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六章『花、熱る 後編』

その三

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 鎧武者の騒動を鎮めたその翌朝。島に降り注いでいた雨はあがり、夏の朝日が水平線の上で煌々と輝いていた。
 おれとリツは同じ部屋で食事を終え、仲居さんが膳を下げたのと入れ替わるようにナナヱと寅松がやってきた。
「世助様、リツさん、昨日は本当に助かったのです。ありがとうございました」
 ナナヱは仲居たちと全く変わりない丁寧な所作で正座し、三つ指をついて頭を下げていた。その横で座っている寅松もちょうど正座をしているような格好で、真面目な場面なのになんだかおかしく感じてしまう。
「あいつに勝てたのはナナヱが自分で結を見つけたからだよ。おれらはトドメを刺しただけ」
「けれど、ナナヱ一人では手も足も出なかったのです。お二人がいち早く助けに入ってくれたおかげで、他のお客様や仲居さんたちも誰一人怪我していません。宿を経営する加峯家の者としても、お礼を言わなければなのです」
 ナナヱを初めて見た時はなんだかふわふわとゆるい感じの子だと思ったが、こうして頭を下げているところを見ると年齢よりもずっとしっかりした子だ。おれはそんなナナヱの様子にほとほと感心していたが、隣のリツはナナヱを無表情で見ている。……いくらあの時のナナヱが精神的に追い詰められていたとはいえ、彼女がリツにしてしまったことが帳消しになるはずはない。
「――それと、お二人とも、本当にごめんなさい……」
 ナナヱは眉根を下げて、もう一度おれたちに頭を下げた。お礼を言った時よりもさらに深く、額を畳につけるほどに。
「世助様に執拗に迫って、リツさんを除け者にして、ナナヱはお二人に良からぬことをたくさんしてしまいました。だから、ごめんなさい」
 うずくまったようにも見えるナナヱを見ながら「ぶにゃぁ」とどこか心配そうに鳴く寅松。
 勿論、おれ個人としてはナナヱを許してやりたかった。ナナヱの境遇を思えばああまで必死になるのも致し方ないし、同じような経験をして苦しんだおれに彼女を責めることはできない。だが、リツはどうだろうか――おれはそっと横にいるリツのほうを見やる。
「謝れば許されると思ってる?」
 リツは無表情のまま、静かにナナヱに問いかける。
「……っ、思って、ないのです。でも、ナナヱにできることは、これだけなのです」
「私が貴方のせいでどんなに不快な気持ちになったか、分かった上でそうしてるの?」
「……ごめんなさい……」
「質問の答えになってないわ」
 リツはナナヱを睨むように見下ろしている。この低く静かな声音は、かなり怒っている時のものだ。おれならともかく、ナナヱのような子供相手にこんな詰問じみた責め方は厳しすぎやしないだろうか。
「……ナナヱは、」
 おれがナナヱを庇おうと口を開きかけた時、畳に顔を伏せたままのナナヱが震える声で返す。
「世助様とリツさんの思い出を、ナナヱが台無しにしちゃったから……だから、許してもらえなくてもしかたないのです……。……それでも、悪いことをしたから、絶対に謝らなきゃって、思って……」
 ナナヱの声は次第につっかえつっかえになり、鼻をすする音も聞こえてくる。それでもリツは何も言わずナナヱを静視し、ナナヱは頭をつけたまま決して顔を上げたりはしなかった。
「ごめんなさい……ナナヱにできる謝り方はこれしかなくて……ごめんなさい……」
 苦い空気の中、重々しい沈黙が流れる。声を押し殺すようなナナヱの嗚咽、それに外の小雨の音までが、部屋の中で鮮明に響く。おれは口を挟みたい衝動を、必死に堪えていた。
「……分かった」
