魂の行く末

岩久 津樹

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魂の行く末

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【プロローグ】
「ちょっとスピード出し過ぎじゃない?」
 助手席に座る妻の早苗は、ハンドバッグを抱き抱えながら怯えた表情で私を見た。
「高速道路なんだから普通だよ早苗さん。ほら、隣の車の方が速いだろ?」
 追越車線を颯爽と走るスポーツカーを指差すと、後部座席に座る長男の雄介が身を乗り出してきた。
「すげえ! フェラーリじゃん!」
「こら雄介! 危ないからちゃんと座っていなさい!」
 妻の注意を聞かずに雄介は前を行くフェラーリを眺め続けた。やがてフェラーリが視界から消えると、雄介はつまらなそうにまた席に戻った。
「ねえ、お腹空いた」
 今度はついさっきまで寝ていた長女の遥が、眠たそうな目を擦りながら身を乗り出してきた。
「さっきサービスエリアで食べてきちゃったから何もないよ」
「えー、私行ってないんだけど?」
「寝てたからでしょ」
「起こしてよ!」
「起こしたわよ!」
 妻と娘の口論を聞くと、私はつい笑みを漏らしてしまった。
「ちょっとお父さん? なんで笑ってるの?」
「悪い悪い……もういいだろ早苗」
 私の言葉で早苗も笑った。
「ふふ、ごめんね遥。ちょっと揶揄っただけよ」
 早苗はそう言って足元のビニール袋の中からメロンパンを取り出した。メロンパンは遥の大好物なのだ。
「なんだあるじゃん! サンキューお母さん!」
「お金払ったのはお父さんよ」
「サンキューお父さん!」
「おい馬鹿、運転してるんだから危ないだろ?」
 お礼を言いながら私の肩を叩く遥に軽く注意をすると、遥は軽い返事をして早速メロンパンに齧り付いた。
「遥、一口くれよ」
「やだよ」
「ケチ!」
「うっさいハゲ!」
 今度は兄妹喧嘩が始まった。
 今年の春から高校生となった雄介は野球部員のため坊主頭なのだが、遥は雄介に文句があるときは必ず「ハゲ」と悪口を言う。
 一方遥は今年で中学二年生になった。幸い反抗期らしい態度は少なく、どちらかというと男勝りなサバサバとした性格だ。きっと妻に似たのだろう。
 妻の早苗は私の三つ下の四十五歳で、現在は専業主婦として家庭を支えてくれる。出会いは私が二十九歳、早苗が二十六歳の時で、当時私が勤めていた会社の喫煙室で会話を交わしたことが出会いのきっかけだった。早苗は同じビルの別会社に勤めていたが、喫煙室は共同だったため会話の機会も多かった。些細な会話だったがなんとなくフィーリングが合い、その後一年間の交際を経て結婚に至った。その翌年には長男の雄介も誕生し、さらにその二年後には遥が誕生した。それからは不器用ながら幸せな家庭を築いてきたつもりだ。
「ちょっと、隣のトラック怖くない?」
 早苗を声で我に返り、助手席に顔を向けた。するとそこにはふらつきながら走行しているトラックがいた。確かに今にも大きく車線をはみ出してきそうだ。私はこれ以上並走しているのは危険だと判断し、アクセルを強く踏んだ。
「あっ!」
 しかし遅かった。トラックが私の家族を乗せた車の左側面にぶつかってきたのだ。激しい揺れを感じ、車窓に頭を打ち付けたところで私の意識は暗黒へと沈んでいった。
 
