大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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一章『大神屋敷』

(六)

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 あやかしたちが、水を打ったように静まり返る。
 彼らの視線の先には、驚きの光景があった。

「あげんしょ あげんしょ♪
 黄色い花を つみんしょ♪
 そこかしこに 見えるは♪
 ひらりひらひら ちょうのまい♪」
 
 人間の少女が、ついさっきまで暴れていた物の怪の灰を手にして、子守唄のようなものを唄っているのである。まるで自分の子を寝かしつける、母親のように。

「おい、人間。訳わかんねえことしてないで、下がってろよ」
「早く片しちゃいたいんだけど」

 鬼の子たちが訝しげな表情でぶうぶう文句を言うが、すずは彼らの言葉など意にも介さず、くり返し唄っていた。
 
「すず。その唄は……」

 大神が尋ねると、すずはようやく唄うのをやめて、静かに答えた。
  
「せめて供養を、と思いまして」
「供養?」

 まさかの答えに、大神は瞠目する。
 襲われて、恐怖のどん底に落とされてなお、襲ってきた相手に慈悲の心を向けるなど――大神は想像していなかったのである。
 固まった大神に対して、傍らの鬼の子たちは眉をひそめた。

「変な奴だな、お前。いや、人間が変なのか?」
「こんなモノを供養するだなんて、奇特なもんね」

 悪霊に同情するなんて、ありえない。まして、すずは命の危機に晒されたというのに――襲ってきた相手を供養するなんて、正気の沙汰とは思えない。
 周囲のあやかしたちも、鬼の子たちの言葉に無言ながら賛同しているようだった。この場の誰もが、すずに奇異の目を向けていた。

「そんげおかしなことですか?」

 そんな彼らに、すずは毅然と言い返す。
  
「物の怪は、人やあやかしの情念から生まれるのでしょう。たとえ今は危険な存在だったとしても、元を正せばただの親子です」

 自分はおかしくないと主張するように、真っ向から反論する。
 すずは恐怖のどん底に突き落とされてなお、物の怪の親子に心を寄せていた。灰になった彼らを、単なる化け物と認識できなかったのだ。
 ――腹を空かせて泣く赤子は、どんなにつらかっただろうか。
 ――弱っていく我が子を抱いてさまよう母は、どんなに切なかっただろうか。
 祈り届かず、人知れず命を落としたのであろう親子。その無念が物の怪になり、誰かを襲い、斬られて物のように捨てられる――そんな最期など、あまりに哀しすぎるではないか。

「子守唄でも唄えば、泣いていたこの子も安らかに眠れるかと思っただけです」

 願わくば。母子共に天の国で安らかにいてほしい。そう祈りながら、すずは唄う。
 静まり返った部屋に、すずの唄う声だけが響く。
 
「……供養、か」

 大神はぽつりとこぼすと、すずの傍らへ歩み寄る。
 
「すず。その気持ちは、生きている物の怪には向けないほうがいい。物の怪は優しい人間やあやかしにつけ込んで、力を増そうとする。お前は優しすぎるから、物の怪にいいようにされやすいんだ」

 子供に言い聞かせるように言う大神に、すずは少し口を尖らせ、沈黙で返す。反論して噛みつくようなことはしないけれど、自分は決して間違っていない、と頑なに信じている顔だった。
 大神はそんなすずに向かって──ほんの少しだけ、笑いかける。
 
「……でも、見ず知らずの相手に慈悲を向けるその気持ちは、尊いものだと俺は思う」

 すずは、寄り添うような大神の発言に驚いてから――ふっと安堵の表情を見せた。

「青梅、紅梅。ここは俺が片付けておく。しばらくそっとしていてくれるか」
「!? お館様!?」
「そんな、後片付けなんてあたしたちが……」
「いいの。早いとこ飯食って、離れに戻りな」

 釈然としない鬼の子たちは、不満げに口を尖らせるが――その脇をお銀がすり抜ける。

「私もお手伝いしますわ。夕食の支度は終えておりますので」
「ああ、頼む」

 お銀は唄っているすずの傍に寄ると、灰の前で静かに手を合わせた。
 大神はふっ、と襖の外に目をやる。気づけば、空はすでにくらくなっていた。夜の闇が少しずつ近づく中、すずの清廉な唄声は、耳からゆっくり染み込んでくるようだった。

 
 *


 弔いを終えてしばらくしてから、すずは夕食をとった。けれど、食事は思うように喉を通らず、お茶と一緒に飲み込むのがやっとという感じだった。お銀に至っては夕食をほとんど食べられなかったそうで、周囲の女中たちは心配そうに話していた。
 そんな中で迎えた、深夜――眠りにつけずにいたすずは、寝泊まりしている女中部屋から廊下に出てひとり、ぼんやりと佇んでいた。
 
