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五章『花、熱る 前編』

その二

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 猫の楽園を早々に離れたおれは、港のすぐ近くに広がっていた海辺を散策していた。猫は嫌いではないが、それよりかは滅多に見ることがなかった海の景色を見たかったのだ。椿井家の屋敷は山の中に建っているし、覚えている範囲のこれまでの人生でも、おれはあまり海に目にしたことがなかった。
 ……思えば、おれたちが投げ出されていた砂浜も、こんな感じの場所だった。記憶もないまま、突然投げ出されたあの白浜――その光景は十年以上経った今も、おれの脳裏に焼きついている。さほど見たことがないはずの海の景色がこんなにも近く感じるのは、そのせいなのだろうか。透き通る波の色や音を感じるのはもちろん、潮風のベタつきや海の磯臭さも、おれにはなんだか懐かしいような気がした。
「で、お前はおれについてきちゃったわけか」
「ぶにゃ~ん」
 港でじゃれていた茶トラ猫は、おれが猫の集団から離れても飽きずに後をついてきた。上から見ると恰幅のいいジャガイモのようにも見える丸っこい体を、ぽてぽてと揺らしながら歩いている。
「お前も海が好きなのか?」
「にゃ~ぅ」
「海の水はしょっからいぞ~」
「ぶにゃ~」
 おれの台詞に律儀に相槌を打つ茶トラ猫。こうまで愛想良くされると、その辺を歩いていた知らぬ猫と言えども愛着が湧いてくる。おれが適当な岩に腰をかけると、茶トラも足を止めて、おれの影の下にぼてっと転がった。
 眼前には青空をそのまま落とし込んだような色の海が広がっている。遠くでのっぺりと広がっているその青は、手前に来れば来るほど透き通り、白く細い波となって、皆一様に砂浜に向かってひしめいていた。
 耳をしきりに満たしてくる波の音。時折遠くから聞こえるウミネコの声。時折茶トラ猫の特徴的な鳴き声がして、心は撫でつけられた猫の毛並みのように平らかだった。
 おれは転がった茶トラの頭を片手間に撫でてやりつつ、寄せては返す波をしばしぼんやりと眺めていた。
「お前、おれの知ってる猫とは大違いだな。デカいしふてぇし」
「ぶにゃぁ~」
「こんな野郎に懐いてなにが面白いんだよ。連れのおねーちゃんの方がよっぽど美人で猫好きだぜ」
「んにゃ~ぅ」
 やり取りとして成立しているのかさえ分からない、猫と人間の不毛な会話を続けていると、しばらくして乾いた砂浜をぱすんぱすんと蹴りあげるような音が近づいてきた。 
「あーあ、不公平だわ。世助ばっかり猫ちゃんに好かれちゃって」
「おー、こっぴどく振られてきたみてぇだな」
「なによその言い方。って」
 結局、リツは一匹たりとも満足に猫と触れ合えなかったらしい。茶トラとすっかり打ち解けた(?)おれの様子に口を尖らせ、完全にへそを曲げてしまっていた。
「リツは猫を前に興奮しすぎなんだよ。あいつら完全にビビってたじゃん」
「だって抑えられないんだもの。本当は口に入れたいくらいだけど、そこを押して我慢してたのよ」
「それはもはや最低限度なんだよ……」
 なんだ、口に入れたいって。おれはリツのことを異性として好いてはいるが、こればかりは少し引いた。食べちゃいたいほど可愛いという言い回しは確かにあるが、それはあくまで言葉の綾だ。本当に食べるんじゃないという話である。
「なんだか、周りの子に比べるとすごい顔をしてるわよね。その子」
「可愛いだろ。どっしり構えていて立派なもんだ」
「そうかしら」
 どうやらリツは、このふてぶてしい顔つきの茶トラがあまりお気に召さないらしい。一方、茶トラのほうもリツには興味が無いようで、彼女のことは一瞥したきり見ようともしない。
「その子、鈴をつけているってことは飼い猫よね? 体型からして、かなり裕福なお宅に飼われているように見えるけど」
「それはそうかもな。こんなに丸々と肥えた猫、飼い猫にしたってそうそう見かけないぜ」
「ぶにゃ~ん」
 おれたちの会話にさらりと混ざってくる茶トラは呑気に顔を洗い、くわっと豪快に口を開けて欠伸をしていた。
 ……かと思えば。
「んっ、どした?」
