大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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三章『私の神様』

(三)

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「すずちゃん、だいじょうぶ?」「おやかたさま、おこらないない?」

 肩に乗った鬼火たちが、すずを心配そうに見上げている。夕日の朱色が廊下を染める中、すずは早鳴る鼓動を押さえつけるように、いつもより深めの呼吸をした。

「大丈夫だよ。ちっとお話してみるだけだ。ここまで連れてきてくれてありがとうな」

 鬼火たちの頭を指で撫で、仲間のところへ戻るように促す。鬼火たちはすずの肩からそっと離れると、何度か振り返りながら去っていった。
 彼らの囁き声が聞こえなくなったところで、すずは目の前にある襖の向こうへ、やかましくならない程度に呼びかけた。

「大神様。起きておられますか?」

 すると、少し間を置いて、大神のくぐもった返事が聞こえてくる。

「おう、すずか。起きてるよ」

 起き抜けのような、気だるそうな声だ。けれど、声の雰囲気は思っていたより明るい。病人のような酷い状態を想像していたすずは、少しだけ安堵した。

「悪いな、襖越しで会話させて。なにか用か?」
「はい。貴方にお願いがあって来ました」
「お願い?」

 すずはその場に正座する。ひやりと固い床板の感触が、緩みかけた緊張の糸を再びピンと張り直す。
 
「大神様、どうかあの村から手を引いてくれませんか」

 喉が震えるのこらえながら話したせいか、すず自身も驚くほど声が低くなった。
 襖の向こうの空気がぴたっと静止したのを、すずは感じ取る。

「どうしたんだ、すず? お前が村を助けてくれと言ったんじゃないか」
「はい、確かに言いました。けれど、大神様にこんなにも大きな負担をかけてしまうなんて、想像していなかったのです。大神様の事情を知らなかったとはいえ、私は貴方に無茶なお願いをしてしまいました」
「俺の事情? ……お前、まさか」
「申し訳ありません。私が無理を言って、薊先生から病のことを聞き出してしまいました」

 本当はすずの心情を心配した薊が教えてくれたのだが、そんなことを言っては薊が咎められてしまう。気を遣って行動してくれた彼に、大神のお叱りが行ってしまうことは、すずとしても避けたかった。
 すずは襖の向こうの大神に向かって、深々と頭を下げながら続ける。

「自分の故郷を悪し様に言うなどとても褒められた行為ではありませんが、あえて言わせてください。あの村にいたのは、ひどい人たちばかりでした。私はあそこで、悲しい思いをたくさんしてきたのです」

 すずは自分が受けてきた仕打ちのことを、あえて話さないようにしていた。他人の振る舞いをわざわざ言いふらすなど、すずの流儀ではない。あの村人たちが善なのか、それとも悪なのかは、大神自身の目で判断することだ。
 それに、つまらない身の上話をおおっぴらに語るなど、同情してくれと叫んでいるようなものである。そんな浅ましい行いなどしたくはない。
 だから今、告げ口じみたことをしている自分が、ひどく卑しい人間のように思えてならなかった。

「お願いです。あの村のために、これ以上苦しまないでください。あんな場所より、大神様のほうが、おらにとってはずっと大事なんです」
 
 村の誰もが『要らない』と言って見捨てたすずを、大神は見捨てなかった。その手で頭を撫でて、救いあげてくれた。優しくて慈悲深い大神が、自分を虐めた酷い村のために苦しんでいる光景など、見ていられないのだ。

「ごめん。それは、聞いてあげられない」

 しかし、大神の返答はすずが欲したものとは真逆のものだった。
 すずは下げていた頭を上げ、さらに力のこもった声で訴える。

「どうしてですか? このまま神力を費やし続ければ、貴方のお体が危ないんでしょう?」
「だとしても、俺は我が身を犠牲にしなきゃならない立場なんだよ。神様だからな」
「神様、だから……?」
「神様ってのは受け皿なんだよ。生きとし生けるものたちがすがるための、最後のよりどころだ」

 すずはハッと気づく。
 そうだ、村にいたときの自分だって、毎日のように祈っていたではないか。生きることに希望が持てず、息絶えるその日を待ち望みながら――次こそは明るい世界を生きられるようにと、神にすがっていたではないか。

「神様ってのは、民の祈りを受け止めなきゃならねえ。民の一心の祈りに、貴賤なんてものはねえんだよ」

 たとえ、民がどんなに愚かだろうと、逆に聡かろうと、すべての祈りは平等だ。生きるために生まれている存在は、みな生きたいに決まっているのだ。

「民の祈りを聞き届け、土地を守ることは、守護神がなすべき役目だ。それを放棄することはできねえ」
「でも……」

 起き上がれないほどつらい状態なのに、それでも成し遂げなければならないものなのか?
 どうしても、逃げてはいけないのか?
 役目とは、命をかけなければならないほど大事なものなのか?
 すずの脳裏に、たくさんの疑問が浮かぶ。けれど、大神にどんな言葉をかければいいのかは、皆目分からなかった。
 すずが口を開けては閉じてと繰り返している間に、大神は言う。