(……これでよかったんだ。おらは間違ってない。これで間違いない)
 
 胸に手を当て、すずは密かに自分を鼓舞する。
 結局、鬼の子たちやあやかしたちには、最後まで奇妙な目で見られたが、すずに後悔はなかった。
 自分は、少なくとも人としては、正しいことをしたはずなのだ――そう固く信じていた。

「へっ、くしゅ!」

 今日はいつもよりもさらに、夜風が冷たく感じる。ああ、羽織でも一枚持ってくればよかった……でも、女中部屋にはまだ戻りたくない、とすずが迷っていると、
 
「あまり夜風に当たると風邪引くぞ」

 と、低い声がすずに呼びかけてくる。

「大神様」

 大神の声は、相変わらず独特だ。静かなはずなのに、どうしてかビリビリと空気を震わせる。けれど、そのビリビリした感じが、すずはなぜか心地よかった。
 
「……もしかして、大神様。狼の姿に戻ってます?」
「お、よく分かったな」
「足音が人のものと違ったので」
 
 獣人姿となっている大神の足は、裏側の肉球のすきままで、毛がみっちりと生えている。そのせいか、人型の時よりも足音がこもって聞こえるのだ。
 とはいえ、この違いは、よく耳を澄ませなければ分からないほど微細だ。視力の代わりに研ぎ澄まされたすずの聴覚だからこそ、聞き分けられるものだった。

「なーしたんですか。こんげ夜遅くに」
「お前と同じだよ。ちょいと寝付けないから、夜更かししに来た」

 そう言う大神の右手には、小玉のスイカほどの大きさをした酒瓶があった。

「へっ、くち!」
「またくしゃみ出てる。ほら、こいつを羽織ってな」

 そろそろ震えてきていたすずの肩に、大神から一枚の羽織がかけられる。すずにとっては大きすぎる臙脂色の羽織は、それまで獣の毛で温められていたせいか、こたつに入った時のように温かい。

(……大神様の、匂いだ)
 
 すずはかけてもらった羽織に腕を通してみる。昼間に大神の部屋で感じた沈香の香りと、彼自身の匂いが混ざりあって、すずは落ち着くようなそわそわするような、どっちつかずの気分になった。
 
「ここは寒いから、居間に行こうぜ」

 大神はすずの袖を引いて導き、居間へやってくると、ふわふわの座布団に彼女を座らせる。そのへんをふよふよ漂っていた一体の鬼火に手伝いを頼み、囲炉裏に手早く火を入れると、やかんを鈎棒かぎぼうに吊るしてお湯を沸かし始めた。

「お茶ってどこだっけ?」
「確か、右の戸棚だったかと」
 
 どうやら、大神はすずの夜ふかしに付き合うつもりのようだった。
 お茶の準備をしながら火にあたっているうちに、鉤棒に吊るしたやかんがしゅんしゅん音を立てる。やかんで沸かした湯を急須にうつし、少し時間を置いて蒸らしたあと、大神は湯のみに中身を注いだ。

「いい匂い……」
「梅の花で作ったお茶だってさ。心を落ち着かせる作用があるって、薊が言ってた」

 すずはほんのり色づいたお茶を静かにすする。味は白湯のようなものだが、すっきりとした梅の花の香りが心地いい。

「大神様は飲まないんですか? お茶」
「俺はいいよ。猫舌だし」
「ねこじた……」
 
 狼なのに猫舌なのか、とツッコミを入れるべきなのだろうか。すずは反応に迷った末に、そっと流すことにした。

「わざわざおらのためにお茶を淹れてくださったんですね。ありがとうございます」
「いいんだよ。勝手に焼いた世話だ」

 大神は照れ隠しのように言うと、酒瓶の栓をきゅぽんと抜いて、中身を豪快にあおった。がぶがぶと水でも飲んでいるような音が、すずの耳に聞こえる。

「そんげ一気に飲んだら、体によくないですよ」
「神様だからいーの。神様は酒で体を壊したりしねーもん。しかし、北国島の酒は美味いな。供物の中じゃ一番好きかもしれねえ」
「大神様は、お酒がお好きなのですね」
「おう。現世の人間たちが手間と時間をかけて作ったモンだからな。その最高級品をもらってんだから、美味くないわけがねえ」

 大神曰く、神にとって一番嬉しいのは、人の手が多く入った供物らしい。酒にしても、織物にしても、神楽にしても――人間の心がこもった供物は、神にとって最高の贈り物なのだという。

