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八章『悪鬼羅刹 後編』
その三
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海に落ちた、はずだった。
けれど、目を開けた時に広がっていたのは、あぶくの世界ではなかった。おれはなぜか、夜の川縁に寝そべっていた。
「ここは……?」
辺りは暗い。夜闇の暗さではなく、漆黒の闇だった。石のように重い体を起こすと、動いた空気からは柔らかくて甘い香りが漂っていた。何の香りだろうと思ったところへ答えを示すように、視界の上端から、ひらひらと小さなものが落ちてくる。花弁だった。桜よりも小ぶりで、少し青みがかっている。花弁がやってきた先をたどると、空を覆うように、隙間なく、そしてどこからともなく、無数の藤の花が咲いていた。
非現実的だ。まるで夢の中だ。いや、多分夢の中なんだろう。そう思いつつ、薄紫色の幻想的な光景に見とれていると、
「よう」
と、誰かがおれに呼びかけた。
低い声だ。正直、あまりきれいな声ではない。藤が咲き乱れる川縁という美しい風景には不似合いな、野太い男の声だった。
「……誰だ、あんた」
おれは声がした先に向かって問いかける。闇に溶けていた景色が、少しずつ輪郭を露わにする。藤の灯りで薄く照らされた先には、どうやら木造のアーチ橋が建っているようだった。
その欄干の上に座る大きな人影が、おれに呼びかけた声の主のようだ。人影はばしゃん! と豪快に水しぶきを上げながら川に降り立つと、ばしゃ、ばしゃ、と浅瀬の水を蹴り飛ばすように歩いてやってくる。
近くにやってきた人影を見て、おれは自分の目を疑う。暗がりから現れたそいつは、大陽本に住む並の男よりも、明らかに頭二つ分は大きい。作りの粗末な服を、人間ではなく巨大な岩に着せたような、とんでもない大男だった。
「『橋守の藤次』――人は俺をそう呼ぶ。そういう設定だ」
大男はおれを見下ろしながら言う。
「設定……?」
「俺ァ譚本だよ。お前さんらの定義で言えば、禁書ってことになるか?」
「!」
禁書という単語を耳にして、おれは慌てて距離を取りつつ立ち上がった。猫のように警戒するおれを見て、大男はけらけらと笑う。
「そう構えなさんな。俺ァただ、お前さんに興味が湧いて、ここにやって来ただけさ」
「興味?」
男は歯を見せて、にぃっと笑う。辺りが薄暗い中、白い歯の形だけがくっきり見えて、化け物のようだった。
顔の造形もなかなか不気味である。どんなに日焼けしてもこうはならないであろうほど黒い肌。そこに刻み込まれた白い刺青。老人のように真っ白な髪に、筋骨隆々の体つき。間近で聞く、ドスの効いた低い声も相まって、人間と言うより鬼と言った方がしっくりくる印象だ。
「おい、やって来たってどこからだ。ちゃんと分かるように言いやがれ」
おれは男を威嚇するつもりでわざと荒っぽく言うが、そんなものは屁でもないと、野良猫に近づくくらいの気軽さで、男は答えた。
「あのリツって女が身につけてた海竜珠だよ。今、お前が右手に握ってる欠片だ」
「え?」
男に指でちょいちょいと指されて、握りしめていた右の拳を開いてみる。すると、手のひらからぽろっと何かがこぼれ落ちた。リツが身につけていたペンダントの、青い石だ。
「なんで、これが……?」
「覚えてねえのか。さっきの打ち合いでお前さんが崖から落ちる寸前、あの女の襟をつかもうとしてちょうどその石を掴んだんだよ」
そうか、とおれは崖から落ちる寸前の記憶を思い起こす。無意識の間にやっていたことだったが、確かにおれはリツの襟をつかもうとしていた。柔術が体に染み付いてしまっているからこそ、窮地に追いやられて咄嗟に体が動いたのだ。意識しなくても体が反応できてしまう自分が恐ろしく感じた。
「お前、よっぽど柔術が染みついてんのな」
「!? お前、なんでおれが柔術を使うって分かるんだ!?」
ぎょっとしたおれに対し、男――藤次は当然だろと言わんばかりの表情で答えた。
「なんでって、俺ァずっとその石の中にいたからな。灯堂リツと行動を共にしていたも同然だし、お前さんのことだって出会った当初から見てる」
「あぁ、そうなのか。――ちょっと待て! てことは……」
合点すると同時に、おれはハッと気づく。おれの手は藤次の纏う着物の襟に伸びていて、それこそほとんど無意識の間に、ぐいっと力ずくで引き寄せていた。
「お前、状況を全部見てて理解してるってことだよな!? 説明しろ。一体何がどうなって、こんな状況になっちまったんだ。なんでリツはおれを斬ったんだ?」
海に落ちた瞬間から、こんな変な空間にずっとほっぽり出されたままだったのだ。おれの頭は混乱しきりだ。だが、リツに異変が起きていることは間違いない。おれはこの男と悠長に話している場合ではないし、早く状況を把握しなければならないのである。
しかし、そんなおれとは対照的に、藤次は呑気な口調で、やれやれとかぶりを振る。