 【須藤泰久】
 目が覚めると、一番に視界に入ってきたのは真っ白な天井だった。体を起こそうと腕と腹筋に力を入れると、両腕と頭に激しい痛みが走った。見ると私の両腕には太い包帯が巻かれており、その下にはギブスと思わしき固い感触もあった。
 私は誰だろうか。
 考えようとすると激しい頭痛が襲った。ゆっくりと頭だけを上げて、自身の上半身を観察する。まず間違いなく性別は男だろう。白い病院着の上からは少しお腹が膨れていた。四十代くらいの体に見える。 
 次に頭を横に向けた。白いカーテンに覆われた部屋で、ベッドの横には点滴と緑色のパイプ椅子が置いてある。さらに頭を上げると茶色い床頭台が確認できた。床頭台の上には黒いウエストポーチが置いてある。私は痛む右腕を懸命に伸ばしてウエストポーチを手に取って、中身を物色し始めた。
「須藤……泰久……」
 財布の中に入っていた運転免許証でなんとかこの肉体の主の名前だけは分かった。年齢は予想通り四十八歳。住まいは千葉県市内のようだ。
 他に何かないかポーチの中身を物色すると、スマートフォンを見つけることができた。幸い指紋認証で開くタイプの端末だったため、難なくスマートフォンの中身を確認することができた。電話帳には「須藤早苗」「須藤雄介」「須藤遥」と、同じ苗字の人物が三人見つかった。今度はメールフォルダを開くと、会話の内容から早苗が妻で、雄介と遥が長男長女のようだ。
「痛たた」
 脳を使うと激しい頭痛に襲われた。そうだ思い出した、私は車とぶつかってしまったのだ。
「そうだ!」
 早苗さんや二人の子供は無事だろうか。私は急いで立ちあがろうとすると、点滴が外れけたたましい機会音が病室に響き渡った。どうしてよいか分からずに呆然としていると、突然カーテンが開いて白衣を着た初老の男性と、ナース服を着た若い女性が慌てた様子でやって来た。
「須藤さん、目が覚めましたか」
 初老の男性はパイプ椅子に腰掛けると、優しい口調で話しかけてきた。どうやらこの男性は医者のようだ。
「は、はい」
 歯切れの悪い返事に医者は訝しげな表情を浮かべた。
「須藤さん、あなたは一週間も眠っていたのですよ。ご自身のことは覚えていますか?」
「えっと、須藤泰久。四十八歳。妻は早苗で、雄介と遥の二人の子供がいます」
 私は先ほど目にした情報をそのまま口にした。そうだ、須藤家は事故に巻き込まれてしまったのだ。そこまでは分かるのだが、それ以上のことが分からない。考えようと脳を動かすと激しい頭痛に苛まれる。
「よかった、記憶障害はなさそうですね」
 医者の言葉に思わず首を縦に振ってしまった。
「それより他の家族は無事なんですか?」
 私の言葉に医者もナースも口を噤んでしまった。暫くの沈黙の後、漸く医者は口を開いた。
「他のご家族は……生きてはいます」
「よかった。今はどこにいるんですか?」
 私の問いに医者はまた口を噤んだ。
「生きてはいます。正確には生命維持はしています。ただ、大脳が機能していない状態です」
「大脳が機能していない?」
「つまり植物人間ということです」
「植物人間……三人ともですか?」
「はい」
 医者は沈痛な面持ちで私を見た。ナースも気の毒そうな表情を浮かべては、私と目を合わさないように手に持ったファイルに視線を落としている。
「ただ希望は捨てないでください。実は須藤さん、あなたも大脳が機能していない状態だったのです。それが今、こうして目覚めているのですから、他の三人も目覚める可能性は十分にあります」
 植物状態から目を覚ます確率は一体どのくらいなのだろうか。私は恐怖で医者に質問することはできなかった。もし絶望的な確率だった場合、私は正常な精神ではいられなくなる気がしたのである。
「とにかく今は体を休めてください。すぐに診察の準備をするので少々お待ちくださいね」
 そう言って医者とナースは病室を出て行った。カーテンの隙間から見えた情報から、ここが四人部屋であることが判明した。恐らく須藤家は皆、この病室で寝ているのだろう。
「うぐっ」
 突然、激しい頭痛が襲い目を開けていられなくなった。そのまま意識は遠くへと飛んでいき、魂だけが体から抜けていく感覚に陥った。完全に意識がなくなる寸前、私は強く願い事をした。
 どうかこの家族が救われますように。

 【須藤早苗】
「……のようですね」
 誰かの声が聞こえる。
「うむ、また大脳の機能が止まっているようだ」
 今度ははっきりと聞こえた。私は目を開けて、声のする方に首を曲げようとした。しかし、首を動かすことは叶わなかった。右手を首元に移動させると、そこには固い感触があった。どうやらネックカラーを着けられているようだ。
 私は誰だろうか。考えると激しい頭痛が襲ってきた。
「あ、あ、あ」
 声を出してみる。どうやら私は女性のようだ。
 私の発声に先ほどの声の主が気付いたようだ。慌ただしくカーテンが開くと、そこには医者とナースが驚いた表情で私を見た。
「目が覚めたのですね須藤早苗さん」
 須藤早苗。そう、須藤早苗だ。この肉体の主の名前は須藤早苗。年齢は四十五歳で須藤泰久の妻。
「……あ、あの……」
 言葉を発しようとすると、激しい頭痛が襲った。耐えきれず頭を押さえ込んでしまう私に医者は心配そうな表情で言った。
「今は無理に話そうとしなくて大丈夫ですよ。安静にしてください」
「ありがとうございます。あの、子供……私の子供たちは無事ですか?