「現世の人間たちも、神様である俺を信じて祈ってくれてるんだ。なのに、最近の俺ときたら満足にお返しもできなくて、情けないったら」
「そんなことは……しかし、どうしてそんな悪循環ができてしまったのですか?」
「分からねえ。俺だって全てを操作できるわけじゃねえからな。どうしても回避できない天災や、人間が及ぼす影響ってのもある。それに、物の怪を祓う時にも神力は使う。物の怪は人間にもあやかしにも有害だから、無視するわけにはいかねえし、かといって物の怪を手当たり次第に祓ってたら、現世に送る分の神力がなくなっちまう」
「ああ、だっけ節約しねばならんわけですね」
「そういうこと。人の姿に化けてると、結構消耗するんだよな」

 人の姿も結構便利なんだけどなあ、と大神は自分の手を見ながら言う。
 そして、はあと切なそうなため息をひとつ漏らした。
 
「……あの物の怪の親子も、ああなる前に保護してやれれば救えたかもしれねえんだよな」
「え……?」
「あの親子は多分、遭難して無念の死を遂げて、成仏できないままだったんだ。ああして何かを襲いながら、鉈切山をさまよっていたんだろう」

 だから、そうなる前に大神屋敷に保護できたらよかった――と、大神は漏らす。
 いつも笑っている大神が、こんなに切なそうにしているのを見るのは初めてで、すずは胸が痛む思いだった。
 大神が悔しそうな思いを飲み込むように酒をあおるのと同時に、すずもへばりついた喉を潤すようにお茶を流し込む。
 
「お銀のこと、責めないでやってくれな」
「もちろんです。……お子さんを亡くしていたんですよね、お銀さん」
「知ってたのか」
「ご本人から聞きました」

 弔いの後、お銀は疲れた様子ながらも、すずと大神に改めて謝罪してきた。相手が物の怪と気づかぬまま同情したせいで、すずを危険にさらし、大神の手を煩わせてしまったと責任を感じたのだろう。
 しかし、事情を知っていた二人に、お銀を責めることはできなかった。

「あいつはここに来る前、身寄りがいないのをいいことに、嫁ぎ先でこき使われてたんだ。旦那と姑からひどく虐められて、そのせいか、やっと生んだ子供もすぐに亡くしちまったらしい。責任を問われて折檻されて、茫然自失の状態でフラフラ歩いてたら、いつの間にか鉈切山に迷い込んでいたんだそうだ」
「そんな……」

 逃げ場のない状態で虐められることのつらさは、すずも身をもって知っている。お銀はそのうえ、大切な子供まで失ったのだ。子供の死で、お銀は自分を責めたに違いない。しかし、そんな彼女を労わってくれる者は周囲におらず、どころか折檻を受けた。あまりに悲惨だ。
 
「あの時のお銀は『何もかも自分のせいだ』って背負い込んでて、限界なんざとっくに超えていたからな。旦那たちに手切れ金を押しつけて、うちで働いてもらうことにしたんだ」
「じゃあ、旦那さんとご家族からお銀さんを守ったんですね」
「いやいや、守ったなんてお綺麗なもんじゃねえさ。相手が屋敷に乗り込んできて散々ごねたから、鉈をぶん回してキレただけ。『今後、うちに近づいたら叩ッ斬るぞ』ってな」
「……それは、脅しですね」
「んはは! けど、逃げてくあいつらを見てお銀も目が覚めたみたいでな。今じゃ屋敷の若いやつらの面倒も見てくれて、ありがたいこった」

 きっと、お銀は大神への恩に報いるため、せっせと働いていたのだろう。今では女中頭を任されるまでに信頼され、周囲からも一目置かれる存在となっている。
 自身がつらい過去を経験し、乗り越えていたからこそ、お銀はすずをずっと気にかけてくれていたのだ。
 
「……大神様。おらも、貴方やお銀さんのお慈悲に救われました。だから、今度はおらが恩返しができるよう、頑張りますね」 
「それはお互い様だよ。俺たちもすずに助けられてるからな」
「え? そーいんですか?」

 自分など今日から働き始めたばかりで、周囲の輪に入れているかも怪しいというのに。ピンと来ない様子のすずに、大神は意外なことを教えてくれた。

「お前、屋敷の子供たちをあやしてくれたんだってな。女中から聞いたぜ。ありがとうな」

 確かにすずは屋敷にやって来てから、何度か子供の相手をしている。遊ぼうと話しかけてきた子供たちと歌を歌ったり、編み物遊びをしたり、母親が不在だった赤子を抱っこしてあげたり。寂しそうにしていた子供の話し相手になったこともあった。
 けれど、それがどうしたというのだろう。どうして、大神は礼を言うのだろう。

