大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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三章『私の神様』

(一)

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「いっぱい買っちゃったわねえ。帰ったらすぐにたけのこの下処理をしないと」

 太陽が顔を出し、雲が金色に輝いている時分──食材入りのかごを背負いながら、お銀は市場の通りを歩いていた。彼女の袖につかまりながら歩いているのは、大きな風呂敷包みを片手に抱えたすずだ。
 今朝の鉈切山は、雲ひとつない快晴だ。山向こうから昇ってきた太陽が残雪を照らしていて、実に爽やかな景色だ。辺りは新鮮な朝の空気と、あやかしの民たちの賑わいで満たされている。

「二人で作ったふき味噌も、そろそろいい塩梅かしら。おすずちゃん、どうやって食べたい?」
「そうですねえ。やっぱり、お米と一緒に食べたいです。おにぎりにすると、すごく美味しくて」

 村にいた時は、祖母が毎年ふき味噌を仕込んでくれていて、すずはそれを楽しみにしていたものだ。あまじょっぱい味噌を炊きたての玄米と一緒に食べると、ほっぺたが落ちるほど美味しかったのをしみじみ思い出す。

「いいわねえ、おにぎり! それならお外でも食べられるものね。鬼火ちゃんたちは、どうやって食べるのが好き?」

 お銀はさらに、すずの肩に乗っていた鬼火たちにも尋ねる。
 同じような声と姿をしている鬼火たちだが、彼らにも個性はしっかりあるようで、

「あぶらげとたべる~!」「おとーふがいい~!」「あえもの、すきすき~」

 と、好きな食べ方を思い思いに主張していた。
 みんなで食べ物の話をしていると、美味しそうでうっかりお腹が鳴ってしまいそうだ。

「おすずちゃんもしっかりご飯が食べられるようになったわね。お銀さん、安心したわ」
「お銀さんたちの作ってくれるご飯が美味しいからですよ。美味しいご飯がいっぺこと食べられるようになって、私も嬉しいです」
「まあまあ! おすずちゃんたら、褒め上手だわぁ~」

 お世辞などではなく、すずは本当にそう思っていた。
 すずは最近、針仕事や毛づくろいなどに加え、鬼火たちの補助つきで布団運びや洗濯などもさせてもらえるようになった。
 活発に動き回るようになれば、食欲も湧くようになる。体を動かし、しっかり食べて、温かい寝床で眠って……と過ごしているうちに、すずはいつの間にかこんなにも元気になっていたのだった。
 ここまで回復させてくれた大神屋敷のあやかしたちに、すずは頭が下がる思いだった。
 ……だというのに。

「大神様のお体は、大丈夫なのでしょうか……」

 すずが万全に回復したのとは反対に、大神は三日前から体調を崩しており、自室に籠もりきりだった。彼の看病をしている薊いわく、大神は体がだるすぎるあまり、寝床から起き上がれない状態だというのだ。

「大好きな毛づくろいもできないなんて、よほどおつらいのでしょうか……」
「きっと大丈夫よ、薊先生がついているんですもの。私たちは私たちにできることをしましょ」

 そのためにここへ来たんでしょう? と、お銀はすずの背中をさする。お銀の冷たい手はなぜか心地よくて、丸くなりがちだったすずの背筋もしゃんと伸びていく。肩に乗っていた鬼火たちも、お銀の真似をしてすずの肩をさすり始めた。

「そう、ですね。毛づくろいができないのであれば、せめて精のつくお料理を作ってさしあげなければ」

 下を向きがちだった顔を前向きに戻して、すずはふん! と鼻息を鳴らす。
 大神がつらい思いをしている今、元気な自分までしょげてどうするのだ。こんなときこそ、大神の助けになることで恩を返さなければならないのに。

「そうそう、その意気よ。おすずちゃんが頑張って作ったお料理なら、お館様もきっと喜んでくださるわ」

 お銀から励まされて、すずは自分を叱咤するように、両側の頬をぺちぺち叩き、気合いを入れ直す。

「せっかくだし、お夕飯はたけのこを使いましょうか。醤油に漬けておいた山菜もあるから、炊き込みご飯なんてどうかしら」
「わあ、美味しそうですねえ」

 お銀の作るご飯があるのなら、すずはいくらでも頑張れそうな気がしてくる。今夜の炊き込みご飯を美味しく食べるためにも、より一層頑張らなければ。

「むむっ! あやしいにおい!」

 すずがやる気を出していると、不意に、彼女の右肩に乗っていた一体の鬼火が何かに反応する。
 しかし、左肩に乗っていた二体の鬼火は分からないようで、ちょこんと首を傾げていた。

