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四章『頑張り屋の休息日』

その三

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 世助は昼食を食べ終えてから、再び眠りについた。さすがに二度目の添い寝は全力で拒否されたのでやめたけど、眠りに落ちたと思って部屋から出ていこうとすると、彼は急に起きて私の腕を掴んだ。彼は気配を読むのに長けているからか、僅かでも足音を立てるとすぐに起きて気づいてしまうようだった。
 周囲からは看病に専念するよう言われているし、私も自分で引き受けた役目だから、彼に引き止められるのは構わない。が、それはそれとして、付きっきりで看病するのもなかなか疲れるものだ。というか、看病がここまで大変だとは思わなかった。私は様子を見に来てくれたイシさんに暫く看病を交代してもらって、少し休憩をとることにした。
 いつも休憩に使う屋敷の縁側に腰をかけ、緑に満たされた庭の空気を吸い込む。早朝に見た朝顔の花は、正午を過ぎた今はすっかり萎んでしまっていた。
「なかなか苦労しているようだな」
 庭を行き来する揚羽蝶をぼんやりと目で追っていると、きゅるきゅると人の足音ではない物音が近づいてくる。それが車椅子の車輪の音だと気づいて、私の背筋がぴっと伸びた。
「旦那様っ」
 車椅子はいつも介助役の世助が押していたから、少し意外だった。車椅子って、やろうと思えば片手でも回せるものなのか。
「まあ、そうかしこまるな。仕事の息抜きをしにきたのに、空気が堅くなってしまうだろう。生真面目な奴め」
「う……」
 イシさんと全く同じことを旦那様にも言われて、私は言葉に詰まった。そんな私を見て、旦那様は車椅子の車輪を固定しながら可笑しそうに笑う。
「赤塚やイシ婆から話は聞いている。なにやら世助が子供返りをしているらしいな?」
「ええ、まあ……。難儀な子だと、きっと苦労して来たんだろうと、イシさんは言ってました」
「まあ、事実そうだな。あの子は――おっと」
 旦那様は何かを言いかけて、慌ててそれを引っ込める。同時に、彼の背後からお盆を持った赤塚さんが現れた。
「よく分かったな?」
「旦那様がこちらに向かわれるのが見えましたので、休憩かと思いましてね。はい、どうぞ」
 赤塚さんがお盆に乗せていたのは、旦那様が最近好んで飲んでいる頂き物の紅茶が入った、硝子のティーポット。そして二人分のティーカップだった。彼女は紅茶を手際良くカップに注ぎ入れると、旦那様の右手側に置いてあった台の上にそれを置く。
「お飲みになりますでしょ?」
「あぁ。さすがだ、気が利くな」
 驚いたことに、赤塚さんは旦那様だけでなく、私の分のお茶まで持ってきてくれたようだった。
「はい、りっちゃんも同じのどうぞ。旦那様が皆も飲んでっておすすめなさってたからね」
「ありがとうございます」
 受け取ったカップはひんやりとしていた。今日の暑さに合わせて、紅茶を予め冷やしておいていたのだろう。指先から伝わる冷感が、夏の暑さの中では心地良かった。
「ではごゆっくり」
 と、赤塚さんは軽く会釈をして静かに立ち去る。旦那様はそばに置かれたカップを手に取り、それに口をつけて満足そうに微笑んだ。
「先ほど赤塚が言った通りだ。ここまで質のいい茶葉は滅多に手に入らないそうだからな、リツも飲んでみるといい」
「はい。ありがたく頂きます」
 私も旦那様に倣い、カップに唇をつけて紅茶を啜ってみる。特にお茶の味を気にかけたことはなかったのだけど、この紅茶は口に含んだ瞬間から普段のものとは違っていた。
「……美味しい。いい香りがします。品があるのに華やか過ぎないというか」
「あっさりしていて落ち着くだろう」
