大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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二章『お忍びでえと』

(三)

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 思いがけず大神と二人きりになってしまい、すずはカチンコチンに固まっていた――まさか、子供たちと薊だけ先に帰ってしまうなんて。

「薊の奴、俺たちも息抜きできるように気をつかってくれたんだな」

 子供たちの世話を焼くのも、大人からしてみれば結構な労働だ。好奇心のままにあちこち動き回るし、迷子になってしまわないか、怪我をしないかと常にひやひやしている。
 だから、薊は大神とすずが羽を伸ばせるよう、子供たちを連れて先に帰ったのだろう。

(だども、大神様と二人で、一体何を話せばいいんだ!?)

 いつもは同じ空間に薊やお銀もいることが多かったが、今回は本当に、大神と一対一だ。これではまるで、男女の逢瀬ではないか。
 とりあえず夕食にしよう、と鍋物屋に入っても、すずの緊張の糸はガチガチだった。

「お、いい塩梅かな。ほら、食ってみな」

 くつくつと煮えている鍋から、魚介のいい匂いが漂ってくる。大神が鍋の中身を小皿に分けてくれたので、すずは蟹の身を小さく一口かじった。

「どう? 美味いか?」
「美味しい、です」

 美味しいはずなので、すずはそう答える。本当は緊張しすぎて味がよく分からないけれど。

「だろ? これがまた酒にも合うんだ」

 味も分からないほど身を固くしているすずとは対照的に、大神はとても機嫌がよさそうだ。二人きりのこの状況に動揺している様子は見られない。

(うう、笑顔ひとつ満足に見せられねえなんて情けない……)

 もっと楽しく過ごしたいのに、すずは大神の前で微笑むことすらできない。
 結局、最後まで蟹鍋の味はよく分からないまま、店をあとにすることになった。

「じゃあ、次はどこに行こうか? あそこのくじ引きでもやるか? 手相を見てくれるところもあるぞ。夜もやってる甘味処もありかもな!」
「おらはお館様について行きますよ」

 自分がどんなところに行きたいかもよく分からない。だから、大神が行きたいと思うところに連れて行ってほしい。
 すずがそう伝えると、大神は大いに頭を悩ませていた。

「うーん、俺の行きたいところ……うーん、俺はすずが楽しめればいいんだけど……」

 どこから見て回ろうかと二人で話しながら歩いていると、突然――辺りがざわつきだす。
 一体どうしたのだろう。楽しそうな騒ぎ方ではない――むしろ、剣呑な雰囲気だ。けがをした人がいたのか、それとも捕り物でもあったのだろうか、すずは周囲のあやかしたちの会話に意識を向ける。

「物の怪だ! 物の怪が出たぞ!」

 不意に、誰かがそう叫んだ。遠くで悲鳴が上がり、ざわついていた周囲が一気に混乱に陥る。
 隠世の里に住むあやかしたちは、ほとんどが物の怪に対抗する手段を持たない。近辺には自警団もいるのだが、彼らにも物の怪を倒すことは不可能だ。ここは大神が出るしかなかった。

「すず、店の中に隠れて待ってろ! すぐに戻るからな!」

 お気をつけて、というすずの声も届いたかどうか――駆け出した大神は瞬く間にあやかしたちの波をかき分け、姿を消してしまう。
 とにかくどこかへ隠れなければ、とすずが見えない目であたふたしていると、

「お嬢ちゃん、こっちにおいで。早く!」

 と、老父のしゃがれた声がすずを呼んだ。老父はちくちくした毛にみっちりと覆われた手で、すずの手と肩をつかみ、大通りから外れた小路の向こうの店の中へ引き込む。
 店に入るとすぐに、独特なにおいが鼻をつく。薊が生薬を管理している部屋のにおいに似ているので、もしやここは薬屋だろうか。

「ここはむじなの薬屋だよ。臭いのは申し訳ないが、隠れるには最適の場所だ。外が落ち着くまで、しばらくここにいるといい」
「す、すみません。ありがとうございます」

 狢の店主に礼を言い、すずは立ったまま、店の外へ意識を向けていた。

(また、おらが物の怪を引き寄せちまったんろうか……)