「おいおい、胸ぐらを掴みながら頼みごとするのは礼儀としてどうなんだ」
「緊急事態なんだよ。なりふり構ってられる状況じゃねえ」
とっとと教えろと凄んでみるが、藤次はやはり呑気な様子で、はあ~と大袈裟なため息をつきながら答えた。
「まァいい、大目に見てやろう。あの女の赤い目と刀を見たなら気づいていると思うが、あれは第一級禁書『羅刹女』の毒だ。お前のお姫さんはな、お前に出会う前から今に至るまでずっと、『羅刹女』の毒を体内に仕込んでたんだ」
「『羅刹女』……って、それは羅刹女事件で抹消されたんじゃなかったのか?」
「『羅刹女』の原本はな。今回関わっているのは、正確には『羅刹女』の写本だ。つっても、元が凶悪な毒だから、写しも凶悪であることに変わりはねえ」
あったのかよ、写し。
――かろうじて口には出さなかったが、心ではツッコまずにいられなかった。そんなやばい代物を複製するなんて、何を考えているんだ。帝国司書隊のお偉いか誰かが命じたのだろうか。なんの意図でそんなことをするのやら、とおれは内心で呆れた。
「厄介なことに、『羅刹女』の写本は複数あってな。帝国司書隊が管理しているもの、国家に認められた個人が所有しているものの他に、盗難にあって闇市に出回っていたものもある。今回お姫さんに仕込まれていた毒は、闇市に出回っていた写本のものだ。お姫さんの父親が買い取って、実験に使ったのさ」
「実験?」
おれが聞き返すと、藤次は腕組みをし、人一倍広い肩を竦めながら説明した。
「禁書を使うことは、普通の譚本や術本を使うのとはわけが違う。禁書には本の意志、あるいは霊魂――即ち、俺たち【毒】がいるからな。読み解きってのは、単に文字を追うだけじゃねえ、その上で解釈することだ。有害な【毒】を解釈し、自分の味方につけなきゃ、禁書の力は使えねえ。つまり、使う人間側からしたら、俺たちを説き伏せるこの工程は面倒極まりないわけだ」
禁書に宿る【毒】たちの個性は様々だ。珱仙先生のような曲者、紫蔓さんのような姉御肌、鯖のような特定の相手に執着する猫。――快く協力してくれる【毒】もいれば、気難しい【毒】もいる。勿論、気質面での相性もあるのだろう。人間と変わりない。
「いかにも不愉快そうな顔だなァ? 眉間にシワが寄ってるぜ」
「当たり前だ。気分が悪ぃよ」
おれはおっさんや唯助ほど譚本に思い入れはないのだが、それでも【毒】たちは人と同じく思念を宿している。そんな彼らに敬意を払わず、どころか面倒だと軽視するのはどうなのか。本たちを単なる道具として見下している感じが満載で、おれでも嫌気がさしてくる。
そんなおれを見て、藤次はカカ、と笑った。
「今どき、お前さんのような人間の方が稀有だぜ。お姫さんの親父なんか、手っ取り早く毒の力を使うにはどうすればいいか、一生懸命考えてたんだ。その結果編み出したのが、禁書の灰を用いた秘薬ってわけだ」
「秘薬?」
「簡単に言えば、禁書を焚いて灰にしたあと、直接体内に取り込むのさ。そうして力を手に入れちまえねえかって、お姫さんの親父は研究してたんだよ。焚書すれば禁書の【毒】は消えるが、力そのものは灰という物質に残留するからな」
率直に言えば、『人間にとっては面倒な道具の人格を焼き払って取り除き、力だけを抽出して使わせてもらおう』という魂胆である。以前、おっさんが焚書を指して罰当たりな行為だと憤慨していたが、今ならその怒りにも共感できた。
「何のためにそんなことを?」
どうせろくでもないことだろうと思いつつ、おれは聞いておくことにした。
「帝国司書隊への復讐だ。それも、国全体を巻き込んで大掛かりな花火を打ち上げようって腹積もりらしいぜ」
だいたい想像通りだった。想像通りの、突飛な答えだ。おれは呆れ返って言葉を失った。開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだ、と思った。帝国司書隊を標的に、国全体を巻き込んでクーデターを起こそうなんて、ずいぶんと大それたことを考えたものである。
「……リツが、そんな馬鹿な計画に加担してたってのか? 自らその秘薬を飲んで、帝国司書隊に牙を剥こうとしてたってのか?」
にわかには信じがたい。あんなに真面目なリツが、国をひっくり返すようなとんでもない計画に賛同するなんて、ありえない。訝るおれを「まあ、そう言いなさんな」と藤次が宥める。
「馬鹿げていても、当人は馬鹿げているなりに真剣なんだぜ。そうさな、それを語るにはまず、お姫さんの譚を伝えなきゃならねえ。ほれ、水面を見てみな」
「水面?」
藤次は下の方をちょんちょんと指さす。おれたちの足元を流れている川のことらしい。なぜ唐突にそんなことを、と思いはしたが、おれは素直に指示に従った。
「……なにもねえけど」
いくら目を凝らそうと、水面に写っているのはおれの顔だけだ。他に変わったものが写っている様子はないし、川底になにか見える訳でもない。一度顔を上げようとしたおれに、藤次はもっと近くで見ろと再度促してくる。
「ほれ、もっとよく見ろ。じーっと覗き込め」
「んんん?」