 旦那様のお好みは緑茶で、紅茶はあまり飲まれない。しかし、この紅茶は香りに癖がなくて飲みやすく、旦那様もお気に召したのだそうだ。冷たいお茶を啜った時に一緒に流れ込んでくる、気品あるすっきりした香りが、暑い体に染み込んでくるようで心地良い。使用人の中では一番料理上手な赤塚さんが淹れたから、舌に感じる渋味も少なく、茶葉の甘味がほんのりと広がる。
「うちの使用人は皆優秀だな。腕前もそうだが、なにより思いやりがあって気が利く」
 紅茶に舌鼓を打ち、旦那様はふうとひと息ついている。今朝は世助のこともあって思い詰めていたようだったから、ほころんだ表情を見て私は安心していたが、
「さて、先ほど言いかけたことだが――」
 それもつかの間、柔らかく緩んでいた旦那様の頬がきゅっ、と引き締まった。
「世助はおそらく、大人を信頼できていないのだろう。信用はしていてもな」
「信頼と信用は違うのですか」
「違う。信用は実績を信じて用いることだが、信頼は人柄を信じて、さらに頼ることだ。私はこう見えて用心深いからな。使用人を雇う際は、信頼できる人物だけを選んで雇用したよ」
 私はここで雇われている使用人たちの顔を思い浮かべた。優しくて頼りになるイシさんや、気配り上手の赤塚さん、世助を見て一も二もなく医者を呼びに行った蒲原さん――他にも、ここにいる皆は親切で善い人ばかりだ。
「満足に動かせない体で、しかも訳ありの身だ。信用だけでは足りなくてな。この身を委ねざるを得ない以上、使用人も信頼するに足る人物でなければならなかったのだ」
「その人の人柄を見て採用を決めた……ということですか?」
「そういうことだ」
 旦那様は私の言葉を肯定して、紅茶をもう一度啜る。
「世助は実績の上では大人を信用できるのだろう。私や秋声殿から積極的に知識を学ぼうと頑張っているからな。だが、信頼はなかなか難しい。こちらの力不足も大いにある、と前置きした上で言うが、世助は誰かを頼るのが性格上苦手なのだと私は思う」
 私はイシさんが言っていたことを思い出す。世助は本当は甘えん坊で、しかし甘え下手でもあると――誰かに甘えたいという気持ちを持ちつつも、それを上手く外に伝えることができないのだと。
「あの子は困っても独力ですべて解決しようとする。周りに頼らず、助けを求めることもなく、自分で抱え込んでしまう癖があってね。今回の場合は、リツの前で情けない姿を見せるのが恥ずかしかった、というのもあるのだろう」
「恥ずかしがることはないと思うのですが……」
「男は女の目があると、自分をよく見せようとするものだ。増して、あの子は元々強がりだからな」
 節くれ立った旦那様の指がティーカップの取っ手をなぞり、摘む。持ち上げはしなかった。ただ数秒、摘んだまま静止して、すぐに指を離してしまった。
「……世助は去年まで、柔術の道場にいたんだ。そこの跡取り息子だったらしい」
 そして、旦那様の唇が静かに語り出す。
「本人の話を聞く限り、そこでは満足に甘えることができなかったようだし、甘え下手な原因もそこから生じたのではないかと私は予想している」
「夏目家……四百年以上前から伝わる古流柔術の家元、ですか」
「ああ、そうだ」
 夏目という家名は、武術に通じる人間なら知っていることも多い。私は彼の実力を見た時、もしやあの夏目かと思ったのだが、当人は苗字が好きではないと言っていたからあえて聞かずにいた。やはりそうだったのかと、ここで初めて納得できた。
「あの子がいたのは分家の道場だがな。まあ本家にしろ分家にしろ、長男というものは当主としていずれ家を背負う身になる。例外を除けば、大半は幼い頃から相応しき人となるべく教育が施されるものだ。否応なく、な」
 そう言う旦那様は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。その味を酷く忌み嫌い毛嫌うような、深い皺を伴う表情だった。