「過去にはな、民の祈りを無視して神力を送るのをやめて、自分の領地を壊滅させた馬鹿野郎もいる。『身勝手で愚かな民に愛想が尽きた』とか言っていたが、あの野郎が私情で役目を投げ出したせいで、数千の民が犠牲になったんだ」
「数、千……」

 怒りが滲んだ、大神の声。彼にとって、それは許しがたい出来事だったのだろう。
 お館様と慕われている彼らしい怒り方だ、とすずは悲しくなる。

「ごめんな、すず。供物や生贄を受け取っている以上、あの村からの祈りを無視することはできない。俺は、この北国島の守護神だから」
「っ!」

 祭りに出かけた時に、大神は言っていた。『この島を守れることを誇りに思う』と。守護神であるということは、重荷であると同時に、彼の誇りでもあるのだ。
 自分が苦しいからと言って、相手が気に入らないからと言って、簡単に投げ出していいものではない。彼がその身に背負っているのは、幾万もの民の命運だ。

(そうか……薊先生の言っていた大神様の『立場』っていうのは、そういうことだったんだ)

 病を隠さなければならなかったのも、屋敷のあやかしたちのためだけではない。隠世と現世、両方の民のため――彼が背負った幾多の存在のためだった。民に不安を与えないよう、明るく振る舞っていなければならなかった。
 すずは膝の上に置いていた拳を、ぎゅっと握りしめる。もうなにを訴えても無駄だと、悟ってしまった。……だから。

「ならば、今すぐ私を生贄に……」
 
 と、腹を決めて言おうとした。が、その前に。

「ぎゃあああああああああッ!」

 と、けたたましい悲鳴が下の階から響いてきた。

「なんだあっ?」

 あまりの大音量に、さすがの大神も驚いたようだ。すずは床にぴったりと耳をつけ、様子をうかがう。
 女性の金切り声と、子供たちの甲高い声。時折、大人の怒号。そして、廊下を慌ただしく駆け回る音。ドスンバタンと重みのある足音なので、明らかに子供たちがふざけている感じではない。
 さらに耳を澄ませると、

「近寄らないでよ、化け物!」

 という、罵るような台詞が聞こえた。
 あやかしたちが仲間に対して『化け物』という罵り文句を使うことはありえない。その時点で、これは人間の吐いた台詞だとすずは気づいた。

「お銀から人間を保護したと報告を受けていたが……もしかして、そいつの声か?」
「そうかもしれません」

 二人の予想が正しければ、この騒ぎは『助けた人間の女性が見慣れないあやかしを見て動転してしまった』……といったところだろう。
 人間にとって、あやかしたちの見た目はとても恐ろしいものだ。対処しようにも、彼らにはどうしようもないのだろう。

「ウ~……キンキンうるさくてかなわねえ」
「私が出て、話を伺ってきます。大神様はそのまま休んでいてください」

 このままでは、大神がゆっくり静養することもできない。人間である自分が収めるしかないと、すずは声のする方へ向かった。


 *


「すず姉ちゃん、助けてぇ!」
「怖いのが来るよぉ!」

 下の階へ降りていったすずのもとへ、あやかしの子供たちが助けを求めてやってくる。

「なしたの、みんな? ばか騒がしくしてるみたいだろも……」

 すずは走ってきた子供たちを抱きとめ、背中や頭をさすりながら尋ねる。よほど恐ろしい思いをしたのか、子供たちの体は可哀想なほど震えていた。

「やばいんだよ、あの人間! 目が覚めたみたいだったから、大丈夫かって声かけたら、いきなり『ぎゃー』なんて叫んで……」
「そしたら、いきなりおれたちをとうとしてきたんだ! 大人たちが押さえ込もうとしたけど、暴れて手がつけられなくて……」