「なあに、なあに?」「においってなあに?」「にんげんのにおい! まよいびと、いるよ!」

 人間のにおいと聞き、すずとお銀は「ええ!?」と揃って驚きの声を上げる。

「でも、人間は隠世に入ってこらんねえて、大神様が前に言ってたような……」
「ええ。神様や高位のあやかしに導かれたのならともかく、人間が一人で勝手に迷い込むなんてありえないわ」

 しかし、本当に人間がいるのなら、放っておくわけにもいかない。二人は屋敷の関係者として、状況を報告する必要がある。
 それに、人間が隠世のあやかしたちを見れば、化け物がいると驚いてしまうだろう。下手をすれば大騒ぎにもなりかねない。

「あっち、いる! ずっと、おなじとこ!」

 と、しきりに急かしてくる鬼火に道案内をさせ、二人は迷い込んだ人間のいる場所へと向かった。


「ねえ、貴方! 大丈夫?」

 大通りから逸れた路地裏に入ったところで、お銀も人間を見つけたらしい。一気に駆け出した彼女の気配を、すずも必死に追う。

「おんなのひとだ」「おめめ、とじてる」「おかお、まっしろ」

 鬼火たちの反応から察するに、迷い込んだ人間は女性のようだ。目を閉じていて、真っ白な顔ということは、まさか具合を悪くしているのだろうか。
 女性を助け起こしたお銀が、額に手をあてがう。

「……大変! この人、体が冷え切っているわ。早く先生に診せないと」

 お銀は持っていた風呂敷や手ぬぐいなど、ありったけの布をかごから取り出して、女性の体をくるみ始める。
 どうやら、事態は一刻を争うようだ。すずも状況を素早く汲み取ると、肩に乗っていた鬼火たちに指示を出した。

「鬼火さんたち、この人を温めてあげて。手当が終わったら、早くお屋敷に帰ろう!」



 *


 一方、大神屋敷の最上階、大神の間にて。

「お館様、おはようございます。入りますよ」

 控えめな声かけの後、寝室に入ってきたのは、屋敷の医師を務める薊だった。
 獣姿で寝床に寝そべっていた大神は、のっそりと寝返りを打ちながら返事をする。

「あざみぃ……体がだるぅい……」

 鉈切山の残雪が朱色の朝日に照らされ、屋敷は内側まで澄み渡るような空気に満たされている。
 清々しい朝焼けの中、あやかしたちはそろそろと活動し始めているというのに、大神は寝床から起き上がれずにいた。
 毛皮の毛布にくるまり、力なく畳に落ちている様は、不運にも浜辺に打ち上げられてしまった悲しいナマコのようだ。

「その様子では、今日も動けそうにありませんね」
「ウ~……今日も面会謝絶かなあ……」

 今日は子供たちと雪遊びをする約束をしていたのになあ……と、大神は口惜しそうにぼやく。
 ここ数日、大神はずっと不調続きだった。
 全身の可動部に重しをつけられたような、酷い倦怠感。背筋を行ったり来たりする、悪寒と高熱。ひっきりなしに内臓を揺さぶられているような吐き気。その他諸々の症状が、彼の体を絶え間なく襲っている。

「念のため、蛇神様から神薬しんやくを送っていただいていたのですが、お飲みになりますか?」
「ああ、頼む……」

 薊は持っていたお盆を大神の枕元に置くと、テキパキと薬の準備を始める。
 薬包紙の中身を湯飲みにあけ、ほどよいところまで温めた白湯を注いだところで──薊は「う」と小さくうめきながら、口と鼻を押さえた。
 独特のにおいが部屋中に充満してきた頃、大神は年寄りのようにしゃがれた声を出しながら、やっとこさと上体を起こす。
 薊に差し出された薬湯の入った湯飲みを受け取り、立ち上る湯気をひゅっと吸い込んだところで、大神はあからさまに顔をしかめた。