「あの子は身寄りがいなかったところを養子として道場に引き取られた身だったそうでな。拾われた立場で修行がつらいなどという弱音は言えなかったのだろう。敬語に苦手意識があったり、くだけた態度をとったり、少しひねくれた部分があったり……それらも、今まで抑圧されてきた反動なのかもしれない」
 なるほど、道理で旦那様が世助に甘かったわけだ、と今まで疑問に感じてきたことがすとんと腑に落ちた。旦那様は世助の荒っぽい態度の奥に隠された彼の深層を、しっかりと見ていたのだ。私はそれを見ても、単に行儀がよろしくないというだけで終止していたから、想像力の浅さを突かれたようだった。
 しかし、その程度の対応では問題の解消には程遠い、と旦那様は言う。
「あの子は弱音の吐き方が分からなくなっている。その上、他人を気にかけて自分のことを後回しにするきらいもある。特に、唯助に対してはそれが顕著に出ていた。最近は、お前に対しても」
「……ええ」
 世助は体調や記憶のことはもちろん、屋敷の生活で不便なことはないかとか、使用人の皆とは上手くやれているかとか、つらく感じていることはないかとか、そういったことを聞いて常に私を気にかけてくれていた。おかげで、記憶をなくした不安など今となってはほとんど感じていない。記憶がなくてもなんとかなるんじゃないかとさえ思っているくらいだ。
「他人のことは思いやれる反面、自分の問題は内に抱え込んでギリギリまで耐えてしまうんだ。その傾向に気づいていたというのに、私はあの子がこうなるまで異変に気づいてやれなかった。彼の身を預かっている者として、この上ない失態だ」
 今までは人並み外れた体力で多少の無理もなんとかなっていたのかもしれない。けれど、今回ばかりはそうはいかなかった。深夜の列車で禁書の事件に巻き込まれたり、長距離を行き来するなどしたことで、ついに世助の体力も限界を迎えたのだ。そうして蓄積していた疲労が回復しないまま、精神面の問題も合わせて、一気に彼を襲ったのだろう。
「不思議なことに、弟の唯助には世助が考えていることが大体分かるようでな。双子だから、なのか……そのおかげで、今までなら唯助が世助の異変をすぐに察知して助けに入れたんだろう。それで上手く回っていただけに、世助にはつらいということを誰かに発信する必要性が今まで生じなかった。悩んでいるときは弟がすぐに察して、自分の代わりに助けを求めてくれたのだから」
 今の彼は、それができない。何も言わなくても助けに動いてくれた唯助くんとは離れた地で暮らしている。旦那様や秋声先生が先に察して手を伸ばせればいいが、当然、他人が推しはかれる範囲には限界がある。出来なかった場合は、今回のようになってしまうのだ。
「今回のようなことが何度も起きれば、そのうち不調を来す程度では済まなくなるかもしれない。そういうことですね?」
「ああ。どうにかせねばと、私や秋声殿も考えている。私が与えていた課題も、相談してくれれば量を調節することぐらい容易くできたのだが――それ以前に、無理をしていることに気づいていなかったようだと、医者は言っていたな」
「……恐ろしい話です」
 旦那様は眉根の皺を深くして、そこを指できりきりと揉んでいた。大きな悩みに直面し、頭を悩ませているときにする癖だ。
「せめて、悩みを相談しやすい相手が一人でも増えれば良いのだがな。私や秋声殿ではまだまだ難しいようなのだ」
 旦那様の言う通り、彼は周りを全く信じていないわけではないのだろう。けれど、自分が弱っているところを素直に見せられるほど信頼を寄せている、というのはまた話が違う。今のところ、彼の中でこの枠に当てはまっているのは、弟の唯助くんだけ――それでは、現状彼もしんどいはずだ。
「まあ、私の管見は置いておくとして、だ。リツ、お前は私に相談できる悩みがあるか?」
「!」
 私は心の中を読まれたような気がして、下がりがちだった視線を旦那様の方へ向ける。旦那様は先ほどと打って代わり、呆けた私を見て微笑んでいた。
「……一つ、ご意見を伺いたいことが」