首を傾げつつ、言われた通りに水面をじっくり覗き込んでみる。すると、次の瞬間。
「ぶばっ!?」
藤次はおれの後頭部をぐわっと鷲掴みにし、そのまま顔面を水中に押し込んだ。鼻っ柱をへし折らんばかりの勢いで、べちん! と顔面に固いものが直撃する。
「痛ってぇな、何すんだ!」
荒海に揉まれ、崖から海に落ち、川に沈め落とされ、三度も続く水没におれは憤慨する。おれの横にしゃがみこんでいた藤次は、鼻を押さえて痛がるおれを小馬鹿にするように笑っていた。
「おーおー痛いか。ジャリジャリした川底じゃなくて良かったなァ」
「……ん?」
藤次の言葉に、きょとんとするおれ。
そういえば、川に突っ込んだのに、おれの顔は一切濡れていない。
おれは「えっ?」と混乱しつつ、自分が鼻をぶつけた場所を再度確認し、もう一度「えっ??」と声を上げた。
そこは冷たい川縁などではなく、どこかの建物の一室だった。小川の水面は、いつの間にか木目の床に変わっていたのだ。
「ほれ、顔を上げてちゃんと見な」
「んがッ!?」
藤次はまたおれの頭を鷲掴みにし、グキッと首が折れそうな勢いで上向かせた。
「だから痛ぇって…… ――!」
そこで、おれは周囲が僅かに明るくなっていたことに気づく。建物の外から、夕暮れ時の赤い日が差し込んでいて、不穏な空気が漂っている。先ほどまで夜の暗闇と藤の光景は姿を消し、質素な作りの小屋の中の光景に変わりしていた。
「お姫さんの記憶の再生だ。お前さん、どうやら感化性も並の人間より強いみたいだな」
「分かるのか?」
「まァな」
藤次がほら、と再度指をさす。
その先には、床に引かれた布団の中に顔色の白い女性が横たわっていて、二人の女の子が女性にぴったりとくっついていた。藤次が指したのは、女性にぴったりくっついていた女の子たちのうち、青い石の首飾りをした、体つきの小さい子のようだった。
その子の顔立ちに、おれは覚えがあった。少しつり気味の目尻に、つぶらな牡丹色の瞳、磨いた象牙のような肌と、人形のように整った目鼻立ち。
「……リツ?」
まさか、と一瞬思いはしたものの、こんなにも整った顔を間違うはずもない。リツの顔は忘れようったって忘れられないほど綺麗なのだ。この子は、小さい頃のリツだとひと目で分かった。今目の前に広がっている光景は――灯堂リツから失われた、彼女の幼少期に他ならないのだ。
「お姫さんの石の中から見ていた記憶の譚だ。お前さんに共有してやる。最後まで拝みなァ」
おれはリツの記憶を勝手に覗くことに対してやや罪悪感を覚えつつ、しかし状況を早く理解するためにも、見させてもらうことにした。
*****
夕闇が迫る小屋の中、二人の少女が小屋の一室で身を寄せ合っていた。彼女たちの視線は度々、そばで横たわる母親へ向けられている。母親には意識がなく、二人が時折手を握ったり頭を撫でたりしても、眉ひとつ動かない。眠っているというより、昏睡しているように見えた。
「お父さん、遅いね。大丈夫かな……」
二人のうち、妹と思しき少女が、姉に不安を漏らす。妹は今にもくしゃくしゃに潰れてしまいそうなほど顔を歪ませている。長いまつ毛はまだ濡れていて、鼻が詰まっているのか、喘ぐように喋っていた。
「大丈夫だよ、りっちゃん。お父さんがなんとかしてくれるはずだから」
姉が優しい声音で慰め、妹の背中をさする。自身も不安でたまらないだろうに、それを推し隠して、小さく笑っていた。
「でも、早くしないと、お母さんが死んじゃうんでしょ? お母さんが死んじゃったら、わたし、わたし」
対して、妹は不安を隠さない。見た目からして、まだ情緒も未熟であろう年頃だ。隠すことなどできるはずもない。そんな妹を、それでも姉は必死に宥める。
「大丈夫だよ、大丈夫。お母さんは強いもの。きっとまだ頑張ってるんだよ。お父さんだって、腕利きのお医者さんなんだから。仲間を呼んで来たら、きっとすぐに……」
姉の励ましになんとか涙を堪える妹だが、その頑張りもあとどれだけもつか。電気もつけず、ただ昏くなっていくばかりの部屋で、姉妹の心は風前の灯火のようだった。
そこへ――限界の近い姉妹のもとへ駆けつけるように、小屋の扉が開かれる。
「――お父さん!?」
「レイ! リツ! 今戻った!」
玄関から一目散に走り寄るのは、薄汚れてよれよれの白衣をまとった、彼女たちの父親だった。後ろから、同じく白衣をまとった数名の医者がついてくる。
父親は布団に横たわる妻の手に触れる。手に触れてから、手首、頸。口元や鼻、瞼などに触れてから――静かに脱力した。
「……お父さん」
「……お父さん?」
茫然自失となった父親を見て、姉は子供心にも状況を悟れたものの――妹にはそれができなかった。抜け殻のように茫然とする父親に、妹はただ不穏な空気だけを感じ取って――けなげにも、それを払拭しようとするように訴えた。
「お父さん、私、ちゃんとお母さんの看病してたんだよ。温かくしなきゃだから、ちゃんと手も握ってあっためてたんだよ。体もちゃんと拭いて、綺麗にしてあげて、それで、それで……」
