貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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序章

その三

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「症状や所見からして逆向性健忘――即ち、記憶喪失でほぼ間違いないかと思います」
リツを検査した後、秋声先生はそう告げた。おれの悪い予感は、どうやら当たってしまったらしい。
「記憶喪失――か。彼女は傷だらけだったが、原因はその傷なのか?」
書斎の椅子に腰をかけた蒼樹郎そうじゅろうさんが尋ねる。それに対して渋い顔をする先生。
「頭部への目立った外傷は認められないので、怪我が原因とは考えにくいですね。現時点では薬物や禁書の影響も否定できませんが、あの状況からすると精神的外傷の可能性も考えられます」
「なるほど」
蒼樹郎さんも、先生と同じように眉間にしわを寄せる。なんというか、おれの身の回りはこんな奴ばかりだ。一筋縄ではいかないような、とにかく面倒な事情を抱えた人間が集まる。かく言うおれもそうなんだけど。
「なあ、先生。リツは本当に何も覚えてねぇのか?」
「ええ。身近な物の名前や地名、計算等は問題ありませんでしたが、彼女自身のことについて答えられたのは名前のみ。生年月日や出身地、家族構成や幼少期についても一切覚えていないようです。純粋な解離性健忘だとすれば、ここまで多くの記憶が失われている例は稀ですね」
先生の診断を待つ間、おれは図書館に行って調べてきたけれど、解離性健忘は特定の期間や出来事だけが思い出せなくなる例が多いらしい。例えば虐待や暴行、戦争なんかを体験した期間について忘れたり。関連する部分の記憶だけが欠けて虫食い状態になる感じと言えばいいのか。
それに対して、リツのように名前以外のすべての記憶を失う症例はごく少数なのだ。
「このような症例に多く当てはまるのは、極端なストレスがかかっていることです。過酷な戦闘を経験したり、性的暴行を受けたり――」
「……どちらもありえない話ではないな」
リツの全身に走っていた生傷が脳裏を過ぎる。幸運なことに、リツを保護したその日は先生が藤京から来る予定で、先生がここに着くまで応急処置をしていたのは見習いのおれだ。リツが負った怪我がどれだけ凄惨だったのかを、おれはこの目で見ている。
「怒っていますか、世助君」
「ああ。女相手にあそこまでやる奴の気が知れねえよ」
あの傷のでき方はどう見ても人為的につけられたとしか思えない。事故で負うようなものじゃなかった。女の子の柔らかい皮膚が刃物のようなもので無惨に切り裂かれているのを見て、胸がじりじりと焼かれるようだったのを覚えている。きっと、彼女は命からがら逃げてきたんだろう。もしあの朝、発見できていなかったらと思うとぞっとする。
「問題は今後どうするかだな。まずはあの娘の治療が先決だ」
「ええ、そうですね。僕としては、より正確な診断のためにも入院をおすすめしたいところなのですが――」
先生が言葉尻を濁す。設備が整っていて医者や看護婦も常にいる病院のほうが安心だとは、おれも思う。ただし、それは怪我や症状のことに限った話だ。
おれが遭遇した発見当時の状況、怪我の状態、先生の見解からして、リツは何者かに襲われていた可能性が高いのだ。
「この周辺で入院できる病院は限定されている。あの娘に深手を負わせた相手がこの地まで追ってきていた場合――」
「入院先の病院を特定されて襲われることもありえる、か」
「ええ」
やはり、その点は全員が気になっていたらしい。となれば、病院に限らず、リツを人目のつく場所へ移すのは危険だろう。『田舎の噂は冬の山火事よりもよく広がる』、と蒼樹郎さんは言っていた。その上、他所から来た人間はそれだけで目立つのだ。周辺の住人たちにリツの存在が知られれば、その瞬間からあっという間に噂が広がってしまう。
蒼樹郎さんは、おれが密かに期待していた通りの答えを即座に言ってくれた。
「ならば致し方ない。当分、彼女はうちに匿おう。空き部屋も人手もあることだしな」
彼自身、この地で正体を隠しながら暮らしている身だ。ここは彼の生まれ故郷であるにもかかわらず、人々は椿井蒼樹郎の素性を全く知らない。集落の外れにあるこの椿井家の屋敷は、それくらい人を隠すのに最適な場所なのだ。
「でしたら万一に備えて、信頼できる医師を手配しておきましょう。僕も頻繁にここには来られませんからね」
「助かるよ、秋声殿。他の使用人たちにも、リツの様子に気を配るよう私から伝えておこう」
「世助くんは彼女の状態を毎日記録して残しておくこと。相手は女性ですから、身の回りのお世話は女中さんにも協力してもらってください。できますね?」
「分かった」
――そんないきさつで、リツは当面の間、椿井家で匿うことになった。


今から語るのは、リツとおれが経験した譚――彼女とおれの、戦いの記録だ。
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