知らなかった。きみがどんなものを食べているのか想像したら、少しだけお腹が空きやすくなる。
だから、僕はいつも真正面からきみを見るのは避けた。見えないからこそ、想像がはかどる。
「いちご一会ミルフィーユ」
きみが、つぶやいた。泡立つ炭酸のなかに氷を投げ込んだみたいに、意識があの放課後でしゅわっとはじける。
僕は味なんてまったく覚えていなくて、ただあの時のきみの横顔が、僕の頭にざぶざぶと沈み込んでいく。
「おいしかったね!」
「……石川さん」
僕が思わず顔を背けたあとで、きみはもう僕の目の前に立っていた。白いセーターがクリームみたいな色だと思うくらいには、僕にとって大切な思い出。その続きが、あるとは限らないけど。
「ねえ」
そよ風のように、耳へと忍びこんでいく声。
「一緒に帰らない?」
まさか、きみに誘われるとは思わなくて。どうしてなんて聞けるほど、頭は回らなくて。だけど言葉がいくつも溢れてしまいそうで。
「まだ、お昼だよ」
その一言だけを口にした。言葉より、きみを見ることに時間を割きたくて、きみの表情ひとつひとつを心に映していたくて。
「そうだった」
きみは顔をゆがめて、またねと口にする。僕は悪いことをしてしまったんだ。きみにそんな顔をさせるつもりはなかった。またね、と言葉を返せずに、言い訳ばかりが頭にならぶ。
きみから僕に話しかけてくれるなんて、ほんとうにはじめてなんだ。きみとミルフィーユを食べたことも、はじめてなんだ。きみと浴びる夕陽は、はじめてだったんだ。
僕は外へ出た。本屋を目指して。
きみの好きなものが、食べものだということはわかったが、それ以外はやはりなにも知らなかったからだ。こういうのは同性に聞けば良いのかもしれない。
僕に、そのような伝手はないのだけれど。
きみは、どんな雑誌を読むんだろう。どんな小説を読むんだろう。それとも、音楽の方が好きなんだろうか。
本屋内の空気が変わった気がする。いま流行りのK-popというのだろうか。それとも、聴きとりづらいだけで、J-popだろうか。
僕は本の匂いに耐えられなくて、すぐに本屋を出てしまった。本屋の近くにあるバス停では、誰も待っていない。遅刻しそうだ。どうしよう。
こっそり学校から抜け出したことを、今さら後悔した。
「ねえ、さぼり?」
「石川さんっ」
なぜかきみは、木の上にいた。きみが声をかけてくるまでは、そもそもバス停の近くに木があるなんて気付かなかっただろう。
僕は木登りなんて一度もしたことがない。きみは、案外活発なのか。きみはスカートではなくズボンを履いていた。高校指定の、紺のジャージだ。
「どうして、ここに」
「それは、たぶん」
きみは目をキラキラとさせながら、言う。
「おんなじ、かな」
心の内側にあるうぶ毛が、ぞわぞわと風を当てられたように感じた。きみは得意そうな顔つきで、僕の方を見つめる。
「バス、来ちゃったね」
「の、乗ろうか」
「うん」
またきみに、言葉を返せなかった。生ぬるいバスのなか、僕は二人席に。きみは一人席に座る。きみの席と僕の席はちょうど前と後ろで、僕はきみの頭のてっぺんを眺めた。
くるくると、中心へ向かっていく、亜麻色のつむじ。きみは髪を揺らし、バスの行く先を見つめているようだった。
きみは中学生のころからはやく着替えるのが得意で、トイレでこっそり着替えていることが多かった。そのトイレというのが旧校舎のトイレだったから、夏休みに入る頃にはいつも、『花子さんの正体は石川さん』なんてうわさが流れていた。
もう少し現実的なうわさなら、たとえば昔負ったひどい火傷の痕が残っているからだとか、とにかく肌を見せたくないからではないか、というもの。また旧校舎のトイレに、着替えだけでなく別の目的があるのではないかといううわさも立った。
結局うわさはうわさ。周囲は石川さんから距離を取って、石川さんも周囲から距離取っていた。
僕が石川さん……きみを好きだと思ったのは、ほんの一瞬だった。
目が合ったんだ。国語の時間、小説の美しさを説く教師から顔を背け、窓際に視線を向けたとき。ガラスに淡く映り込んだきみの瞳と、目が合ったんだ。