「……なあ。用意してもらっといて文句言うのも失礼なんだが、どうにかならねえのか。このにおい」
「蛇神様の調合ですからね。私からはなんとも」

 固く丸めたちり紙のような顔をしながら、苦言を呈する大神。薊は鼻を覆いながら、それを受け流す。

「何を入れたら、こんな拷問みたいなにおいの薬が完成するんだよ……」
「蛇神様の秘伝らしいので、私からはなんとも」

 湯飲みからは、まさに悪臭としか言いようのない湯気が立っていた。そのへんの沼地からかき集めた草の絞り汁を極限まで凝縮し、よく分からない動物のよく分からない物質を際限なくぶちこんだような、非常におぞましいにおいだ。
 部屋に広がっていくこよ臭気が、大神には趣味の悪い嫌がらせにしか思えない。しかし、「このままでは自分も気絶しかねません」と薊が急かすので、大神は覚悟を決めて一気に薬湯をあおった。

「ヴっ!? んっ、グ、ンンンッ!! グウウウゥ……!」

 あおって、危うく胃の中身ごと吐き出しそうになった。喉と食道と胃が、強烈な異臭を放つ薬を拒否しているのが分かる。ごぽ、ごぽ……と逆流しそうになる液体を水で無理やり流し込んで、大神は獣が唸るようなうめき声を出しながら耐えた。

「ぶはあっ! なんじゃこりゃあ!? 災害級の悪臭じゃねえか!!」 
「効き目だけを重視して調合した結果だそうです。『あとで感想を聞かせてネ♡』と仰っていました」
「俺は実験台かよ! なんつうモン寄越してくれてんだ、あの蛇女!」

 こんな悪臭を漂わせながら誰かに会うなど、絶対にありえない。まして、すずに対面しようものなら、確実に幻滅されてしまう。
 後で蛇神にどう文句をつけてやろうかと考えながら、大神は生理的に出た涙を拭った。

「けど、効果は抜群なんだよなあ、蛇神印の神薬って……」
「良薬口に苦し、とはよく言ったものです」

 白湯の入った湯飲みをもう一杯大神に差し出して、薊は部屋中の障子と襖を開け放つ。凍てつくように冷たい風が、部屋に充満した悪臭をさらっていく。
 ようやく部屋の空気が入れ替わったところで、大神は気だるさから解放されたかのように、

「あー! 生き返ったあ!」

 と体を伸ばした。

「お館様。神薬があろうと、無理は禁物ですよ。少なくとも今日一日は安静にしていてください」
「へいへい」

 三日間満足に動かせなかった腕や背中の関節が、パキパキと音を立てる。薊の忠告を聞いているのかいないのか、大神はその場に立ち上がって、ぐいぐい脚を伸ばし始めた。

「よもや神薬に頼ることになるとはなあ。ついに寝ても回復しきれないところまで来ちまったか……ふもとの大雪はどうなってる?」
「依然として降り続いています。いえ、それどころか、既に降り止んだと思われていた場所も、再び大雪に見舞われているようです。我々あやかしが住む山頂付近は晴れているのに、人間が住む村や集落だけが狙いうちされたようで」
「……そいつはまたタチが悪いな」

 大神も薊も、困り果てたように眉根を寄せていた。

「これだけ神力を送っても止められないなんて、冗談きついぜ」
「物の怪の仕業だとしても、この力は異常過ぎます。四島守護神を凌駕する力を持つ物の怪がいるなんて、信じられません……」

 薊の絞り出すような台詞を聞いて、大神はふと、眼帯に覆われた右目に触れた。

「物の怪や悪神も恐れる『最強の守護神・大神様』が、今やこのザマか。泣けてくるぜ、まったく」

 かつては絶大な神力を持っていた大神も、今や天災を止められないほど弱体化している──。
 その事実を改めて叩きつけられたようで、大神は酷く落ち込んでいた。
 苦い顔をする大神を、薊は心苦しそうに見つめている。

