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三章『花、盛る』

その六

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「んーおいし~い♪」
 リツは猫のぬいぐるみを抱えながら、実に美味そうにラムネをあおっていた。それに反して、おれは多分この上ないほどの仏頂面だ。
「どうしたの、いかにも不機嫌ですって顔して」
「別に」
 別に、リツはおれの女というわけではない。されど、好きな女に対して他の男が助平な目を向けているのを見るのは、気に入らないものである。リツが今まさに美味そうに飲んでいるラムネを渡した人物……射的屋のおやじの下心のことだ。「お姉ちゃんが可愛いからオマケ!」などと言ってだらしなく鼻の下を伸ばしていたが、憚らずに言うならば「ぶっ飛ばすぞ」と怒りが湧いた。いくらリツが美人だからって胸ばっか見やがって、リツはお前なんかがいやらしい目で見ていい存在じゃない、高嶺の花だ。なんて随分と手前勝手だし、おれもリツのことを下心満載で見ておきながらどの口で言っているんだという話である。我ながら醜い嫉妬心で呆れる。
「機嫌直しなさいよ。にゃーんにゃーん♪」
「…………」
 ……なんだ、そのおふざけは。ぬいぐるみの猫の手をぴこぴこ動かしながら鳴き真似までしてみせるなんて。こいつ、凛としたその顔でこんな子供っぽい真似もできたのか。大変良い。実にナイスだ。これが萌えというやつか。美人のお茶目がこんなに可愛いなんて初めて知った。
「そういえば、さっき飴を分けてくれるって言ってたわよね。今貰ってもいい?」
「ああ、いいよ。何味が残ってるかな――んっ?」
 缶を振って中身を出せど、出てくるのは白い飴玉ばかりで、それ以外の色は出てこない。そのまま白い飴玉を五、六粒取り出したところでからから鳴っていた缶が物言わなくなる。
「……あいつら果物味だけ全部取ったな! 中身が薄荷しかねえじゃねえか」
「あらま」
 やけに缶が軽いわけだ。数の制限はしていなかったが、本当に好きなものだけごっそり持っていくとは。子供は本当に遠慮がない。
「まあ、おれは良いけど。リツはどうするよ、自分で取ったキャラメルにしとくか?」
「んーん、薄荷がいいわ」
「薄荷克服したのか?」
「んー……まだ苦手だけど、食べてみたいって感じかしら。駄目?」
「いや、あんたがそれでいいならあげるよ」
 苦手なものを食べてみたい、なんて変わっているなと思いつつ、差し出されたリツの手に飴玉を一粒のせる。リツはそれを口に放り込むと、ぎゅっと眉根に皺を寄せて、一生懸命食べ始めた。……棚葉町に来た時も思ったが、なぜそこまで苦手な薄荷飴をわざわざ口にしたがるのだろうか。
「そんなに無理して食うもんでもないだろ」
「いいの。ちょっと涼しい感じがするし」
「まあ、それは確かにな」
 辛くても夏の夜の熱を冷ますにはちょうど良いのだろう。おれも一度手のひらに出した飴を缶にしまってから、残った一粒をひょいと口に放り込んだ。薄荷のひやりとした舌触りが、火照った体温をゆっくり下げていく。用事のなくなった飴入りの缶をひとまず懐にしまう。その時ふと、おれは袖にある物を入れっぱなしにしていたことを思い出し、左側の袖の中をまさぐった。
「あ、これ……」
 それは昼間に半ば衝動的に買った、牡丹の絵葉書だった。リツの瞳の色によく似た、鮮やかな紅の大輪。
 リツがずいとおれのほうへ前傾し、手元を覗き込んでくる。
「まあ、綺麗。買ってきたの?」
「ああ、昼間にたまたま見つけてな。なんか気に入って」
「ふうん。いいわね、牡丹。素敵な色だわ」
 リツも、本物と遜色ない見事な色彩に感心しているようだった。これを売った画家は去年の売れ残りと言っていたが、改めて見ると黄ばみなんかもほとんどなく、売れ残りとは思えないほど状態がいい。
「なんか、牡丹って世助っぽいかも」
「えぇ、おれ?」
「牡丹って、獅子にも喩えられるそうよ。戦っている時の世助ってそんな感じだもの。それに、とても縁起のいいお花だしね。お守りとしても良さそう」
 リツからそんなふうに思われていたとは、少し意外だ。しかし、獅子のような戦ぶり、豪快で力強いという印象があるという意味でとらえるなら悪くない。ひょっとしてリツからカッコイイと言われたのかも、などとうっかり自惚れてしまいそうになる。
