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始まる私たち
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いつかの私
寝っ転がって空をボーっと見ている。
少しだけ視線を下に向ければ子どもたちが草原を駆け回っている。
私のすぐ目の前でも子どもが数人走り回っている。
目を閉じた瞬間、私は想像の中で走っていた。
そして目を開けた私の視界には褐色の液体に沈んだ世界が広がっていた。子どもたちは相も変わらず遊び回っている。
寝っ転がった私の側にあった扇子を広げて、パン、と勢いよく閉じると目の前には81マスの戦場と、その戦場を挟んだ向かい側に学生服の少年が現れた。
挑決リーグの私
――目の前にどこまでも伸びた道がある。
人によってその道は呆れるほどに真っすぐだったり、気が遠くなるほどに曲がりくねっていたりする。
暗転、道が消えて視界は暗闇に閉ざされる。
目を開ける。床は畳、周りには座布団の上で正座だったり胡坐をかいたりして盤面を睨みつける人々がいた。
パチッ。パチッ。……私も、そんな人々の一員だ。駒を三本指で掴んで二本指で指す。パチンッ。場合によってはただスライドさせるだけだ。
傍らに準備した六〇〇ミリリットルのペットボトルのお茶をグラスに注ぎながら、さり気なく対局相手の様子、そして隣の対局の進行を眺める。
――私たちがプロになった時、威圧感を感じる程にカメラやマイク、視線が向けられた。
「…………」
スッ。今日の対局相手、高遠七段が金を右へ寄った。
その指し手を見て私は陸上のクラウチングスタートを模したように前傾姿勢になり盤面を睨みつける。
外では大雨が降っているようで、対局室の窓を叩く音が静かな室内によく響く。雨のせいなのか少し肌寒いような気がした。
パシャッ。雨水が敷かれた道を歩くときの足音、私が持ち駒の桂馬を打ったときに頭の中でそんな音が聞こえた。
稲光を横目で確認し、高遠七段も同じく持ち駒の桂馬を打ち、対応する。
パンッ! 駒音ではない。これは私の扇子が勢いよく閉じられた音だ。
私の両目は盤面に、勝利へと近づいていく筋を見つけていた。自玉に危険は迫っていない、あとは相手玉を着実に追い詰めていけばいい。
私は三本指で持ち駒の角を持った。
パシャン! と確かな大音を立てて雷がどこかへ落ちた。
新四段の私と彼
テレビの記者会見などでも見かけるパネルの前に立って私たちはフラッシュを浴びていた。
しかし、本当にカメラのレンズが捉えようとしているのは私ではない。私の隣にいる人物なのだろう。
「なんか、恥ずかしいですね」
シャッター音に溶け込むようにして隣から届いてきた小声は私と同じ新四段、川瀬甚吾のものだった。
「寺内さんは堂々としてますね」
露骨に顔を川瀬の方へ向けることはせずに視線だけをそちらにやった。
「固いぞぉ新四段!」
私の左肩、そして川瀬の右肩にポン、と誰かの手が置かれた。
私たちはビクリとしてその人物を振り返る。そこには桑澤九段がニッコリと笑顔を浮かべて立っていた。
「ほら、笑顔笑顔。ニコ~ってね」
もう還暦を目の前にしているというのに、まるで桑澤九段の方が新四段のような活気がある。
「せっかく写真、撮ってもらうなら笑顔がいいって。ほら前、向いて御両人!」
私と川瀬はロボのように首を回して数瞬だけ見つめ合うと、先ほどよりは朗らかな笑みを浮かべてカメラ群に臨んだ。
感じの悪い先輩との遭遇
「……ちっ」
ギリギリでエレベーターに乗り込んできた目つきの鋭い男は、コントロールパネルの前に立っていた私ちらりと見た後、その反対側に立っていた川瀬を見るとわざとらしく舌打ちをして、エレベーターの奥で壁に寄り掛かった。
エレベーター内には私を含めて四人いた。
私、寺内カホリ新四段と川瀬甚吾新四段。そして、エレベーターにギリギリ乗り込んできた男、小島章五段。あと一人は将棋雑誌の女性記者の方が一人。これから私と川瀬は新四段として色々インタビューを受けるのだ。
空気が何故だか張りつめている。……どう考えても小島五段のせいだろうが。
私はエレベーター内にいる三人の様子を窺う。
川瀬は明らかに小島五段の様子を気にしているようで、チラチラと後ろを振り向いている。
記者の方は肩身狭そうにしてメモ帳に何かを書き込んでいる。
空気を悪くした小島五段本人は床を見つめたまま動かない。
(感じの悪い先輩だ)
そう思わざるを得なかった。
エレベーターが目的階に到着するまで私は小島五段のことを見つめていたが、彼は一度も顔を上げなかった。
チン、と音がしてエレベーターの動きが止まった。
重々しいドアが開いていき外の世界と繋がるが空気の悪さは改善されなかった。
ピシャン! と強い落雷音が会館の外から聞こえてようやく私たちは動き出した。