年長者たちは返事もできず、ただ押し黙るしかなかった。
父親も、姉も、やってきた医者たちも、皆一様に苦悶の表情である。まだ状況を理解できていない、この幼い子供に――これから残酷な真実を伝えなければならないのだから。
深い影に包まれる中、ついに耐えきれなくなった妹が叫ぶ。
「――お父さん! 早く、早くお母さんを治してよ!」
父親の袖に取りついて、叫ぶように訴える。
「お母さん、治るんだよね? だって、お医者さん連れてきたんでしょ? これで、お母さんは目を覚ますんだよね?」
「……すまない」
父親は袖を握りしめた小さな手に触れながら、錆びたような首を重々しく横に振った。
けれど、妹はそれでも理解しない。理解しようとしない。
「どうして、治してくれないの? どうして、おじさんたちは何もしないの? どうして? ねえ、どうして!」
「すまない、リツ。……全部、父さんのせいだ」
呻くように漏らす父親。非難するように叫ぶのをやめない妹を、
「リツ、やめて!」
と姉が遮る。破裂寸前の風船のような妹を、自分の胸に抱き込む。
同時に、妹はわあっと泣き叫んだ。
「お母さん、死んじゃうよぉ! お母さんが死んじゃったらやだよぉ! 早く治してよ! ねえ!! 治してってばぁ! ──お母さん! お母さんお母さん! いやだよぉ! お母さんってばぁ! うわあああん!!」
まるで、すがるような。引き留めるような。切実な泣き声。幼い少女の泣き叫ぶ声は、一人の女が死んだ事実よりも深く、大人たちの胸を抉った。
わんわんと泣き叫ぶ妹を、姉が必死に抱きしめていた。
*****
「禁書の毒を受けちまったんだよ。あいつらの母親は」
傍らで、藤次が静かに言う。
「あの姉妹の父親は、帝国司書隊から追放されてたらしい。脱退したであろう年代を考えるに、『反逆者』として扱われていた可能性が高い」
「『反逆者』、って……帝国司書隊の内紛の後に追放された人たちのことか?」
「そうだ。よく知ってたなァ」
当事者の秋声先生から聞かされていたから知っていた。
藤次の言う『反逆者』とは、三十年前の帝国司書隊の内紛で、当時の総統・八田幽岳の失脚を目論んでいた尾前家と、そこに由縁があるとされる人物たちを指している。
しかし、当時、実際に行われた隊員の身辺調査はかなり杜撰かつ排他的なものだったという。本当に失脚を目論んでいたのはほんのひと握りで、残りの大多数はこじつけと言いがかりで、濡れ衣を着せられただけだ。ただ怪しいとだけで、そう呼ばれる羽目になった被害者である。
「内紛で疑心暗鬼を生んだ八田幽岳は、保身のために邪魔な隊員を徹底的に排除した。内紛の首謀者と明確な関わりがなかったとしても、あれこれ難癖つけて追い出したのさ」
「横暴すぎる話だな。非道いなんてもんじゃねえ」
協力関係にあった尾前家の人間に裏切られた八田幽岳は、もはや誰も信用せぬと、自身の支配力をいっそう強固なものにしようとした。内乱を企てた『反逆者』という烙印は、そんな暴挙ともいうべきものに都合よく用いられた、ただの口実なのだ。
内紛を起こした張本人・尾前冬嗣を筆頭とする尾前一派をはじめ、隠れて尾前家を支援していた者、尾前家の人間と懇意にしていた者、直接的な関わりはなくとも尾前家と何らかの繋がりがあった者――八田幽岳にとって不安因子となりうる存在は、たとえ無実であろうと、問答無用で隊を追放された。
自身が重用する息子・八田光雪の良き盟友であった尾前秋久でさえ、追放処分は免れなかったのだ。
「秋声先生から聞いた。『反逆者』たちは新聞でも大きく取り上げられちまったせいで、世間一般からも極悪人扱いされたって。先生みたいに実名が新聞に載せられちまった人は、正体を隠しながらこそこそ生活しなきゃいけなくなったとか」
「ああ。姉妹の父親――灯堂倫十郎も、帝国司書隊から理不尽な扱いを受けた一人だったってわけだ。だから、世間の迫害から逃れるため、奴は大陽本の中心部から遠く離れたこの島に移り住んだ。そしてその地で出会った女と結婚し、二人の娘を授かった」
「……でも、数年後にはああなっちまったんだな?」
藤次は無表情ながらも、どこか苦々しい表情で頷いた。
「禁書の毒を受けた妻は、禁書医の倫十郎でも手の施しようがないほど侵食されちまった。だから奴はなりふり構わず、帝国司書隊に助力を乞う手紙を送ったらしい。が、帝国司書隊は『反逆者』の身内を助けることを渋りまくったみたいでな。娘を家に置いて藤京まで直接赴いて、ようやく連れて来たらしい」
しかし、結局間に合わなかった。倫十郎が不在にしている間に、姉妹の母親は亡くなってしまったのだ。
もっと早く来てくれれば、母親は助かったかもしれないのに。否、そもそも助けるつもりなどなかったのかもしれない。一応、駆けつけるフリだけして済ませただけなのかもしれない。
「国のため、人のために尽力していた禁書医の父を不当に追放し、母を死に追いやった。そんな国家の巨悪――帝国司書隊に対して、あの姉妹は相当な恨みを持っていたんだよ」