 だとしたら、自分は屋敷の外に出るべきではなかったのでは、とすずは思い詰める。
 楽しそうに街を歩いていたあやかしたちを恐怖に陥れ、羽を伸ばしたかったであろう大神の手を煩わせてしまったのが、とても申し訳ない。
 気持ちが沈むのと同時に、すずの脳裏に嫌な記憶がーーまだ五歳かそこらの頃、姉に罵倒されていたときの記憶が蘇った。

『あんたが物の怪を呼び寄せたんでしょ。そうじゃなきゃ、父さんと母さんだけが死んで、あんただけ生き残ったことに説明がつかない』
『ああ、いっそのことあんたも物の怪に殺されていればよかった。いや、あんたが代わりに死んでいればよかったのよ』
『あんたなんか生まれてきたから、私も両親も不幸になったのよ。死んで詫びなさいよ、この疫病神』
 
 そんな感じのことを言いながら、姉は何度もすずの髪を引っ張ったり叩いたりしてきた。姉のいじめは祖母が止めに入るまで続くので、祖母が気がつかなければ、ひたすら我慢するしかなかった。
 痛くても我慢。悲しくても我慢。怒りがわいても我慢。
 我慢、我慢、我慢、我慢。
 我慢をし続けた末に、姉から言われること、されることのすべてが『どうでもいい』と思えるようになったのは、いつからだっただろうか――

「お嬢ちゃん、顔色が悪いね。不安なのかい?」

 そんなことを考えていたら、狢の店主がすずの顔をのぞき込みながら、心配そうに声をかけてきた。

「い、いえ! 大丈夫ですよ、気にしないでください」

 すずはぱっと笑顔に戻り、気丈に振る舞う。しかし、店主の心配は消えないようで、

「無理をして笑わない方がいい。物の怪は誰にとっても怖いものだからね」

 とすずの背中をさすってきた。
 店主は「いいものをあげよう」と一旦すずから離れると、店の奥にある薬棚を引っかき回して、何かを取り出す。

「ほら、これを一粒飲むといい。疲れや不安が消えるお薬だよ」

 店主は手のひらに一粒の丸薬をのせ、優しげな声ですずに差し出してくる。すずは丸薬を手にとり、それを口に入れ……るようなことはせず、指でむにむに押しつぶしたり、においを嗅いだりしてみた。
 正直、すずは薬が苦手だった。過去に目の治療用にと出された薬が体に合わず、副作用で苦しんだことがあるからだ。
 吐いたり寝込んだりなどするのをもう一度体験する羽目になったらどうしよう……とすずがいつまでも口に入れないで警戒していると、店主はしきりに早く飲むように促してくる。

「大丈夫、変なものは入っていない。副作用も軽い調合だから、安心なさい」

 善意で出してくれたものを断れば、店主の心象を悪くしてしまう。すずは悩んだ末に丸薬を飲み込む……ふりをして、ほんの少しだけ囓って飲み込んだ。

「……っ?」

 途端、足から急に力が抜けて、すずは膝をついてしまう。足だけではない――全身が湿気でしおれた紙人形になってしまったかのように、すずはその場にうずくまる。

「だ、大丈夫かい、お嬢ちゃん? 具合を悪くしてしまったかな?」

 肩を抱き寄せる店主に何かを言おうにも、すずは声を発することもできなくなっていた。唇だけがかすかに動くので「水を、ください」と訴える。
 しかし、店主にすずの要求は届かない。

「ああ、これは大変だ。すぐに治療しないと」

 とすずを軽々と抱え、店のさらに奥へと連れていこうとする。

(だめ、逃げないと……)

 抵抗しようにも、筋肉が全く言うことを聞かない。指先がぴくぴく震えるばかりで、どうにもならない。次第に頭がくらくらしてきて、脳を直接振り回されているような感覚に襲われる。
 
「“あのお方”のもとへ行こう。あのお方の治療なら、きっとよくなるよ」

 “あのお方”とは、誰だろう。自分はどこに連れていかれるのだろう。これからなにをされるのだろう。
 体に変なことをされたりするのだろうか。それとも、どこかに売られてしまうのだろうか。まさか、殺されてしまうのだろうか。
 かろうじて働いているすずの頭に、いくつもの最悪の展開が浮かんでくる。

(いやだ、怖い……! 誰か……!)