「絵葉書もお土産にちょうどいいかもね。私も見てみたいわ。どこで買ったの?」
「確かもう一つ向こう側の通りを歩いたところだったと思うけど、まだ売ってるかは保証できねえぞ。昼間だけの出店だった可能性もあるし」
 リツを連れて小路を行き、再び別の通りへ出る。唯助や姉御によれば、昼間に並ぶ屋台は夜になると飯系以外ほとんど引き上げてしまうらしい。予想通り、今回も一部の古物商を除いて引き上げており、代わりにおにぎりや焼き鳥なんかの店が並んでいた。
「残念、昼間に見つけていれば行けたかもしれないのに」
「まぁ、そういうこともあるさ。夜は夜で昼間には売ってなかった品もあるから、また面白いものも見つかるかもしれないぞ」
「じゃあ、花火が上がるまでちょっと暇つぶししようかな」
 ここは後々、神輿が通る中央の道だ。先ほどいた通りよりも人が多くて蒸し暑い。うっかりすると、背丈の低いリツを見失ってしまいそうだ。
「リツ、おれの袖掴んでな。はぐれちまわないように」
 後ろを歩いていたリツに着物の袖を差し出すと、リツはおれの言葉がよく聞こえなかったのか、袖ではなく手を握ってきた。
「ッン゙!!」
「? 大丈夫?」
 いやいやいや手に意識を向けるな、おれ。いくらリツの手がすべすべもちもちで柔らかくたってここで動揺してぎゅうっと握り返してはいけない。おれの馬鹿力ではリツの骨を折ってしまうかもしれないし、さっきからひた隠しにしていた手汗がついてしまう。いや、汗はもうついてるか。けどしかし、はぐれないようにしなければいけない以上、このまま全く手を握らないわけにもいくまい。そっとだ、そっと握り返すんだ、おれ。煩悩を振り払え。紳士たれ、おれ。
「おい、そこのお姉さん! ちょっと待ちな」
「んおッ!?」
「私?」
 おれが話しかけられた訳でもないのに、突然聞こえたその声に自分の煩悩を咎められたような気がして、飛び上がりそうになる。
「その石、もっとよく見せてくれないかい?」
「石? このペンダントのこと?」
 リツも話しかけてきた商人の男も、挙動のおかしいおれのことなどそっちのけで会話を始める。
 商人は三十かそこらの、周りと比べれば随分若い男だった。商人はリツの首飾りの石を八方からじっくり眺めてから、こう言った。
「やっぱりだ、間違いない。あんたのそれ、『海神の鱗』だろう」
「『海神の鱗』?」
「『海竜珠かいりゅうしゅ』ともいうんだけど」
「『海竜珠』?」
 聞き慣れない名前を反芻し、首を傾げるおれとリツ。
 すると、男の隣で店を広げていた別の商人も、会話に入り込んできた。
「『海神の鱗』っていやぁ、アレだろ? 大陽本でも南方の島でしか採れないっていう幻の鉱石じゃねえか。あー、何てところだったかなぁ」
食島しきしまだよ。ほら、何年か前に噴火があっただろ。島の片側は溶岩に呑まれて、今は人が住めねえんだ」
 リツとおれは顔を見合わせる。暗に、これは詳細に話を聞くべきではないのか、と目線で確認しあったのだ。
「あんた、その島について何か知ってるのか?」
「知ってるも何も、俺はその食島にある東の村の出身だ。お兄ちゃんたち、気になるのか?」
「ええ。どんな些細なことでも構わないわ。貴方が知っていることを教えてほしいの」
「そうか……人づてに聞いた話だから、あんまりアテにはならないぞ」
 商人は前置きをした上で、その食島について語り始める。
「十年くらい前……お兄ちゃんの方はまだ小さかった頃の話かもな。食島っていう大陽本の南にある島で大きな噴火があって。それまで食島には山を隔てて西側と東側に村があったが、西側の村が溶岩流に丸ごと呑まれちまったんだ。溶岩流は海まで到達して、島の先端に建っていた大きな神社まで巻き込んで、今じゃその神社の大鳥居が半分見えるだけになってる」
 そんなに大規模な噴火なら、西側に住んでいた村人は逃げる間もなく溶岩流に呑まれてしまったのだろう。気の毒な話だ――と、おれは一度思った。
「これはあくまで噂なんだが、その大きな神社にいた神主ってのは、不思議な力を持っていたらしくてな。噴火が起きる前の日に、村人に急いで東側に避難するよう命じたらしいんだ。おかげで村人の多くは生き残ることができたらしい」
「神主が噴火の予兆を読み取ったってことか?」
 商人の男はそれに対し、かぶりを振る。