 もしかして、同じ男性の旦那様なら、イシさんとはまた違った角度から意見を出してくれるかもしれない。私はそう考えて、イシさんに相談した時と同じ疑問を旦那様に投げかけてみた。
「今の世助にどう接してあげればいいのか、迷っているのです。特殊な事情があるようですし、その影響もあって今の彼は不安定な状況にある。とはいえ、私はそのような相手に遭遇した経験がないものですから、どう行動すればいいのかもよく分からなくて」
 甘えさせてあげればいいのかと思って添い寝をすれば嫌がる。やっぱり近づきすぎだったかと思って距離を置くと、今度は無理を押して私を追いかけてくる。部屋を出ていこうとすれば、私の腕を掴んで引き留めたりもした。予想できない行動ばかり取るものだから、私は戸惑っていた。
「なるほど。それは少し面倒だな」
 面倒、と旦那様は憚ることなく言う。仕方のない奴め、とでも言うように苦笑する。
「まあ、イシ婆のように慣れた人間もいるのだし、適材適所という言葉もあるのだが――リツとしてはできれば自らの手でなんとかしてあげたい。そういうことだね?」
「はい」
 ふむ、と旦那様は鼻を鳴らし、ほんの数秒だけ考えるように天井へ視線をやった。
「私は子供返りをしているからと言って、特別な対処をしようと考える必要はないと思う。リツはもしや、『正解の看病をしなければ』と考えているのではないか?」
「正解の看病、ですか?」
「ああ。こんな状態だからこうしなければいけない、こんな行動を取った時はこうすれば良い――こういった答えを、リツは求めていないか?」
 私は素直に頷く。旦那様の言う通り、私が求めているのは、はっきり言えば明確な行動基準だ。お屋敷の掃除の仕方や、お客様への接し方などのように――やり方や対処法がある程度明確な方が、私にとっては分かりやすいのだ。
「気持ちは分かる。私も杓子定規と揶揄された側の人間だからな。なんでも合理的に考えて、行動にも明確な基準を求めてしまう性分だ。それならば、『何々をしてほしい』と言われたことを素直にしてあげればいいのだ」
「しかし、彼は甘え下手なのでしょう? 自分がして欲しいことを要求するのも苦手なら、こちらから行動してあげなければ難しいのでは?」
「お前の考えも分かるが、それではあの子のためにはならない。あの子は人から手を差し伸べられる前に、自分から声を上げることを知った方がいいと私は考えている。まあ、世助を甘やかしいる張本人が言っても説得力に欠けるかもしれんがな」
 旦那様は水滴が垂れるティーカップに手を伸ばし、中身をくっと飲み干した。私も温くなった自分の紅茶をすべて飲み干す。
「お前が納得できるような答えになっているとは思わないが、世助からなにか言われるまでは見守ってやってくれ。それ以外は、彼に風邪を悪化させるような無理をさせないようにしてくれるだけでいい」
 旦那様はカップに入った紅茶を飲み干すと、右手側の台に置かれたソーサーへカップを置いて、車椅子の車輪に手を添えた。
「もう戻られるのですか」
「ああ。今日中に仕上げておきたい資料があってな」
 忙しいお方だ。それなのに、せっかくの休憩時間を部下の相談に費やすなんて、旦那様も随分とお人好しである。
「私が押しますわ。書斎まで向かえば良いのでしょう?」
「気にするな、お前はもう少しここで気持ちを落ち着けておけ」
 旦那様は器用に車輪を回して車椅子の向きを変えると、「あぁ、」と思い出したように付け足した。
「今のようにしてみるのはどうだ。リツ自身が今、私の車椅子を書斎まで押していこうとしたように。難しく考えずとも、人を想う気持ちがあるのなら、自ずと体は動くものだよ」
 旦那様は微笑みかけ、最後に「それこそが思いやりだ」と言い残して仕事に戻って行かれた。
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