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火種
12. 敵地
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偵察とは一般に、敵地に対して行われる隠密行動である。
かつて当たり前のように生活を謳歌していたエンフェルト領で私は初めて司祭のローブを羽織り、紺色のローブで頭部を覆った修道女のフリをしていた。そうでなければ都市部を歩くことなどできない。
エンフェルト領にいる間、私は巡礼の修道女で、エレミアスはその警護をする衛兵である。帝国内ではスレイ教団の活動が領主の統治とは切り離されており、それはエンフェルト領を飲み込んだ皇家であっても例外ではない。私が神聖な行いをしている、もしくはそう見えている限り、皇帝でさえ私を拘束できないという算段だ。
聖遺物のレプリカを見せると、門の守衛は簡単に道を開いた。
「こっち」
小さい頃に駆け回った記憶を頼りに、領都ガウンデンを案内する。その頃とは違い、顔を隠してコソコソと歩いた。私は町人らのことを知らないが、彼らは私を知っている。この修道女の正体が私であることが知れれば、彼らの多くはギネヴィア・フォン・エンフェルトを笑顔の輪に迎え入れ、その事はすぐに皇帝軍か皇家の息がかかった憲兵に知られてしまうだろう。
「あ、こら!」
「えっ、きゃ!」
エレミアスが私の腕を引き、体を抱き寄せた。私のいた場所を、追いかけっこをする男の子たちが通り過ぎた。
「息子たちがごめんなさい! 怪我はございませんか?」
女性が私に謝る。頭を下ろした女性に顔を見られないために、私はフードを目深に引き下げた。その対応は女性を不安にさせたようで表情が暗くなる。母親の元に戻ってきた男の子たちも、それと同じ顔をした。
正面からなら口元まで隠すことのできたフードは、下からの視線には無防備だった。母親と手をつないだ男の子が私の顔を斜め下からのぞき込んでいたのだ。
呼吸が止まるような思いがした。私はこの地を訪れたことを後悔した。愛すべき幼児の丸い目でさえ恐怖の対象にせねばならず、もはや敵兵に扮して敵陣のど真ん中を歩いているような気分だった。
「大丈夫ですよ。どうぞお引き取りください。彼女は恥ずかしがり屋な性分でして」
「申し訳ありませんでした……!」
エレミアスが助け舟を出した。私は声を出すこともできなかった。
立ち去る女性と子供たちの背中を眺めながら、私はエレミアスの体にもたれかかった。
「どうしたんだ、疲れが抜けてないのか?」
「いや、違う……ごめん」
続いてこんな言葉が私の口をついて出た。
「エレミアス、偵察はあとどのくらいかかるの? もう、あんまりここにいたくない……」
大好きだった市民はみんな、敵になった。彼ら自身にその自覚はないだろうが、私を相手取る場合に限って彼らは皇帝の尖兵になりかわった。エンフェルトは私のいるべき場所ではなくなってしまった、そう思い至った瞬間私の視界は揺らぎ、いくらか経って戻った視界に写っていたのは敵国だった。
「最低でも川沿いにあるという要塞は見ておきたい。あれがこの街の最重要地点だろうから」
「……そうだね。もしあれの防衛を他の家に任せているようなら、この街は──」
そこから先は言い淀んだ。要塞に兵を送り込み、その機能を収奪したのなら、それはどのような形であれ陥落と同義であり、つまりこの街は皇帝軍の手に落ちたということである。
ガウンデンの大通りには、赤き双頭の鷲が描かれた旗がひらめいていた。
「シアハウゼンの旗幟がもう立ち始めてるな。市民に不満はないのか?」
「もともとヨハンが私と結婚してこの領地を治める予定だった。そのためにエンフェルトの市民の前に姿を現すこともあったから、多分、不満は少ないと思う」
「少ないってのは?」
「あるってこと。統治を他の家の者にさせるわけにはいかないって言う保守派の人たちはいたよ」
「その保守派ってのは…………」
エレミアスはエンフェルト家の家臣や伯爵領内の諸侯らの名前を挙げた。それらは全て、私の婚姻や皇家の統治に断固として反対していた者たちだった。
「信じらんない……」
「悪いな。だが、こっちとしてもタダで奴らにエンフェルト領を支配させられないんだ」
立場を悪くしながらも皇家と密接に繋がる婚姻に反対していた彼ら保守派の後ろ盾は、グラウスタイン伯だったということだ。人は普段自分を支える勢力について意に介すことはないが、奴らのように後ろ盾を認識した途端、自らの力が増幅したと錯覚する。増長した保守派は面倒極まりなかったものだ。
「今となってはありがたい話だろ?」
「……それはエレミアスが言うことじゃない」
こうは言ったが、エレミアスの言うことには全く同意する。エンフェルト伯爵がヨハンに与えられるのは時間の問題だろう。それまでエンフェルト領と私の父であった人とを繋ぎ止めているのは彼ら保守派勢力である。
「否定はしないか。君が優秀な思考力を有していて助かるよ」
「ありがとね」
お褒めの言葉を突っぱねるように言った。
「強情だな。賞賛は素直に受け取るといい。俺の代のうちにはここはグラウスタインが治めることになるんだから、自分がいかに有能であるか、むしろ君が俺に見せつけるべきだ」
「え?」
「わからないか? つまり────」
エレミアスが言い切る前に、男がエレミアスとぶつかった。かなり大きい音が鳴り、周囲からの注目を集めたが、男が「おっと、すまんね」と立ち去ると、皆の興味は離れていった。
「大丈夫? …………エレミアス?」
「ギネヴィア、予定が変わった」