 茶トラは唐突にその三角耳をそばだて、先ほどまでののっそりした所作とは全く異なった、実に素早い動きで立ち上がった。贅肉が無駄についたその体型からは想像もつかないほど俊敏に、茶トラは海に向かって駆けていく。
「あ、おい! お前そんなとこ行ったら――」
 あっという間に沈んじまうぞ、と続けるつもりでおれは茶トラを追いかけようとしたが、茶トラはそれよりも早くざぶんと海へ飛び込み、あろうことかそのまま泳ぎ始めた。
「あいつ泳げるのかよ、すげえな!?」
 犬かきは見たことがあるが、猫かきなど見たこともなければ聞いたこともないので、おれは珍妙でありながらも見事なその泳ぎっぷりに舌を巻いた。
「感心してる場合じゃないでしょ! あの子、どんどん沖まで行くわよ!」
「おぉっと、そうだった!」
 振り返ることなくただひたすらに前進していく茶トラを、ズボンが濡れるのも厭わず追いかける。それでも茶トラは驚くべき推進力で、水をかき分け波を乗り越え進んでいく。一体どこまで行くつもりなのか、何を目指しているのかと茶トラの行き先に目を向けると、おれはそこに人影らしきものを見つけた。
 海からひょっこりと顔を出す岩場の、その頂上に立っていたのは、一本の長い棒切れを持った十二かそこらの女の子だった。波打つ黒髪を潮風に晒し、水色の着物の裾をくつろげたその姿は――空にぷかぷかと浮かぶ雲のようにあやふやだった。
「にゃ~ぅ! ぶにゃ~ぅ!」
 茶トラはその子を呼ぶように鳴き声をあげ、一目散に進んでいく。もしやあの女の子が飼い主なのだろうか、と思った矢先だった。
 す、と女の子の右手が上がる。その手に持っていた棒切れは先端を刃物かなにかで削ったのか、鋭く尖っていた。そのへんの木の枝で作ったのであろう簡素な作りの槍を、女の子は空に向かって構える。
「……ふぬんっ!」
 決して、美しい構えとは言えなかった。石で水切りをして遊んでいる子供の方がよほどマシであろう、へなちょこな構えだ。にもかかわらず、女の子が投げた棒切れは――弓を用いたかのような速度で空を駆け上がり、遥か向こうの空でのほほんと羽ばたいていた鳥の横っ腹を正確に射抜いた。
「えっ……えぇ~……?」
 棒切れの深々と刺さった鳥が、海へ一直線に落ちていく。小柄な女の子がやったとは思えない芸当に、おれは驚嘆を通り越して困惑した。
 なんだ、今の技は。いや、技なんてものですらない、ただの子供の投擲だ。ただ棒切れをぶん投げただけだ。だというのにこの精度である。視力がそこそこ良いおれでも胡麻ひと粒くらいの大きさにしか見えないほど、遥か遠くを飛んでいた鳥。それを正確に撃ち抜くなんて、手品かなにかを見ているような気分だった。
 さしものリツも、これにはあんぐりと口を開けてしまっている。
「ぶにゃ~ん! ぶにゃ~ん!」
「……おや?」
 女の子は足元までやって来ていた茶トラにようやく気づいたようで、岩場に這い上がるその巨体をひょいと抱えた。
寅松とらまつ、どうしました。そんなに興奮して」
「ぶにゃ~!」
「……おやおや?」
 茶トラの鳴き声からなにを読み取ったのかは分からないが、女の子は茶トラを追いかけてきていたおれとリツにも気がついたようで
「あ、すみません。お客様だったのですね」
 と言いながらぺこっと頭を下げた。
「むさ苦しい所をお見せしてしまいました。乙女として恥ずかしさの極み、です」
 てへ、と自分の頭を叩いてみせるその子は、全くと言っていいほど表情筋が動いていなかった。

 *****

 茶トラ――もとい、寅松を追いかけて濡れた服を着替え、おれとリツは適当な日陰に腰を下ろした。おれの足元には、潰れた饅頭のような姿で寛いでいる寅松がいる。
「寅松がこんなに人に懐くなんて、珍しいのです。驚きました」
 おれの向かいの岩にちょこんと腰をかけた女の子は、呑気にうたた寝をしている寅松に驚愕していた。……のだと思う。いかんせん、この子は顔の筋肉が全然動かないので、驚いているのかすらも分からないほど表情が固いのだ。いや、固いというよりは、むしろゆるいと言うべきなのか。なにもかもが緩すぎて、脱力しきっていて、水中をふよふよと漂うクラゲくらい何を考えているか分からないとでも言えばいいのか。
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「おれたちか? おれは夏目世助。んで、こっちの女の人が灯堂リツ」