 医者は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐにまた柔和な表情に変えてカーテンを開けた。
「お子さんは二人とも生きていますよ。向かいのベッドで今は眠っています」
 ナースと目が合った。彼女は少し困ったように愛想笑いを浮かべている。
「どうして……あ、いや、なんでもありません。とにかく安静にしてください」
 医者は何かを言おうとしていた。「どうして」の後に続く言葉は何だったのだろうか。考えようとするとまた激しい頭痛が襲って来た。
「うがっ」
 頭が割れる。本気でそう思った。
 私は頭を押さえて唸り声を上げる。医者やナースが私を心配する言葉を口にしているが、うまく聞き取れなかった。
 次第に薄れゆく意識の中で、魂が肉体から離れていくような感覚がした。
 
 【須藤雄介】
 海の中にいる感覚だった。呼吸ができずに深い海底へと沈んでいっているような感覚。私は踠こうともせずにただ沈んでいる。が、次第に苦しくなって息を吐いて水面へと這い上がろうと踠いた。踠いて踠いて、とにかく水から顔を出そうと両腕両足をバタつかせる。ようやく水面から顔を出したかと思うと、突然二人の顔が眼前に現れた。
「おはよう須藤雄介君」
 医者だ。白衣を着た医者がこちらに話しかけている。
「ここは……」
 上体を起こそうと腕をベッドに押し当てようとするも、一向に私の掌はベッドに辿り着かない。不思議に思い腕を見ると、そこにはあるはずの腕が両腕とも無くなっていた。
「うわあ!」
 思わず叫んだ。確かに腕がある感覚はあるのに、そこには腕が無いのだ。この矛盾を孕んだ感覚が気持ち悪かった。
「落ち着いて……と言っても最初は難しかろう。君は事故に遭ったんだよ」
 諭すように説明を始める医者の声は私には届いていなかった。
 ただゆっくりと、本当にゆっくりと今の状況を自分なりに整理をした。そして一つの答えが出た。
「ところでご両親の仲は良かったのかい?」
 医師の急に変わった話題で思考が止まった。
「え、仲?」
「いや、いきなりの質問で悪かったね。軽い雑談と思ってくれたまえ」
「仲は良かったですよ」
「そうか、うむ、そうか」
 医者は顎に蓄えた髭を触りながら何かを考えている。
「君から私に聞きたいことはないかね?」
「え、それじゃあ……」
 何を質問しようか。考えると激しい頭痛が襲った。だめだ、もっとゆっくり考えなければ。
「うぐっ」
 耐えきれないほどの頭痛が襲うと、意識が一気に遠のく。完全に意識が途切れる前に、私は一つだけ質問をした。
「遥は無事ですか?」
 