 十分や十五分にも思えるような、実際には数秒程度であろう沈黙の末、リツが緊張を解いて穏やかな声になる。
「許すわ、貴方のこと。ちゃんと誠意をもって自分から謝りに来てくれたんだもの」
「……いいのですか?」
 リツの手がナナヱの肩にそっと触れると、ナナヱはおずおずと顔を上げた。ナナヱの幼い顔は満遍なく赤く染まり、目には涙が滲んでいる。
「ええ、悪いことをしたんだって反省してくれたならそれでいいの。でも、二度とこんな真似はしないのよ」
 そう語るリツの、穏やかな表情を見て安心したのか、ナナヱの目から堰を切ったように涙が溢れてくる。ナナヱは頬に伝う涙をリツに拭われながら、「はい」と小さく返事をした。
「あ、あの……お礼とお詫びに、と言ってはなんですが、お二人が宜しければ、あと一日こちらにいませんか。きっと観光も満足に出来なかったと思いますし……」
 ナナヱがおずおずと提案してくる。彼女なりの気持ちの表し方なのだろう。
「ありがとな、ナナヱ。でも、そろそろ帰らないとなんだ。おれたちの上司に心配かけちまう」
 元々は一泊二日の旅の予定だったのだ。船が出なくて一日延びたのも想定外だったし、これ以上屋敷を空けて、蒼樹郎さんや他の使用人に負担をかける訳にはいかない。ナナヱの提案を断るのも心苦しくはあるのだが。
「そうなのですか……もっとおもてなしがしたかったのですが……」
「ぶにゃぁ……」
 ナナヱはしょんぼりと残念そうに言う。寅松もナナヱの様子やおれの言ったことを察しているのか、鳴き声がどこか寂しそうに聞こえた。
「あ、ナナヱちゃん。そういうことなら一つお願いがあるのだけど――」
 おれの横から、それを見かねたリツが提案してきたのは――

 *****

「リツ姉様、このブチ猫ちゃんは人懐っこいのですよ。お顔をこうやって撫でられるのが好きなのです」
「……あ、本当。ごろごろ言ってる……! この音初めて聞けたわ! あ~可愛い~っ♡」
 ナナヱに顔を撫でられた猫が、気持ちよさそうに目を細めている。その様子を見て、リツはすっかりめろめろになっていた。
  どうやら、雨降って地はしっかりと固まったらしい――リツが提案した観光案内の役目を、ナナヱは立派にこなしていた。
 同じことを何度も言っているのは分かっているが、何度見てもリツの表情には凄まじい落差がある。ナナヱに厳しく怒っていた先ほどまでの凛然としたリツが、野良猫の群れを前にしている今は百八十度違う表情を見せていた――目尻は下がりきり、頬と口角は最大限に高く上がり、柔らかくも高い声には抑えきれないのであろう喜色が滲んでいる。
 猫に囲まれて熱を上げる女子組をよそに、おれは海をぼんやり見ていた。ご機嫌のリツにふわふわと撫でられる猫の姿を直視したら、おれは多分嫉妬で発狂する。おれだってあれくらいめろめろになったリツからあんなふうに撫でられてみたい。……いや、やっぱりそれはないか。猫扱いされるのはダメだ。変態丸出しすぎるし、美女の膝に転がってよしよしと撫でられて喜んでいるおれの画は……想像だけでも気色悪い。
「ぶにゃ~ぅ」
 ふと、おれの足に柔らかくて小さな何かが押し付けられる。寅松の肉球だった。ぽしぽしと何度も肉球を押しつけながら、いつの間にか足元までやってきていた寅松がおれを見上げている。
「おう、寅松。なんだ、ご主人様に撫でられてる猫が羨ましくて嫉妬してるのか?」
「にゃ~ぅ」
 おれはひたすら肉球を押し付けて構ってほしそうにしている寅松を抱き上げる。寅松は膨れた餅のように柔い体と体温をおれ腕にどっしりと預け、化石のように丸くなった。その様子と来たらまるっきり拗ねた子供と同じで、可愛いったらない。
「よーしよし、寂しいなぁ。女の子たちは他の猫の群れに夢中だもんなぁ。ん~?」