「お館様、今戻ったぞ!」

 二人が重苦しい表情で俯いていたところで、偵察に向かわせていた双子鬼のうちの、紅梅の声が割り込んでくる。

「おや、お二人とも。ご苦労様でした。収穫はありましたか?」

 薊が問えば、窓から帰ってきた双子鬼は揃って首を横に振った。

「全然。こんな不自然な大雪、絶対に上位格の物の怪の仕業なのに、どこにもそれらしい気配がないんだ」
「村人たちも、もう限界が近いわ。食料が尽きて、倒れたりする人も出始めてる。このままじゃ、体の弱い子供やお年寄りから……」

 紅梅も青梅は、かわるがわる口をもごもごさせていた。時折お互いに視線を送っていて、この先をどう切り出すか、二人で悩んでいるようだった。

「死人が出始めていてもおかしくない、か」

 二人が言い渋っていた台詞を、大神が先回りして言う。双子はほんの少しうつむいて、静かに頷いた。

「そりゃそうだろうよ。他の島では桜が咲いてるくらいなのに、この地だけは未だに雪が降り続いてるんだ。生贄まで出したのに止めてもらえないとなれば、無能な神に怒りが湧くのも当然だろうな」

 大神がため息混じりに言えば、鬼たちは慌てて否定する。

「無能じゃねえよ! お館様はずっと頑張ってるじゃないか! 今だって村を助けようとしてるのに……」
「私たちが雪を降らせている元凶を見つけられないから、ごめんなさい……」

 言っているうちに、自分たちの無力さを痛感したのだろう。二人は着物の裾を握りしめて、涙を飲んでいた。

「お前らはよくやってくれてる。状況がどうしようもないほど悪いってことだ」

 大神は今にも泣き出しそうな二人の頭をわしわし撫でながら言う。

「相手はどうやって姿を隠しているのか……」
「まったくだ、いいようにやられっぱなしで腹が立つ」

 今の大神の神力では、現世まで行くこともままならない。神の使いである双子鬼ならともかく、神自身が現世と隠世の境界をまたぐには、かなりの神力を消耗してしまうのだ。
 力を温存するために寝ているしかできないなんて、大神からすれば歯がゆいことこの上ない。

「……クソったれが。あいつに右目をやられてなければ、こんなことにはならなかったのに……」

 大神の握りしめた拳が、ぎちりと鳴る。
 奥歯を噛み締める音が、ぎしりと聞こえる。
 主人のやり場のない怒りを感じ取った双子鬼は、気まずそうにしながら身を寄せ合った。

「お館様、そろそろすず殿から霊力を多めに分けていただくことも、ご検討された方がよいのでは……」
「ああ?」

 苛立ちをあらわにした大神の反応に、薊はわずかに怯む。しかし、再び腹を決めて、穏やかに大神へ訴えかけた。

「このままでは、お館様の神力がもちません。今までは毛づくろいだけでもよかったかもしれませんが、ここまで症状が悪化してしまったら、さすがにもう……」
「お前は、すずから大事なものを奪えって言ってるのか?」

 今度は明確に、大神が薊を睨んでいた。黄金色の獣の目で睨まれただけで、薊の足はすくんでしまいそうだった。

「やむを得ない状況というものもあります。それに、すず殿は本来、大雪を止めるための生贄として差し出されてやって来たのです。彼女自身、それは承知しているはず。拒まれることは──」
「拒むわけないだろ!」

 突然の大神の怒号に、薊のみならず双子鬼も肩を跳ねさせる。

「すずは自分以外の誰かのためならなんでもするような、自分嫌いのお人好しだ。神様の俺が捧げろと言えば、自分の身も心も、笑って差し出すだろう。けど、俺はあの子にこれ以上悲しい思いなんてさせたくないんだよ!」

 生きる希望をなくし、生贄になる運命を受け入れてしまうほど酷い目にあってきたすずが、ようやく幸せな日々を送れるようになったのだ。生贄になって自身を捧げてくれ、なんて言えるわけがない。
 鉛のように重たい沈黙がしばし流れる。それを打ち破ったのは、玄関から響いたお銀の声だった。

「誰か、彼女を温かい部屋に連れて行って! 顔が真っ白なの!」
「……急病人らしいな」

 大神と双子鬼の視線が、同時に薊へと向けられる。

「薊、あっちの手当をしてやりな。俺はもう薬を飲んだから」
「……かしこまりました」

 薊は大神に対して一礼すると、階段を駆け下りていった。
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