 【須藤遥】
「順番だと次は彼女か」
「先生、どうして目覚めてすぐの雄介君に両親の仲なんて聞いたんですか?」
「ああ、あくまで仮説なのだが……おっと、どうやら本人に真偽を確認した方がよさそうだ。おはよう須藤遥さん」
 目の開いた私に気付いた医者は、優しく微笑みかけている。
「須藤遥さん。君は自分のことを覚えているかね?」
「えっと、私は須藤遥。十四歳で誕生日は七月八日です」
「うむ、それじゃあ君のスマートフォンを開いてくれないか?」
 医者はプリクラの貼ったケースに入ったスマートフォンを渡してきた。
「えっと……」
 困った。パスワードが分からない。試しに誕生日を入れてみるが開かなかった。
「すみません、忘れてしまいました」
「そうか」
 医者は暫くの沈黙の後、決心した表情に変わった。
「目覚めてすぐに変なことを聞くが許してくれ。君は本当に須藤遥かね?」
 医者の言葉に一番驚いていたのはナースだった。すぐに医者の肩を揺さぶってた。
「ちょっと先生? 突然何を言い出すんですか?」
「君は少し黙っていてくれ。これから私の仮説を話すが、もし間違いなら心から謝罪する。いいかね?」
 医者の問いかけに私は首を縦に振った。果たして医者はどのような仮説を立てたのだろうか。
「結論から言おう。私は君が須藤泰久さんではないかと疑っている」
「そんな、違います」
 私は首を横に振った。
「まあ待ちたまえ。なぜこの仮説に思い至ったのかを説明しよう。
 事故に遭った須藤家で一番最初に目覚めたのは泰久さんだった。そして泰久さんは私たちが診察道具を取りに戻ると、また意識を失っていた。そしてその後すぐに早苗さんが目覚めたのだ。
 このあまりに偶然すぎる出来事が私に少しの違和感を残した。もちろん奇跡的にこのようなタイミングになった可能性はある。
 だが、その後の早苗さんの一言で私の疑念は膨らんだのだよ」
「疑念?」
「『私の子供たちは無事ですか?』と言ったことだよ。無事を確認したということは、自身が事故に遭ったことは覚えているはずだ。もちろん家族で車に乗っていたことも」
「あ、旦那さんを心配していなかった!」
 ナースは得意げに言った。
「そうだよ、だけどそれだけでは単に夫婦の仲が冷めきっていただけの可能性もある」
「だから雄介君に夫婦仲を聞いたんですね!」
「その通り。そして雄介君は仲は良かったと答えた。その雄介君も目覚めたタイミングが早苗さんの意識が無くなってすぐのことだ。そこで私は思った。もしかしたら泰久、早苗、雄介の肉体には全て同じ魂が入っているのではないだろうかと。そして早苗さんが泰久さんの安否を心配しなかった点から、泰久さんが無事であることを知っている泰久さん自身こそが、魂の正体であると」
「魂って、そんなものあると思っているんですか?」
「私はあると考えているよ。一九〇七年にはマクドゥーガル博士が死後に人間の体重が二十一グラム失われるとの学術書も発表している。この失われた二十一グラムこそが魂の重さなのだよ」
 私はひたすら沈黙を貫いたまま医者の話をして聞いていた。
「さて続けるが、雄介君が意識を失う寸前に発した言葉で私の仮説はほぼ正しいと確認したよ。『遥は無事ですか?』なんて質問は、両親が無事であることを確信していないと出てこない質問だからね。
 さて遥さん、もし間違いだったらもう一度違うと言ってくれ」
 医者は私を凝視した。「違う」と口が開きそうになったが、私はとある決断を胸に抱き言葉を発した。
「仰る通り私は須藤泰久です。なぜか分かりませんが、空っぽになった家族の肉体の中に私の魂が入ることができたのです」
「どうしてそれを隠して肉体の主のふりをしたのですか?」
「一つは信じてもらえないだろうと思ったからです。そしてもう一つが、家族を死なせたくなかったからです。魂はすでにここに無いと分かりましたが、私の魂を各肉体に定期的に入れれば、少なくとも戸籍上は死亡したことにはならないと思ったのです」
「しかしそれでは家族も浮かばれない。家族の肉体で人形遊びをしているようなものですぞ」
「分かっています。だから、私の魂は須藤泰久の肉体へ戻ります」
「辛いでしょうがそれがいい」
 溢れ出る涙が止められなかった。結局私は家族を救うことができず、一人生き残ってしまったのだ。
 何が正解なのだか分からない。本当に私は泰久の肉体に戻って良いのか。いっそこのまま私の魂もこの世界から消えた方が良いのではないか。いや、それではただ逃げ出すだけだ。私はこの家族のためにも生きなければならない。
 私はゆっくりと目を閉じた。すると、また激しい頭痛が襲い魂が抜ける感覚に陥る。次に目を覚ます時には須藤泰久の肉体として目覚めるだろう。

【エピローグ】
「おはようございます泰久さん」
 目を覚ますとそこには医者がいた。「おはようございます先生」
 私は悲しげな表情で挨拶を返した。すると、同時に病室内に「ピー」と機械音が響き渡った。
「先生、早苗さんと雄介君、遥ちゃんが……」
 ナースはそれ以上続けなかった。医者は小さく首を縦に振って、また私に話しかけた。
「泰久さん、残念ですが……」
「ええ、分かっています。もう決心しましたから。私は泰久として生き続け、須藤家はいかに素晴らしい家族であるかを伝えようと思います」
「素晴らしいお方だ。きっとご家族も泰久さんのような父を持って幸せだったでしょう」
 そうだ、きっと須藤家は幸せな家庭だったに違いない。そんな家族を私が……。
「先生! さ、佐竹さんが! 佐竹伸治さんが亡くなりました!」
 血相を変えて病室に駆け込んできたナースの放った一言に医者は驚愕の表情を浮かべた。
 佐竹伸治。トラックの運転手をしていた、事故を起こした張本人だ。「そんな、彼は五日前に意識を取り戻してから容態は安定していたはずだ!」
 そこで医者は全てを悟ったようだ。恐る恐る私の方を振り返り、震えた声で言った。
「ま、まさか君は……君の魂の名前は……そんな馬鹿な……」
 狼狽する医者に微笑みかけながら、私は心の中で何度も繰り返した。
 私は須藤泰久。須藤家がいかに素晴らしい家族であったかを証明するために、そして佐竹伸治がいかに酷い人間であるかを証明するために生き続けるのだ。それが私の贖罪なのだ。
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