きみは僕の後ろの方の席で、窓に映し出された僕と、同じような顔をして窓を見つめていた。
昼休憩の時間だ。教室に入りこんだ人間の熱気が、春の半ばの寒さを和らげる。四季の感覚を忘れてしまうほど忙しい人でなければ、春にさえやってくる寒さを知らない人はいないだろう。
昼休憩とは、多くの生徒にとっては、大事な交流の場としてありがたられる。だけど僕は、食という行為を消化させるためだけのこの時間が、好きになれなかった。
もやもやと言葉にできそうでしかし、今ひとつ言葉としてまとまらない。そんな気分を抱えながらごはんを飲み下した。きみの髪が短くも隠れがちなうなじに目線をやる。
かすかにきみの肩は揺れていて、ああ、食べているんだろうなとあたりを付ける。そのときは、きみがごはん好きだったなんて知らなかった。きみがどんなものを食べているのか想像したら、少しだけお腹が空きやすくなる。
だから、僕はいつも真正面からきみを見るのは避けた。見えないからこそ、想像がはかどる。
「いちご一会ミルフィーユ」
きみが、つぶやいた。泡立つ炭酸のなかに氷を投げ込んだみたいに、意識があの放課後でしゅわっとはじける。
僕は味なんてまったく覚えていなくて、ただあの時のきみの横顔が、僕の頭にざぶざぶと沈み込んでいく。
「おいしかったね!」
「……石川さん」
僕が思わず顔を背けたあとで、きみはもう僕の目の前に立っていた。白いセーターがクリームみたいな色だと思うくらいには、僕にとって大切な思い出。その続きが、あるとは限らないけど。
「ねえ」
そよ風のように、耳へと忍びこんでいく声。
「一緒に帰らない?」
まさか、きみに誘われるとは思わなくて。どうしてなんて聞けるほど、頭は回らなくて。だけど言葉がいくつも溢れてしまいそうで。
「まだ、お昼だよ」
その一言だけを口にした。言葉より、きみを見ることに時間を割きたくて、きみの表情ひとつひとつを心に映していたくて。
「そうだった」
きみは顔をゆがめて、またねと口にする。僕は悪いことをしてしまったんだ。きみにそんな顔をさせるつもりはなかった。またね、と言葉を返せずに、言い訳ばかりが頭にならぶ。
きみから僕に話しかけてくれるなんて、ほんとうにはじめてなんだ。きみとミルフィーユを食べたことも、はじめてなんだ。きみと浴びる夕陽は、はじめてだったんだ。
僕は外へ出た。本屋を目指して。
きみの好きなものが、食べものだということはわかったが、それ以外はやはりなにも知らなかったからだ。こういうのは同性に聞けば良いのかもしれない。
僕に、そのような伝手はないのだけれど。
きみは、どんな雑誌を読むんだろう。どんな小説を読むんだろう。それとも、音楽の方が好きなんだろうか。
本屋内の空気が変わった気がする。いま流行りのK-popというのだろうか。それとも、聴きとりづらいだけで、J-popだろうか。
僕は本の匂いに耐えられなくて、すぐに本屋を出てしまった。本屋の近くにあるバス停では、誰も待っていない。遅刻しそうだ。どうしよう。
こっそり学校から抜け出したことを、今さら後悔した。
「ねえ、さぼり?」
「石川さんっ」
なぜかきみは、木の上にいた。きみが声をかけてくるまでは、そもそもバス停の近くに木があるなんて気付かなかっただろう。
僕は木登りなんて一度もしたことがない。きみは、案外活発なのか。きみはスカートではなくズボンを履いていた。高校指定の、紺のジャージだ。
「どうして、ここに」
「それは、たぶん」
きみは目をキラキラとさせながら、言う。
「おんなじ、かな」
心の内側にあるうぶ毛が、ぞわぞわと風を当てられたように感じた。きみは得意そうな顔つきで、僕の方を見つめる。
「バス、来ちゃったね」
「の、乗ろうか」
「うん」
またきみに、言葉を返せなかった。生ぬるいバスのなか、僕は二人席に。きみは一人席に座る。きみの席と僕の席はちょうど前と後ろで、僕はきみの頭のてっぺんを眺めた。
くるくると、中心へ向かっていく、亜麻色のつむじ。きみは髪を揺らし、バスの行く先を見つめているようだった。
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