娘たちからすれば、怒り心頭だ。国家に自分たちの大事な母親を見殺しにされたも同然なのだから、帝国司書隊への復讐を考える理由も、理解だけはできた。
けれど、目を開けた時に広がっていたのは、あぶくの世界ではなかった。おれはなぜか、夜の川縁に寝そべっていた。
「ここは……?」
辺りは暗い。夜闇の暗さではなく、漆黒の闇だった。石のように重い体を起こすと、動いた空気からは柔らかくて甘い香りが漂っていた。何の香りだろうと思ったところへ答えを示すように、視界の上端から、ひらひらと小さなものが落ちてくる。花弁だった。桜よりも小ぶりで、少し青みがかっている。花弁がやってきた先をたどると、空を覆うように、隙間なく、そしてどこからともなく、無数の藤の花が咲いていた。
非現実的だ。まるで夢の中だ。いや、多分夢の中なんだろう。そう思いつつ、薄紫色の幻想的な光景に見とれていると、
「よう」
と、誰かがおれに呼びかけた。
低い声だ。正直、あまりきれいな声ではない。藤が咲き乱れる川縁という美しい風景には不似合いな、野太い男の声だった。
「……誰だ、あんた」
おれは声がした先に向かって問いかける。闇に溶けていた景色が、少しずつ輪郭を露わにする。藤の灯りで薄く照らされた先には、どうやら木造のアーチ橋が建っているようだった。
その欄干の上に座る大きな人影が、おれに呼びかけた声の主のようだ。人影はばしゃん! と豪快に水しぶきを上げながら川に降り立つと、ばしゃ、ばしゃ、と浅瀬の水を蹴り飛ばすように歩いてやってくる。
近くにやってきた人影を見て、おれは自分の目を疑う。暗がりから現れたそいつは、大陽本に住む並の男よりも、明らかに頭二つ分は大きい。作りの粗末な服を、人間ではなく巨大な岩に着せたような、とんでもない大男だった。
「『橋守の藤次』――人は俺をそう呼ぶ。そういう設定だ」
大男はおれを見下ろしながら言う。
「設定……?」
「俺ァ譚本だよ。お前さんらの定義で言えば、禁書ってことになるか?」
「!」
禁書という単語を耳にして、おれは慌てて距離を取りつつ立ち上がった。猫のように警戒するおれを見て、大男はけらけらと笑う。
「そう構えなさんな。俺ァただ、お前さんに興味が湧いて、ここにやって来ただけさ」
「興味?」
男は歯を見せて、にぃっと笑う。辺りが薄暗い中、白い歯の形だけがくっきり見えて、化け物のようだった。
顔の造形もなかなか不気味である。どんなに日焼けしてもこうはならないであろうほど黒い肌。そこに刻み込まれた白い刺青。老人のように真っ白な髪に、筋骨隆々の体つき。間近で聞く、ドスの効いた低い声も相まって、人間と言うより鬼と言った方がしっくりくる印象だ。
「おい、やって来たってどこからだ。ちゃんと分かるように言いやがれ」
おれは男を威嚇するつもりでわざと荒っぽく言うが、そんなものは屁でもないと、野良猫に近づくくらいの気軽さで、男は答えた。
「あのリツって女が身につけてた海竜珠だよ。今、お前が右手に握ってる欠片だ」
「え?」
男に指でちょいちょいと指されて、握りしめていた右の拳を開いてみる。すると、手のひらからぽろっと何かがこぼれ落ちた。リツが身につけていたペンダントの、青い石だ。
「なんで、これが……?」
「覚えてねえのか。さっきの打ち合いでお前さんが崖から落ちる寸前、あの女の襟をつかもうとしてちょうどその石を掴んだんだよ」
そうか、とおれは崖から落ちる寸前の記憶を思い起こす。無意識の間にやっていたことだったが、確かにおれはリツの襟をつかもうとしていた。柔術が体に染み付いてしまっているからこそ、窮地に追いやられて咄嗟に体が動いたのだ。意識しなくても体が反応できてしまう自分が恐ろしく感じた。
「お前、よっぽど柔術が染みついてんのな」
「!? お前、なんでおれが柔術を使うって分かるんだ!?」
ぎょっとしたおれに対し、男――藤次は当然だろと言わんばかりの表情で答えた。
「なんでって、俺ァずっとその石の中にいたからな。灯堂リツと行動を共にしていたも同然だし、お前さんのことだって出会った当初から見てる」
「あぁ、そうなのか。――ちょっと待て! てことは……」
合点すると同時に、おれはハッと気づく。おれの手は藤次の纏う着物の襟に伸びていて、それこそほとんど無意識の間に、ぐいっと力ずくで引き寄せていた。
「お前、状況を全部見てて理解してるってことだよな!? 説明しろ。一体何がどうなって、こんな状況になっちまったんだ。なんでリツはおれを斬ったんだ?」
海に落ちた瞬間から、こんな変な空間にずっとほっぽり出されたままだったのだ。おれの頭は混乱しきりだ。だが、リツに異変が起きていることは間違いない。おれはこの男と悠長に話している場合ではないし、早く状況を把握しなければならないのである。
しかし、そんなおれとは対照的に、藤次は呑気な口調で、やれやれとかぶりを振る。
「おいおい、胸ぐらを掴みながら頼みごとするのは礼儀としてどうなんだ」
「緊急事態なんだよ。なりふり構ってられる状況じゃねえ」
とっとと教えろと凄んでみるが、藤次はやはり呑気な様子で、はあ~と大袈裟なため息をつきながら答えた。