エレミアスはいつから持っていたのか紙を懐に忍ばせ、私に笑いかけた。
「重要人物の救出だ」
かつて当たり前のように生活を謳歌していたエンフェルト領で私は初めて司祭のローブを羽織り、紺色のローブで頭部を覆った修道女のフリをしていた。そうでなければ都市部を歩くことなどできない。
エンフェルト領にいる間、私は巡礼の修道女で、エレミアスはその警護をする衛兵である。帝国内ではスレイ教団の活動が領主の統治とは切り離されており、それはエンフェルト領を飲み込んだ皇家であっても例外ではない。私が神聖な行いをしている、もしくはそう見えている限り、皇帝でさえ私を拘束できないという算段だ。
聖遺物のレプリカを見せると、門の守衛は簡単に道を開いた。
「こっち」
小さい頃に駆け回った記憶を頼りに、領都ガウンデンを案内する。その頃とは違い、顔を隠してコソコソと歩いた。私は町人らのことを知らないが、彼らは私を知っている。この修道女の正体が私であることが知れれば、彼らの多くはギネヴィア・フォン・エンフェルトを笑顔の輪に迎え入れ、その事はすぐに皇帝軍か皇家の息がかかった憲兵に知られてしまうだろう。
「あ、こら!」
「えっ、きゃ!」
エレミアスが私の腕を引き、体を抱き寄せた。私のいた場所を、追いかけっこをする男の子たちが通り過ぎた。
「息子たちがごめんなさい! 怪我はございませんか?」
女性が私に謝る。頭を下ろした女性に顔を見られないために、私はフードを目深に引き下げた。その対応は女性を不安にさせたようで表情が暗くなる。母親の元に戻ってきた男の子たちも、それと同じ顔をした。
正面からなら口元まで隠すことのできたフードは、下からの視線には無防備だった。母親と手をつないだ男の子が私の顔を斜め下からのぞき込んでいたのだ。
呼吸が止まるような思いがした。私はこの地を訪れたことを後悔した。愛すべき幼児の丸い目でさえ恐怖の対象にせねばならず、もはや敵兵に扮して敵陣のど真ん中を歩いているような気分だった。
「大丈夫ですよ。どうぞお引き取りください。彼女は恥ずかしがり屋な性分でして」
「申し訳ありませんでした……!」
エレミアスが助け舟を出した。私は声を出すこともできなかった。
立ち去る女性と子供たちの背中を眺めながら、私はエレミアスの体にもたれかかった。
「どうしたんだ、疲れが抜けてないのか?」
「いや、違う……ごめん」
続いてこんな言葉が私の口をついて出た。
「エレミアス、偵察はあとどのくらいかかるの? もう、あんまりここにいたくない……」
大好きだった市民はみんな、敵になった。彼ら自身にその自覚はないだろうが、私を相手取る場合に限って彼らは皇帝の尖兵になりかわった。エンフェルトは私のいるべき場所ではなくなってしまった、そう思い至った瞬間私の視界は揺らぎ、いくらか経って戻った視界に写っていたのは敵国だった。
「最低でも川沿いにあるという要塞は見ておきたい。あれがこの街の最重要地点だろうから」
「……そうだね。もしあれの防衛を他の家に任せているようなら、この街は──」
そこから先は言い淀んだ。要塞に兵を送り込み、その機能を収奪したのなら、それはどのような形であれ陥落と同義であり、つまりこの街は皇帝軍の手に落ちたということである。
ガウンデンの大通りには、赤き双頭の鷲が描かれた旗がひらめいていた。
「シアハウゼンの旗幟がもう立ち始めてるな。市民に不満はないのか?」
「もともとヨハンが私と結婚してこの領地を治める予定だった。そのためにエンフェルトの市民の前に姿を現すこともあったから、多分、不満は少ないと思う」
「少ないってのは?」
「あるってこと。統治を他の家の者にさせるわけにはいかないって言う保守派の人たちはいたよ」
「その保守派ってのは…………」
エレミアスはエンフェルト家の家臣や伯爵領内の諸侯らの名前を挙げた。それらは全て、私の婚姻や皇家の統治に断固として反対していた者たちだった。
「信じらんない……」
「悪いな。だが、こっちとしてもタダで奴らにエンフェルト領を支配させられないんだ」
立場を悪くしながらも皇家と密接に繋がる婚姻に反対していた彼ら保守派の後ろ盾は、グラウスタイン伯だったということだ。人は普段自分を支える勢力について意に介すことはないが、奴らのように後ろ盾を認識した途端、自らの力が増幅したと錯覚する。増長した保守派は面倒極まりなかったものだ。
「今となってはありがたい話だろ?」
「……それはエレミアスが言うことじゃない」
こうは言ったが、エレミアスの言うことには全く同意する。エンフェルト伯爵がヨハンに与えられるのは時間の問題だろう。それまでエンフェルト領と私の父であった人とを繋ぎ止めているのは彼ら保守派勢力である。
「否定はしないか。君が優秀な思考力を有していて助かるよ」
「ありがとね」
お褒めの言葉を突っぱねるように言った。
「強情だな。賞賛は素直に受け取るといい。俺の代のうちにはここはグラウスタインが治めることになるんだから、自分がいかに有能であるか、むしろ君が俺に見せつけるべきだ」
「え?」
「わからないか? つまり────」
エレミアスが言い切る前に、男がエレミアスとぶつかった。かなり大きい音が鳴り、周囲からの注目を集めたが、男が「おっと、すまんね」と立ち去ると、皆の興味は離れていった。
「大丈夫? …………エレミアス?」
「ギネヴィア、予定が変わった」
エレミアスはいつから持っていたのか紙を懐に忍ばせ、私に笑いかけた。
「重要人物の救出だ」
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