「それが妙なことに、そん時はなぁんにも予兆がなかったんだとよ。いつも通りの穏やかな山だ。だから、避難を渋った村人も少なくなかったんだとか」
「でも、実際に噴火は起きた。……じゃあ、神主さんは、まさか予知能力者だったってこと?」
「そういうこった。もういっぺん言うが、神主についてはあくまで噂だぞ。実際に見たことがないから、眉唾なもんでな」
 リツは首から提げた石に視線を落とす。水底を思わせる輝きは橙色の提灯に照らされて、夕日を映す海のようにも見えた。
 リツやリツの姉もまた、その島に関わりがあるのだろうか――残念ながら、話を聞いて何かを思い出せたというわけでもないようだが、リツは石を見つめて感慨に浸っているようだった。
「なあ、ちょっとおかしくねえか。噴火を逃れるために避難するなら、海から舟で逃げるってこともできたんじゃないのか? 噴火が起きるってのに、なんでその神主は山を越えて逃げるように指示したんだ」
「あ!」
「そう、それなんだよ」
 おれの疑問に、よくぞ聞いてくれましたとばかりに商人が指をさす。
「食島の西村は海沿いだ。普通なら山を越えるよりも海路を使った方がすぐに移動できるはずなんだ。けど、生き残りの話によれば、神主は海路からは絶対に行くなと言ったらしい」
「なんで海路を使っちゃいけなかったんだ?」
「そこまでは。ただ、神主はものすごい剣幕だったらしい。海から逃げちゃならない理由があったのは間違いないが、神主の行方も噴火以降は不明だから、理由は結局分からずじまいさ」
 神主が言い当てた噴火の未来、逃げやすいはずの海路は使うなという警告――不可解も甚だしい話だ。まるで虫に食い荒らされた俗話の本を読んでいる気分だった。
 しかし、リツの所持している石が食島で採れた物だと言うのなら、リツの出身は食島であるという可能性も出てくる。
「あぁ、それともう一つ。その神主には二人の子供がいたそうで、そっちはもしかしたら生き残ってるんじゃないかって話だ」
「! それは姉妹か?」
「いや、男女だ。どっちが上かまでは分からねえが……」
「……そうか」
 神主の子であれば、高価な海竜珠を所持しているという事実にも説得力があったのだが、男女となれば、姉がいるリツとは符合しない。
「…………神主。噴火。大鳥居」
 それでもおれは、その食島がまったくの無関係とは思えなかった。見えない糸で繋がっているような、言い表せない何かを感じた気がした。
 神主の子供の性別を聞いて、リツには当てはまらないとわかったのにも関わらず――その繋がりを、なぜか無視する気にはなれなかったのだ。
 おれが唸って考え込んでいると、不意にどおんと大きな音が背後の空から響き渡る。
「あ、もう花火が上がってる!」
 振り返った視界の隅に、打ち上げられた花火の金粉が映りこむ。リツが指さした先の空には、薄い煙と星々が瞬くような余韻があった。
 再び打ち上がった大輪の菊が開くと、照らされたリツの横顔がとびきりの笑顔を浮かべた。飾り気のないその笑顔は、おれが見てきたリツの顔の中で一番可愛かった。
「花火って、こんなに綺麗だったのね」
「あんた、花火も見たことなかったのか?」
「本で読んだことはあるけど、実際に見たのは初めてよ」
 ……何度か言った気がするが、彼女は一体、これまでどんな人生を送ってきたのだろうか。祭に行ったこともなければ、花火も見たことがないなんて。おれよりも、ひょっとしたら姉御よりも年上かもしれないリツが幼い少女のように目を輝かせているのは、なんとも不思議な心持ちだ。
 やむを得なかったとはいえ、屋敷での生活はリツにとって窮屈でたまらなかったのだろう。それまで見たことのなかった、弾けるようなリツの笑顔。多弁ぶり。今この時まで知らなかった、リツの無邪気な一面。
 彼女の心を躍らせてやまない花火を、おれも改めて、じっくりと眺めてみる。
 ふっと地上から出発した火花が、空を目指して駆け上る。昇りきったところでパッと花が開いて、少し遅れてどん、という大きな音。空に咲いた花は、いつもの夜空の黒をひときわ鮮やかに彩りながら、きらきらと消えていった。
「こんなに楽しい気持ち、ずっと忘れていたような気がする」
 ――このまま、ずっと見ていられたらいいのに。
 リツがぽつりと零した言葉と同じことを、おれは考えていた。


 三章『花、盛る』・了
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