 すずはなけなしの力で叫ぼうとする。

「おい」

 助けて、というかすれた声に重なって、店先の方から低い声が響く。次いで、シャリン! と辺りに響き渡る鈴の音。
 店主はそれに相当驚いたのか、体をびくんッ! と震わせた。

「おい、そこの狢」
「ひいっ!?」

 間違いなかった。障子や戸がびりびり震えるほどの、低く重たい声――大神の声だった。

「その子をどこに連れていく気だ」
「ご、誤解ですよ、お兄さん。わしはただ、この子が具合を悪くしていたから、介抱しようとしただけで……」
「ほお。そいつの口から薬のにおいがするのは気のせいか?」
「そっ、それは……っ」

 大神は、この店主が何をしたか、おおよそ分かっているようだった。薬のにおいまで言及されてしまえば、店主も言い逃れはしにくいようだ。

「御託はいい。その子を離せ。さもなくば――」
「ひいいッ!!」

 まるで刃物を向けているような、凄まじい殺気を放つ大神。しかし、ここまで脅されても店主はすずを離したくないらしい。すずを抱えたまま、後ずさりしている。
 そうこうしていると今度は店先が騒がしくなってくる。先ほどまで大通りにいた野次馬たちが、店内が騒がしいのを聞きつけるやいなや、軒下に集まってのぞき込んでいた。

「わっ、わしはただ、この娘を助けようとしているだけなんじゃ! とと、年寄りに詰め寄って脅すなんて、大神様が許さないぞ!」

 衆目があるところで、店主は上手いこと罪をなすりつけようとしたのだろう。野次馬たちがひそひそと話し出したのを見て、してやったりとほくそ笑む店主。しかし。

「俺がその大神様なんだが?」

 と、大神は変装をあっさり解いた。目深にかぶっていた笠を脱ぎ、襟巻を外し、術で黒く染めていた髪も元に戻し――大神は正体を堂々と衆目にさらす。

「なああ……ッ!?」

 店主も、大神がお忍びでやってきているとは夢にも思わなかったのだろう。もちろん、それは野次馬たちも同じだった。

「ほ、本当に大神様だ!」
「どうしてこんなところに……」
「まさか、さっきの物の怪を退治したのも……」

 周囲がどよめいている中で、大神はさらに声を大きくして言う。

「もう一度言う。その子を離せ。さもなくばその腕を斬り落とす」

 大神が雪下駄をガツン! と威勢よく踏み鳴らすと、店主もついに怯んで、すずをその場に下ろす。
 大神の腕の中に戻ったとき、彼のがっしりした骨格を感じて、すずは安堵した。

「もう大丈夫だからな、すず」
「も、ののけ、は」
「あんなの十秒あればすぐ退治できる。それより、早く薊に診てもらわないと」

 大神は店先の方へ踵を返すと、

「道を空けろ、急病人だ!」

 と、押しかけていた野次馬たちに向かって声を張る。大神の鶴の一声で、その場の全員が急いで道を空けた。

「あと、自警団の奴はいるか。こいつを捕らえて牢屋にぶち込んでおけ」

 自警団のあやかしが弾かれたように店内へ突入するのと入れ替わる形で、大神はすずを連れて店を出る。

(――ああ、この方に怪我がなくてよかった。強いお方だと分かっていても、やっぱり不安だから)

 すずは大神の腕の中、朦朧とする頭で考える。

(――ああ、ごめんなさい、大神様。おらは貴方の大事なお休みを台無しにしてしまいました。本当にごめんなさい)

 大神はぐっと脚に力を込め、どこかの屋根に飛び上がると、けんけんぱをするように屋根と屋根を飛び移っていく。大神の体温に揺られながら、すずの意識は沈んだ。
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