「まァいい、大目に見てやろう。あの女の赤い目と刀を見たなら気づいていると思うが、あれは第一級禁書『羅刹女』の毒だ。お前のお姫さんはな、お前に出会う前から今に至るまでずっと、『羅刹女』の毒を体内に仕込んでたんだ」
「『羅刹女』……って、それは羅刹女事件で抹消されたんじゃなかったのか?」
「『羅刹女』の原本はな。今回関わっているのは、正確には『羅刹女』の写本だ。つっても、元が凶悪な毒だから、写しも凶悪であることに変わりはねえ」
あったのかよ、写し。
――かろうじて口には出さなかったが、心ではツッコまずにいられなかった。そんなやばい代物を複製するなんて、何を考えているんだ。帝国司書隊のお偉いか誰かが命じたのだろうか。なんの意図でそんなことをするのやら、とおれは内心で呆れた。
「厄介なことに、『羅刹女』の写本は複数あってな。帝国司書隊が管理しているもの、国家に認められた個人が所有しているものの他に、盗難にあって闇市に出回っていたものもある。今回お姫さんに仕込まれていた毒は、闇市に出回っていた写本のものだ。お姫さんの父親が買い取って、実験に使ったのさ」
「実験?」
おれが聞き返すと、藤次は腕組みをし、人一倍広い肩を竦めながら説明した。
「禁書を使うことは、普通の譚本や術本を使うのとはわけが違う。禁書には本の意志、あるいは霊魂――即ち、俺たち【毒】がいるからな。読み解きってのは、単に文字を追うだけじゃねえ、その上で解釈することだ。有害な【毒】を解釈し、自分の味方につけなきゃ、禁書の力は使えねえ。つまり、使う人間側からしたら、俺たちを説き伏せるこの工程は面倒極まりないわけだ」
禁書に宿る【毒】たちの個性は様々だ。珱仙先生のような曲者、紫蔓さんのような姉御肌、鯖のような特定の相手に執着する猫。――快く協力してくれる【毒】もいれば、気難しい【毒】もいる。勿論、気質面での相性もあるのだろう。人間と変わりない。
「いかにも不愉快そうな顔だなァ? 眉間にシワが寄ってるぜ」
「当たり前だ。気分が悪ぃよ」
おれはおっさんや唯助ほど譚本に思い入れはないのだが、それでも【毒】たちは人と同じく思念を宿している。そんな彼らに敬意を払わず、どころか面倒だと軽視するのはどうなのか。本たちを単なる道具として見下している感じが満載で、おれでも嫌気がさしてくる。
そんなおれを見て、藤次はカカ、と笑った。
「今どき、お前さんのような人間の方が稀有だぜ。お姫さんの親父なんか、手っ取り早く毒の力を使うにはどうすればいいか、一生懸命考えてたんだ。その結果編み出したのが、禁書の灰を用いた秘薬ってわけだ」
「秘薬?」
「簡単に言えば、禁書を焚いて灰にしたあと、直接体内に取り込むのさ。そうして力を手に入れちまえねえかって、お姫さんの親父は研究してたんだよ。焚書すれば禁書の【毒】は消えるが、力そのものは灰という物質に残留するからな」
率直に言えば、『人間にとっては面倒な道具の人格を焼き払って取り除き、力だけを抽出して使わせてもらおう』という魂胆である。以前、おっさんが焚書を指して罰当たりな行為だと憤慨していたが、今ならその怒りにも共感できた。
「何のためにそんなことを?」
どうせろくでもないことだろうと思いつつ、おれは聞いておくことにした。
「帝国司書隊への復讐だ。それも、国全体を巻き込んで大掛かりな花火を打ち上げようって腹積もりらしいぜ」
だいたい想像通りだった。想像通りの、突飛な答えだ。おれは呆れ返って言葉を失った。開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだ、と思った。帝国司書隊を標的に、国全体を巻き込んでクーデターを起こそうなんて、ずいぶんと大それたことを考えたものである。
「……リツが、そんな馬鹿な計画に加担してたってのか? 自らその秘薬を飲んで、帝国司書隊に牙を剥こうとしてたってのか?」
にわかには信じがたい。あんなに真面目なリツが、国をひっくり返すようなとんでもない計画に賛同するなんて、ありえない。訝るおれを「まあ、そう言いなさんな」と藤次が宥める。
「馬鹿げていても、当人は馬鹿げているなりに真剣なんだぜ。そうさな、それを語るにはまず、お姫さんの譚を伝えなきゃならねえ。ほれ、水面を見てみな」
「水面?」
藤次は下の方をちょんちょんと指さす。おれたちの足元を流れている川のことらしい。なぜ唐突にそんなことを、と思いはしたが、おれは素直に指示に従った。
「……なにもねえけど」
いくら目を凝らそうと、水面に写っているのはおれの顔だけだ。他に変わったものが写っている様子はないし、川底になにか見える訳でもない。一度顔を上げようとしたおれに、藤次はもっと近くで見ろと再度促してくる。
「ほれ、もっとよく見ろ。じーっと覗き込め」
「んんん?」
首を傾げつつ、言われた通りに水面をじっくり覗き込んでみる。すると、次の瞬間。
「ぶばっ!?」
藤次はおれの後頭部をぐわっと鷲掴みにし、そのまま顔面を水中に押し込んだ。鼻っ柱をへし折らんばかりの勢いで、べちん! と顔面に固いものが直撃する。