 おれは寅松を人間の子供のようにあやしながら、よく手入れされた毛並みに顔を埋めた。もふもふの温かい毛がおれの顔面を覆う。寅松の体には脂肪もたっぷりついているので、触り心地も極上だった。
「寅松は本当に世助様が好きですねぇ。ナナヱ以外の抱っこは嫌がるのに」
「本当ねぇ、誰にも譲らないって言ってるみたい」
 おれの背後で二人が話している。おれはそれに気づかないふりをしながら、二人の気を引くように寅松の腹へさらに顔を埋めた。
「世助様は海の方がお好きでしたかね? もしかして、寅松以外の猫はあまり好きではなかったり……?」
「猫は嫌いじゃないんだろうけど、それよりも海の方が好きみたい」
「確かに、初めて会った時も世助様は海を見ていたのです」
「好きでやっていることにケチをつけるつもりはないんだけど、もうちょっと一緒に楽しんでもいい気がするのよねぇ。せっかく二人で旅行にきたんだし」
「本当なのです。ナナヱが邪魔してしまったぶん、お二人には素敵な思い出をたくさん作ってほしいのに。だって、恋人同士の旅行なのでしょう?」
 ナナヱの言った『恋人』という言葉に、おれはぎくりとした。そうだ、ナナヱはおれとリツを本物の恋人同士だと信じているのだ。忘れかけていた。
 元々リツのことを意識しまくりのおれは、リツがおれについてどんなことを思っているのか気になってしまった。寅松に顔を埋めたまま耳をすまし、二人の会話に注意を向ける。
「邪魔したナナヱが言うのもなんですが、リツ姉様も世助様もお似合いなのです。ナナヱはお二人の仲が羨ましいのですよ」
「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
「世助様はリツ姉様のこと、本当に大好きだと思うのですよ。気がつくといっつもリツ姉様のことを見ているのです」
「あらそうなの? 全然気づいてなかったわ」
 ……二つの意味で、おれは地味にショックを受けた。まさか、幼いナナヱにまで恋心を見抜かれていたなんて。勿論、恋仲だと信じているからそう見えたというのは大いにあるのだろうけれど、おれは自分でも気づかないうちにリツを頻繁に見てしまっていたらしい。その現場をナナヱにばっちり見られていたのが恥ずかしかった。
 逆に言えば、ナナヱでも気づく熱視線に、リツは欠片も気づいていなかったらしい。改めておれはリツの眼中には入ってないんだなと実感して、なんだか悲しくなってきた。
 ……いやいや、これでいいんだ。これでいいんだ、夏目世助。本当にリツと恋人というわけではないのだし、最終的に彼女と恋人になるつもりだってないのだから、これでなにも問題はないだろう。そう落ち込むことはない。
 おれはそろそろ離れろと言いたげに頭を押しのけていた寅松を、今度はぬいぐるみのように抱きしめ直した。柔らかさと重量感で悲しみを癒すおれに、不満を漏らすように「ぶにゃ~ぅ……」と鳴く寅松。
「世助様とはどんなふうに知り合ったのです? ナナヱはリツ姉様の恋話が気になるのです」
 ……ナナヱはもしかして、おれが先ほどから穏やかでない心持ちで聞き耳を立てていることにも気づいているのだろうか。さっきからおれが気になっていることばかりを質問している気がする。
「そうねぇ、なんて言おうかしら。……私、その時は怪我をして動けなくなってたの。そこに通りかかって助けてくれたのが世助よ。世助は医者になるための勉強をしてたから、私が気を失っている間、必死に手当してくれたらしくて。怪我が治った後もずっと私のことを気にかけて看病してくれていたわ」
「わあ……それはすごいのです! 運命的な出会いなのですね!」
「そうね。彼がいなかったら、今頃どうなっていたことか……思えば、その時からちょっとずつ恋をしていたのかもしれないわね」
 ……………………ん?