 子供たちが涙声になりながら説明している後ろから、

「なんなのよ、ここ! どうなってるの!? 夢なら覚めてよお!!」

 と、錯乱した女性の叫び声と、バタバタ走り回るような足音が近づいてくる。それを聞いた子供たちが「いやー!」「来たあっ!」と怯えだしたので、すずは

「みんな、落ち着け。ほら、部屋の奥に隠れな。おらが守ってやるっけね」

 と落ち着きをはらった声で言う。子供たちは急いで部屋の奥へ走り、押し入れの中に身を隠した。ぱたっと押し入れの戸が閉まった直後に、叫び声の主は現れた。

「は……?」

 それまで叫んでいた女は、すずの目の前までやってきた途端、絶句した。
 同時にすずも――女の声をたったの一音聞いた瞬間、ひゅっ、と息を飲んだ。

「う、そ」

 ありえない。ありえない。一番あり得ない。
 なんで、がここにいるのだ。招かれざる客だとしても、どうしてよりにもよって、この人なのだ。

「なんで、あんたがここにいるのよ」

 冷や汗が浮かぶ。手がカタカタ震える。
 もし、すずの目が見えていれば。あるいは、この女があの時、ひと言でも声を発してさえいれば。こんな状況は生まれなかっただろう。

「あね、さ」

 早朝、お銀と自分が助けた人間の女性は、すずを生贄にした張本人――実の姉・ヒノだったのだ!

(迂闊だった……! まさか、あねさまで隠世に来ちまうなんて……)

 すずはこの時、人生で一二を争うほど、自分の盲目を恨んだ。ひと目でヒノだと気づいていれば、決して屋敷に連れて帰ろうなんて言わなかったのに。
 すずは愚かにも、安全地帯へわざわざ鬼を連れ込んでしまったのだ。

「ああ、そういうこと……? 私、とうとう死んじゃったってこと? それで、化け物だらけの世界に来ちゃって、あんたもいて……」

 ヒノは震える声で、うわごとのように呟いている。

「どうしてよ、どうしてよ? 私、そんなに悪いことしたの? いやよ、冗談じゃない! 理不尽よ、こんなの! 出して、ここから出してよお!!」

 髪を振り乱し、泣き叫ぶヒノ。この調子では、他のあやかしたちが止めに入ったところで、さらなる混乱を招くだけだろう。子供たちもすっかり怯えている。
 自分が場を収めるしかあるまい――すずは腹を決めて、ヒノに声をかける。

「落ち着いてください、あねさ。あねさは死んでいません」
「は……なに? あんた、まさか、幽霊になってまで私に嫌がらせしようっての……?」
「誤解です。それに、おらだってちゃんと生きてます。ここは、隠世と呼ばれる神様のいらっしゃる世界なんです」
「かくりよ……?」

 すずは相手をなるべく刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら話す。しかし、それでもヒノの混乱は収まらない。妹の言葉を受け止める気が、この女にははなからないのだ。

「あ、はは……私、おかしくなっちゃったんだわ。ここが神様の世界なわけ……」
「信じられない気持ちは分かりますが、現実を見てください」
「嘘よ。嘘、嘘、嘘。うそうそうそうそうそ!」

 元から癇癪持ちのヒノではあるが、ここまで錯乱した彼女を前にしたのはすずも初めてだった。ヒノはもう、元の美しい顔立ちを失っていた。桜のような優しい笑顔などすっかりたち消えた、般若の面のような顔ですずを睨みつけ、噛みつくように叫んだ。

「なんで! あんたがそんな小綺麗な格好してるのよ! みすぼらしい忌み子の分際で! あんたなんかとっとと神様に食われて死んでるはずでしょ!? なんで巫女装束なんて着て、のほほんと暮らしているのよ!」

 すずはここで、ある違和感に気づく。
 姉から漂ってくるにおいが、村にいた時と変化していた。なんというか、獣くさいのだ。村一番の有力者の家に嫁いだはずの彼女から、どうしてこんなひどいにおいがするのだろう。
 しかし、今はそれを詮索している場合ではない。すずは冷静に、事実のみを伝える。

「おらは今、大神様にお仕えしています。みすぼらしい格好では失礼になりますから、身綺麗にしているのです」
「お仕え? あんたみたいな役立たずが、どうやってお仕えするっていうのよ。夜鷹よだかみたいに慰め役でもしてるの?」
「いいえ。針仕事やお洗濯程度ですが、きちんとしたお仕事を与えていただいています。おらは助けを借りながら、それを精一杯やらしてもらっているだけです」

 なによ、それ……と、ヒノが歯ぎしりをしながら呟く。
 根性悪の姉が考えることだ──きっと、奴隷のような扱いを受けていればいいと期待したのだろう。けれど、期待とは裏腹に、すずは村にいた時よりも遥かに満ち足りた暮らしをしている。それに対して、ヒノは怒りを隠せないのだ。
 
「それより、あねさ。なして貴方がここまで来られたのですか。なしてあんげとこをさまよっていたのですか」
「ッ!!」

 ヒノの声が、小さく震えている。
 何か文句を言おうとして、上手く言えなくて、苛立って叫び出す寸前の時に出していた声だ。
 すずが予想したとおり、ヒノは

「うるさいッ! あんたには関係ないでしょ!!」

 と、吠えるように叫んだ。

(だめだ、ろくな会話にならない)