「痛ってぇな、何すんだ!」
荒海に揉まれ、崖から海に落ち、川に沈め落とされ、三度も続く水没におれは憤慨する。おれの横にしゃがみこんでいた藤次は、鼻を押さえて痛がるおれを小馬鹿にするように笑っていた。
「おーおー痛いか。ジャリジャリした川底じゃなくて良かったなァ」
「……ん?」
藤次の言葉に、きょとんとするおれ。
そういえば、川に突っ込んだのに、おれの顔は一切濡れていない。
おれは「えっ?」と混乱しつつ、自分が鼻をぶつけた場所を再度確認し、もう一度「えっ??」と声を上げた。
そこは冷たい川縁などではなく、どこかの建物の一室だった。小川の水面は、いつの間にか木目の床に変わっていたのだ。
「ほれ、顔を上げてちゃんと見な」
「んがッ!?」
藤次はまたおれの頭を鷲掴みにし、グキッと首が折れそうな勢いで上向かせた。
「だから痛ぇって…… ――!」
そこで、おれは周囲が僅かに明るくなっていたことに気づく。建物の外から、夕暮れ時の赤い日が差し込んでいて、不穏な空気が漂っている。先ほどまで夜の暗闇と藤の光景は姿を消し、質素な作りの小屋の中の光景に変わりしていた。
「お姫さんの記憶の再生だ。お前さん、どうやら感化性も並の人間より強いみたいだな」
「分かるのか?」
「まァな」
藤次がほら、と再度指をさす。
その先には、床に引かれた布団の中に顔色の白い女性が横たわっていて、二人の女の子が女性にぴったりとくっついていた。藤次が指したのは、女性にぴったりくっついていた女の子たちのうち、青い石の首飾りをした、体つきの小さい子のようだった。
その子の顔立ちに、おれは覚えがあった。少しつり気味の目尻に、つぶらな牡丹色の瞳、磨いた象牙のような肌と、人形のように整った目鼻立ち。
「……リツ?」
まさか、と一瞬思いはしたものの、こんなにも整った顔を間違うはずもない。リツの顔は忘れようったって忘れられないほど綺麗なのだ。この子は、小さい頃のリツだとひと目で分かった。今目の前に広がっている光景は――灯堂リツから失われた、彼女の幼少期に他ならないのだ。
「お姫さんの石の中から見ていた記憶の譚だ。お前さんに共有してやる。最後まで拝みなァ」
おれはリツの記憶を勝手に覗くことに対してやや罪悪感を覚えつつ、しかし状況を早く理解するためにも、見させてもらうことにした。
*****
夕闇が迫る小屋の中、二人の少女が小屋の一室で身を寄せ合っていた。彼女たちの視線は度々、そばで横たわる母親へ向けられている。母親には意識がなく、二人が時折手を握ったり頭を撫でたりしても、眉ひとつ動かない。眠っているというより、昏睡しているように見えた。
「お父さん、遅いね。大丈夫かな……」
二人のうち、妹と思しき少女が、姉に不安を漏らす。妹は今にもくしゃくしゃに潰れてしまいそうなほど顔を歪ませている。長いまつ毛はまだ濡れていて、鼻が詰まっているのか、喘ぐように喋っていた。
「大丈夫だよ、りっちゃん。お父さんがなんとかしてくれるはずだから」
姉が優しい声音で慰め、妹の背中をさする。自身も不安でたまらないだろうに、それを推し隠して、小さく笑っていた。
「でも、早くしないと、お母さんが死んじゃうんでしょ? お母さんが死んじゃったら、わたし、わたし」
対して、妹は不安を隠さない。見た目からして、まだ情緒も未熟であろう年頃だ。隠すことなどできるはずもない。そんな妹を、それでも姉は必死に宥める。
「大丈夫だよ、大丈夫。お母さんは強いもの。きっとまだ頑張ってるんだよ。お父さんだって、腕利きのお医者さんなんだから。仲間を呼んで来たら、きっとすぐに……」
姉の励ましになんとか涙を堪える妹だが、その頑張りもあとどれだけもつか。電気もつけず、ただ昏くなっていくばかりの部屋で、姉妹の心は風前の灯火のようだった。
そこへ――限界の近い姉妹のもとへ駆けつけるように、小屋の扉が開かれる。
「――お父さん!?」
「レイ! リツ! 今戻った!」
玄関から一目散に走り寄るのは、薄汚れてよれよれの白衣をまとった、彼女たちの父親だった。後ろから、同じく白衣をまとった数名の医者がついてくる。
父親は布団に横たわる妻の手に触れる。手に触れてから、手首、頸。口元や鼻、瞼などに触れてから――静かに脱力した。
「……お父さん」
「……お父さん?」
茫然自失となった父親を見て、姉は子供心にも状況を悟れたものの――妹にはそれができなかった。抜け殻のように茫然とする父親に、妹はただ不穏な空気だけを感じ取って――けなげにも、それを払拭しようとするように訴えた。
「お父さん、私、ちゃんとお母さんの看病してたんだよ。温かくしなきゃだから、ちゃんと手も握ってあっためてたんだよ。体もちゃんと拭いて、綺麗にしてあげて、それで、それで……」
年長者たちは返事もできず、ただ押し黙るしかなかった。
父親も、姉も、やってきた医者たちも、皆一様に苦悶の表情である。まだ状況を理解できていない、この幼い子供に――これから残酷な真実を伝えなければならないのだから。