「……夏目、夏目、なつめ」
 女の子はおれの苗字をぽつんぽつんと何度も繰り返し、
「夏目、とは。あの夏目でしょうか。大陽本の古流柔術を受け継ぐ名家たる、あの」
 と聞いてくる。
「あー……まあ、そう、だな。って言っても、今はもう夏目とは縁を切ってるし、おれがいたのは末端の分家だから、立派なお家柄ってわけでもないよ」
 しかし、こんなに小さい、まだ十二かそこらの子がよく知っていたものだ。あの槍投げの技術も構えはめちゃくちゃとはいえ凄まじい精度だし、武道に通じている人間が身近にいるのだろうか。
「申し遅れました。加峯かぶナナヱ、十二歳。今年で十三歳なのです。よろしくなのです」
「加峯……って、あああっ!」
 加峯という名前に、おれはすぐにピンと来た。夏目と同じく、単なる一般市民でも武道を少し齧っていれば一度は耳にするであろう名前――大陽本四大武家が一家、槍の加峯家だ。
「そうか! ここって加峯流槍術の総本山だったな」
 藍舘島の名前を見た時点で、どこかで聞いた覚えがあると思ったのだ。頭の片隅で引っかかっていたものが分かり、霧が晴れたようにすっきりした。
「……ってことは、さっきの槍投げは加峯家の槍術か?」
「いえ、私個人が使っているだけの投擲術です。残念ながらわたくし、槍術の才がございません。ああして投げることしか能がないもので」
「いやいや、あれはあれで立派な才能だろ」
 あんなに正確な投擲技術、そんじょそこらの人間に真似できるものではない。十二かそこらの女の子がよくもこんな技術を身につけたものだ。
「ありゃ独学か?」
「はい、ナナヱ独自のものなのです。お遊びですけど」
「お遊び……才能がないなんてにわかには信じ難いけどなぁ」
「本当なのです。ナナヱはどうしてもちゃんと構えることができなくて、加峯流槍術を教えてもらえないのです。型にとらわれなければ、それなりに戦うことは可能なのですが」
「四百年前の戦国の世ならともかく、今の時代だと難しいよなぁ」
 今の世は男ならばともかく、女は戦士として活躍できるような時代ではない。それに、四百年も経って流派の型が確立されてしまっている今は、個人の強さ云々よりも流派を守ることの方が重要視されてしまうのだ。ナナヱのような自由すぎる戦法は、個人の強さとしてはともかく、家に属する者の能力としては認められないのだろう。
「加峯家の人間として、後世に槍術を受け継いでいくというお役目を果たすことは、ナナヱにはできないのです。しょぼん」
 わざわざしょぼんなんて口にしているからふざけているようにも見えるが、おれは似た環境にいたから、ナナヱが本気で凹んでいるのが分かった。
「とはいえ、ここで会ったのもなにかの縁、袖すりあうも他生の縁、です。まさかここで夏目家の方とお会いできるとは」
「いや、だからおれはもう夏目の人間じゃ……」
 改めてそこを強調して言おうとしたが、ナナヱには全く聞いている様子がない。
「世助様。ぜひとも、このナナヱとお手合わせ願えませんか」
「へ?」
 彼女の口から飛び出てきた言葉に、おれは一瞬呆気に取られる。
「怪我するかもしれねえぞ?」
 ナナヱも加峯家の人間として武術は仕込まれているのだろうが、どんなに強かろうと十二歳の少女、しかも初対面の子だ。それを相手にどこまで本気を出して立ち回れば良いものか悩みどころだし、もし加減を間違えれば怪我をさせる可能性だってあるのだから、おれはそれを危惧した。しかし、ナナヱは
「元より承知です。わたくしとて女とはいえ加峯家の人間、命を投げ打つ覚悟もとうにできておりますれば、試合の怪我ごとき」
 などと言うのである。なんだか、大人びているのか子供っぽいのかよく分からない子だ。率直に言って、やりづらい。
「手加減は不要なのです。さあさ、あちらに良い試合場がございますので、さあさ」
 おれの了承も待たずに、ナナヱがさっさと歩き出す。おれの足元で寝そべっていた寅松もいつの間にか起き上がり、『早くあの子についていけ』と言わんばかりに、おれの足を頭でぐりぐり押してくる。
「……悪い、リツ。暫く適当に付き合ってくれるか?」
「構わないわよ。あんまり断れる雰囲気でもないみたいだしね」
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