 ?? その時から??
 もしや、リツは演技ではなく本当におれに恋をしているというのか。おれがリツを助けたあの日から? ……いやいや、まさか。方便だ、方便。恋仲を演じるために上手く言っているだけだ。おれはリツに意識されてないし、叱られっぱなしのひねくれ野郎だし、女心だって分からないし、あまつさえ本性はリツの入浴を妄想するような変態だ。思い上がるべきではない。
「それは恋しちゃうのです。自分を助けてくれた人だと思うと、胸がきゅんきゅんしちゃいますねぇ」
「今でも体調が悪い時はすごく気をつかってくれるから、いつも助かってるわ。本当に優しい人なのよ」
 ……いや、いや。抑えるんだ、おれ! 優しい男なんて他にもいるだろう。おれみたいな田舎くさい凡夫がリツに見合うわけないし。大体、リツはおれのことなんかよりも、記憶のこととかもっと他のことを気にしているはずだ。恋にうつつを抜かす暇などあるはずもない。恋心を抱いていたのはあくまでおれだけで――
「分かるのです。世助様は悪いことをしたナナヱのことも許して、助けてくれたのです」
「優しすぎるからこそ心配でもあるんだけどね。不器用なところもいっぱいあるのよ、彼。だから、それが愛おしく感じることもあるの」
 ……? おれが愛おしい?
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 まて、まてまてまて、これはもしかしてまさかの本当の本当に好かれてるのか!? おれが! リツに!
 こんなおれを、リツが、好いている!?
「不器用さが愛おしいのですか?」
「だって、優しくてかっこよくて全部が完璧な男だと、こっちが支えられてばっかりでかえって気が引けちゃうじゃない。私だったら、相手を甘やかしたり支えたりしてあげたいわ。そうすれば、思いっきり愛情を注いで可愛がれるでしょ?」
「なるほど、大人の女性は隙のある男性のほうが可愛いと思うのですね」
「あはは、それじゃあ私が悪いこと企んでるみたいじゃない」
 ああ、やばい、冷静になれ! 冷静になるんだ、おれ! ここで『リツも可愛い』とか『おれもリツを甘やかしたい』とか絶対に返すな!!
 リツとの恋を実らせるつもりなんてないんだろう!?
「ぶにゃぁーーーーーッ!?」
 突然、おれの腕の中にいた寅松が甲高い悲鳴をあげた。ぎょっと驚いて手元を見れば、寅松が必死に体をよじってじたばた暴れている。
「寅松!? どうしたのですか!?」
 どうやら、おれは頭を混乱させている間につい腕の力を強めてしまっていたらしい。さしもの寅松も屈強な男の太腕に締め上げられてはたまったものではない、悲鳴をあげるのも当然だった。
「ちょっと、世助!? なにしてるのよ!」
 ナナヱが駆け寄ってくれば当然、リツもやってくる。しかし、今の状態でリツの顔を見てしまったら、おれは何を言い出すかわからない。ぽろっととんでもない発言をしてしまうかもしれない。おれの頭は今、それほどに混乱をきわめているのである。
「ごめん、寅松!! ちょっと頭冷やしてくる!!」
 寅松を離し、おれはその場から全脚力全馬力でもって走り出した。その走りっぷりたるや、都市を軽快に走る馬車馬をも驚かせるほどの壮絶さであったことだろう。
「え、世助様!? どこへ行くのですか!?」
 おれを呼び止めようとするナナヱの声も、もはや何と言っているのかはっきり分からなかった。混乱から熱暴走を起こしたおれの脳は、そのままおれの全身の筋肉を蒸気機関車の動輪のように変えてしまった。おれは奇声を上げながら、海岸線を全力疾走していた。
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