「別に、おらはなんにもしてないですよ?」
「うんうん、自然とそう返せるのもすずのいいところだよな」
「???」

 大神は大きく頷いて感心するが、すずはなぜ自分が褒められているのか、よく分からなかった。子供の相手は自分がそうしたかったからしただけで、特に親切心があったわけでもないのだから。
 
「あやかしを怖がらないで、自然と会話できるのもすごいと思うし」
「うーん、別に怖がる理由がないですからねえ。あやかしさんも人間も、おらにとっては変わらないですし」
「会えば必ず挨拶してくれるから嬉しいって言ってた奴もいたぞ」
「それが人への礼儀だと思うんですが……」
「誰に対しても物腰が丁寧だって評判も聞いてるぞ」
「おらなんて新参者ですからねえ。みなさんに失礼な口を利くわけにはいきませんよ」

 それが普通というものだ――自分は人として最低限しなければならないことを実行しているだけで、特に誰かの役に立つ何かをしたわけではない。むしろ、寝る場所と食事を提供してもらっている身としては、まだ何のお返しもできていない状態なのだ。
 そんなすずの受け答えを聞いて、大神は「そうかい、そうかい」となぜか満足気に笑っていた。

「清らかだなあ、お前さんは。俺の目に狂いはなかったってことだ」 
「? まあ、少しでもお役に立てていたならなによりです」

 けれど、まだまだこれからだ。
 これから少しずつでも、大神たちへの恩を返していかなければ。大神の役に立つことが、引いては屋敷のあやかしたちや現世の人々の為にもなるというのなら、すずにとってこれほど光栄なこともない。

「これから面倒をかけることになるが、どうか俺たちに力を貸しちゃくれねえか」 
「はい、もちろんです。ほんの微力にはなりますが」

 自分を必要としてくれる相手がいることの、なんと幸せなことか。でくの坊と呼ばれ、感謝のひとつもされてこなかったすずは、今まさに幸せを感じていた。

「あっ、でも、お礼の抱っことかはもうしないからな! すずが嫌なことは絶対にしないから、安心してくれ」

 大神は慌てて付け加える。
 お銀の言ったとおりだ――どうやら大神は昼間、すずに良かれと思ってした行為のことを、まだ気にしていたようだ。
 忘れかけていた恥ずかしい記憶が蘇ってしまって、すずは顔が熱くなっていくのを感じた。

「あの……い、嫌では、なかったですよ」
「えっ?」

 決して下心はない――ただ、大神が気に病んでいるままではとても申し訳ないので、すずはぎこちなくそう答えた。
 すると、大神は目を丸くして

「……ほ、本当に? 本っ当に、嫌じゃなかったのか?」

 と確認をとってくる。
 すずは顔を赤く染めながらも、こくこく頷く。

「よ、よかったあ! 俺、すずに嫌われてたらどうしようかと思ってたんだあ!」
「ふわぁっ!?」

 すずに受け入れられていたのが、よほど嬉しかったらしい。大神は尻尾を振りながら、すずをまた抱き寄せていた。
 すずのちょうど顔のあたりが、ふかふかの柔らかな毛並みに包まれる。

(はわぁぁ……! 大神様、もっこもこだあぁ……っ!)

 沈むほどに温もりを増す大神の毛並みが、この寒気の中では想像以上に心地よくて、すずはあっという間に骨抜きにされてしまう。
 自分の胸元ですずを魅了しているのを知ってか知らずか、大神は自分の中にすずを埋め込んでしまわんばかりに抱きしめた。

「あ、そうだ。なあ、すず。どうせ眠れねえなら、さっきの唄、もう一回唄ってくれねえか。結構気に入ったんだ」
「へ?」

 気持ちよさにうっとりとしていたすずは、ハッと気づいて顔を上げる。

「ああ、あの童歌ですか。あれはおらの村に昔から伝わる唄でして……」
「違う違う。気に入ったのは唄そのものじゃなくて、すずの唄声のほう」
「へっ?」 
「いい声じゃねえか。のびのびしてて、どこまでも届きそうで」

 すずはまさか、半人前の自分の唄声が大神に気に入られていたとは思わなかった。胸の中をつんつんと指先でつつかれたように、すずの中でとくん、と心臓が揺れ動く。それは決して嫌なものではなかったけれど、なんだか危険な気もして、すずは慌てて大神から離れる。

「だめ?」
「い、ぃいいえ! あの、大神様が喜んでくださるならっ」
 
 すずは急いで息を整えようと、胸に手を当てて深呼吸する。
 囲炉裏の火がゆるやかに明滅する居間に、彼女の優しい唄声が響いたのは、もう少しあとのこと──。
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