 分かりきっていたこととはいえ、建設的な会話もできない姉に、すずもどうしていいやら分からなくなってくる。空いた口が塞がらないとは、まさにこのことを言うのだ。

(まあ……反応を見るに、嫁ぎ先でなにかしちまったんろうな)

 本性をいっとき隠すことはできたとしても、隠し続けるには限界があるものだ。要領のいいヒノといえども、いつかはボロが出て見限られる日が来るだろうと、すずは思っていた。

「納得いかないわ……あんた、大神に仕えているっていうなら、今すぐ私を大神に会わせなさい!」
「!? 大神様を呼びつけにするな! 失礼だ!」

 いくら不遜な性格とはいえ、大神に対してまで牙を剥こうとしている姉に、すずは驚愕した。
 自分がどれだけ罰当たりなことをしているのか分かっているのか、とすずは怒ろうとするが、それよりも先にヒノがとんでもないことを叫んだ。

「はっ! あんな大嘘つき、様なんてつけるほうがどうかしてるわ」
「ッ! 今の言葉を取り消せ! いくらあねさでもそんげ態度は許されないぞ!」
「だって! あんたを生贄に差し出せば、幸せな暮らしを約束するって、大神が言ったのよ!」
「……は?」

 すずの頭が、一瞬で真っ白になった。
 聞き違いだろうか、それとも姉の出まかせか──姉の放った言葉の意味が、上手く飲み込めない。混乱するすずに畳みかけるように、ヒノは叫ぶ。

「なのに、どうして! 私は村を追い出されたのよ! 大神は私を騙したに違いない。私にタダ働きさせて、自分の目的が達成された瞬間に手を切ったのよ!」
「……っ、大神様が、そんげことするもんか! てんぽこくんでねえ!」

 大神はすずに幸せをくれた、みんなに慕われる優しい神様だ。自分の身が危うくなっても、すずを生贄にしたくないと口にした彼が、そんなことをするはずがない。姉の態度に腹が立って、すずはつい声を大きくしてしまう。
 すると、ヒノはなにかに勘づいたように「ああ、そういうこと?」と言い、にぃぃっと笑みを浮かべる。やつれていることもあって、以前よりも内面の邪悪さが際立っていた。

「あはは、あんたも大神に騙されてるのね。優しくしてもらって、たっぷり可愛がってもらって、いい気になってるのね。可哀想だこと」

 それまで平然と受け答えしていたすずが、大神のことをけなした途端、怒り出したのが面白かったのだろう。ヒノは意地悪く笑いながら、さらに弄ぶようにすずを煽った。

「あんたは大神様に生贄にされる運命なのよ。生贄って餌のことよ。不幸だったあんたに幸せを味わわせて、自分から離れないようにしてるの。そうすれば、いつでもあんたを食べられるもの。非常食みたいなもんよ。まあ、食べられるにしても、最後まで幸せならいいのかしらね? あはは!」

 滑稽ねえ、と笑い飛ばすヒノ。ぐっ、と奥歯をかみしめるすず。しかし、すずは姉の企みどおりに言い返すほど、短絡的ではなかった。
 姉の挑発など、とうに慣れた――すぐに冷静さを取り戻したすずは、乱れかけた呼吸を整えると、静かに、ゆっくりと囁くように切り返した。

「……ああ、そうだ。おらは生贄だ。きっと、この世で一番幸せな生贄だ。誰にも可愛がってもらえなくなった挙げ句、ただ追放されたおめえとは違ってな」
「なっ……!?」

 ヒノは顔を真っ赤にしてたじろいだ。
 幼い頃の祖母の教えによれば、神への生贄にふさわしいとされるのは、純朴で清らかな心を持った娘だ。しかし、悪事が露見したヒノは、お世辞にも清らかとは言い難い。
 村の人々から疎まれて追い払われた、という点は同じだとしても――『生贄として捧げられたすず』と、『生贄にすらされずに放り出されたヒノ』では、決定的な差がある。

「たとえ騙されてたとしても、お慕いしている方にご恩を返せるなら、おらはそれでいい。笑いたきゃ好きに笑え。おらには関係ねえことだ」

 すずはこれまでに何度も笑われて、コケにされてきた。あざ笑われて、今更激怒するほうが馬鹿馬鹿しい。
 すずはどっしりと太い木の幹のように構えた。伏せられたまぶたの奥にあるのは、嫌味のない、毅然とした眼差しだ。

「ッッ……痣つきが、生意気言ってんじゃ――」

 言葉に詰まったヒノの手が、すずの髪を鷲掴みにした、その時だった。
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