まるで電気が駆動燃料であるロボットのように無駄のない歩行でエレベーターから四人は出ていく。
寝っ転がって空をボーっと見ている。
少しだけ視線を下に向ければ子どもたちが草原を駆け回っている。
私のすぐ目の前でも子どもが数人走り回っている。
目を閉じた瞬間、私は想像の中で走っていた。
そして目を開けた私の視界には褐色の液体に沈んだ世界が広がっていた。子どもたちは相も変わらず遊び回っている。
寝っ転がった私の側にあった扇子を広げて、パン、と勢いよく閉じると目の前には81マスの戦場と、その戦場を挟んだ向かい側に学生服の少年が現れた。
挑決リーグの私
――目の前にどこまでも伸びた道がある。
人によってその道は呆れるほどに真っすぐだったり、気が遠くなるほどに曲がりくねっていたりする。
暗転、道が消えて視界は暗闇に閉ざされる。
目を開ける。床は畳、周りには座布団の上で正座だったり胡坐をかいたりして盤面を睨みつける人々がいた。
パチッ。パチッ。……私も、そんな人々の一員だ。駒を三本指で掴んで二本指で指す。パチンッ。場合によってはただスライドさせるだけだ。
傍らに準備した六〇〇ミリリットルのペットボトルのお茶をグラスに注ぎながら、さり気なく対局相手の様子、そして隣の対局の進行を眺める。
――私たちがプロになった時、威圧感を感じる程にカメラやマイク、視線が向けられた。
「…………」
スッ。今日の対局相手、高遠七段が金を右へ寄った。
その指し手を見て私は陸上のクラウチングスタートを模したように前傾姿勢になり盤面を睨みつける。
外では大雨が降っているようで、対局室の窓を叩く音が静かな室内によく響く。雨のせいなのか少し肌寒いような気がした。
パシャッ。雨水が敷かれた道を歩くときの足音、私が持ち駒の桂馬を打ったときに頭の中でそんな音が聞こえた。
稲光を横目で確認し、高遠七段も同じく持ち駒の桂馬を打ち、対応する。
パンッ! 駒音ではない。これは私の扇子が勢いよく閉じられた音だ。
私の両目は盤面に、勝利へと近づいていく筋を見つけていた。自玉に危険は迫っていない、あとは相手玉を着実に追い詰めていけばいい。
私は三本指で持ち駒の角を持った。
パシャン! と確かな大音を立てて雷がどこかへ落ちた。
新四段の私と彼
テレビの記者会見などでも見かけるパネルの前に立って私たちはフラッシュを浴びていた。
しかし、本当にカメラのレンズが捉えようとしているのは私ではない。私の隣にいる人物なのだろう。
「なんか、恥ずかしいですね」
シャッター音に溶け込むようにして隣から届いてきた小声は私と同じ新四段、川瀬甚吾のものだった。
「寺内さんは堂々としてますね」
露骨に顔を川瀬の方へ向けることはせずに視線だけをそちらにやった。
「固いぞぉ新四段!」
私の左肩、そして川瀬の右肩にポン、と誰かの手が置かれた。
私たちはビクリとしてその人物を振り返る。そこには桑澤九段がニッコリと笑顔を浮かべて立っていた。
「ほら、笑顔笑顔。ニコ~ってね」
もう還暦を目の前にしているというのに、まるで桑澤九段の方が新四段のような活気がある。
「せっかく写真、撮ってもらうなら笑顔がいいって。ほら前、向いて御両人!」
私と川瀬はロボのように首を回して数瞬だけ見つめ合うと、先ほどよりは朗らかな笑みを浮かべてカメラ群に臨んだ。
感じの悪い先輩との遭遇
「……ちっ」
ギリギリでエレベーターに乗り込んできた目つきの鋭い男は、コントロールパネルの前に立っていた私ちらりと見た後、その反対側に立っていた川瀬を見るとわざとらしく舌打ちをして、エレベーターの奥で壁に寄り掛かった。
エレベーター内には私を含めて四人いた。
私、寺内カホリ新四段と川瀬甚吾新四段。そして、エレベーターにギリギリ乗り込んできた男、小島章五段。あと一人は将棋雑誌の女性記者の方が一人。これから私と川瀬は新四段として色々インタビューを受けるのだ。
空気が何故だか張りつめている。……どう考えても小島五段のせいだろうが。
私はエレベーター内にいる三人の様子を窺う。
川瀬は明らかに小島五段の様子を気にしているようで、チラチラと後ろを振り向いている。
記者の方は肩身狭そうにしてメモ帳に何かを書き込んでいる。
空気を悪くした小島五段本人は床を見つめたまま動かない。
(感じの悪い先輩だ)
そう思わざるを得なかった。
エレベーターが目的階に到着するまで私は小島五段のことを見つめていたが、彼は一度も顔を上げなかった。
チン、と音がしてエレベーターの動きが止まった。
重々しいドアが開いていき外の世界と繋がるが空気の悪さは改善されなかった。
ピシャン! と強い落雷音が会館の外から聞こえてようやく私たちは動き出した。
まるで電気が駆動燃料であるロボットのように無駄のない歩行でエレベーターから四人は出ていく。
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