深い影に包まれる中、ついに耐えきれなくなった妹が叫ぶ。
「――お父さん! 早く、早くお母さんを治してよ!」
父親の袖に取りついて、叫ぶように訴える。
「お母さん、治るんだよね? だって、お医者さん連れてきたんでしょ? これで、お母さんは目を覚ますんだよね?」
「……すまない」
父親は袖を握りしめた小さな手に触れながら、錆びたような首を重々しく横に振った。
けれど、妹はそれでも理解しない。理解しようとしない。
「どうして、治してくれないの? どうして、おじさんたちは何もしないの? どうして? ねえ、どうして!」
「すまない、リツ。……全部、父さんのせいだ」
呻くように漏らす父親。非難するように叫ぶのをやめない妹を、
「リツ、やめて!」
と姉が遮る。破裂寸前の風船のような妹を、自分の胸に抱き込む。
同時に、妹はわあっと泣き叫んだ。
「お母さん、死んじゃうよぉ! お母さんが死んじゃったらやだよぉ! 早く治してよ! ねえ!! 治してってばぁ! ──お母さん! お母さんお母さん! いやだよぉ! お母さんってばぁ! うわあああん!!」
まるで、すがるような。引き留めるような。切実な泣き声。幼い少女の泣き叫ぶ声は、一人の女が死んだ事実よりも深く、大人たちの胸を抉った。
わんわんと泣き叫ぶ妹を、姉が必死に抱きしめていた。
*****
「禁書の毒を受けちまったんだよ。あいつらの母親は」
傍らで、藤次が静かに言う。
「あの姉妹の父親は、帝国司書隊から追放されてたらしい。脱退したであろう年代を考えるに、『反逆者』として扱われていた可能性が高い」
「『反逆者』、って……帝国司書隊の内紛の後に追放された人たちのことか?」
「そうだ。よく知ってたなァ」
当事者の秋声先生から聞かされていたから知っていた。
藤次の言う『反逆者』とは、三十年前の帝国司書隊の内紛で、当時の総統・八田幽岳の失脚を目論んでいた尾前家と、そこに由縁があるとされる人物たちを指している。
しかし、当時、実際に行われた隊員の身辺調査はかなり杜撰かつ排他的なものだったという。本当に失脚を目論んでいたのはほんのひと握りで、残りの大多数はこじつけと言いがかりで、濡れ衣を着せられただけだ。ただ怪しいとだけで、そう呼ばれる羽目になった被害者である。
「内紛で疑心暗鬼を生んだ八田幽岳は、保身のために邪魔な隊員を徹底的に排除した。内紛の首謀者と明確な関わりがなかったとしても、あれこれ難癖つけて追い出したのさ」
「横暴すぎる話だな。非道いなんてもんじゃねえ」
協力関係にあった尾前家の人間に裏切られた八田幽岳は、もはや誰も信用せぬと、自身の支配力をいっそう強固なものにしようとした。内乱を企てた『反逆者』という烙印は、そんな暴挙ともいうべきものに都合よく用いられた、ただの口実なのだ。
内紛を起こした張本人・尾前冬嗣を筆頭とする尾前一派をはじめ、隠れて尾前家を支援していた者、尾前家の人間と懇意にしていた者、直接的な関わりはなくとも尾前家と何らかの繋がりがあった者――八田幽岳にとって不安因子となりうる存在は、たとえ無実であろうと、問答無用で隊を追放された。
自身が重用する息子・八田光雪の良き盟友であった尾前秋久でさえ、追放処分は免れなかったのだ。
「秋声先生から聞いた。『反逆者』たちは新聞でも大きく取り上げられちまったせいで、世間一般からも極悪人扱いされたって。先生みたいに実名が新聞に載せられちまった人は、正体を隠しながらこそこそ生活しなきゃいけなくなったとか」
「ああ。姉妹の父親――灯堂倫十郎も、帝国司書隊から理不尽な扱いを受けた一人だったってわけだ。だから、世間の迫害から逃れるため、奴は大陽本の中心部から遠く離れたこの島に移り住んだ。そしてその地で出会った女と結婚し、二人の娘を授かった」
「……でも、数年後にはああなっちまったんだな?」
藤次は無表情ながらも、どこか苦々しい表情で頷いた。
「禁書の毒を受けた妻は、禁書医の倫十郎でも手の施しようがないほど侵食されちまった。だから奴はなりふり構わず、帝国司書隊に助力を乞う手紙を送ったらしい。が、帝国司書隊は『反逆者』の身内を助けることを渋りまくったみたいでな。娘を家に置いて藤京まで直接赴いて、ようやく連れて来たらしい」
しかし、結局間に合わなかった。倫十郎が不在にしている間に、姉妹の母親は亡くなってしまったのだ。
もっと早く来てくれれば、母親は助かったかもしれないのに。否、そもそも助けるつもりなどなかったのかもしれない。一応、駆けつけるフリだけして済ませただけなのかもしれない。
「国のため、人のために尽力していた禁書医の父を不当に追放し、母を死に追いやった。そんな国家の巨悪――帝国司書隊に対して、あの姉妹は相当な恨みを持っていたんだよ」
娘たちからすれば、怒り心頭だ。国家に自分たちの大事な母親を見殺しにされたも同然なのだから、帝国司書隊への復讐を考える理由も、理解だけはできた。
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