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一章『大神屋敷』
(五)
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「あっはっは! それは吃驚したわねえ」
大神から思わぬお返しをもらったすずの熱は、未だ冷めやらない。お銀とともに洗濯物を畳んで紛らわそうにも、
「すずちゃんのおかお、まっかっか」「りんごみたいに、まっかっか」
と、鬼火たちが無邪気に歌ってくるので、すずはますます縮こまってしまう。
「お館様は元々狼だったそうだから、感覚がそっちに近いときがあるのよね」
「なるほど……そーいんでしたか……」
確かに、狼は群れで身を寄せあって生活する生き物だ。厳しい寒さの中、仲間同士で触れ合い、温め合うのは本能なのだろう。
狼に似ている犬だって好きな人間に飛びついたり、顔を舐めたりするので、大神が抱きしめて感謝を伝えようとしたのも頷ける。
しかしだ。男に慣れていないすずにしてみれば、あれは心臓に悪い以外の何物でもなかった。
「嫌なことは嫌とはっきり言って大丈夫よ。お館様、あれでも感覚のズレは気にしてらっしゃるみたいだから」
「うーん……嫌、ではなかったんですが……」
そう、嫌ではなかった。恥ずかしかったり、驚いたりしたのが大きくて、その結果逃げたくなってしまっただけで――本当は大神に抱きしめられたのが嬉しくて、ほんのちょっぴり浮かれていたのだ。
(というか……これってつまり、おらは大神様を男として意識してる、ってことなのか……!?)
だとしたら、それはかなりまずいのでは、とすずは自身に芽生えた感情を危ぶむ。
相手は人間ではなく、神様だ。そんな崇高な存在に、賎しい身分の自分が首ったけになっている場合ではない。ここは分をわきまえなければ。
すずはぶんぶんと激しく首を振り、頭をぽこぽこと叩く。
(しっかりしなせや、すず! ばあばも瞽女になるなら恋心は捨てろと言うたったろう!)
瞽女には厳しい戒律があり、その中で禁忌と定められているのが『男性と関係を持つこと』である。瞽女を稼業と定めたならば、一生それに従事しなければならない。世帯を持つことは瞽女には許されないのだ。
そう言って自分を戒めようとするすずだが、ふとここで気づいてしまう。
(でも、おらは現世で死んだことになってる。結局瞽女として修行することも、巡業していくこともねえんだよなあ。ここではこうしてお仕事をもらっているし、ご飯も寝床もあるし……)
過酷な瞽女稼業に比べ、大神屋敷での暮らしは快適そのものである。叩き込まれた唄の芸が生かされないのは寂しいけれど、すずはもう瞽女にならなくてもいいのだ。
瞽女として生きなくてもいいのならば、誰も迷惑しないよう、ひっそりと想いを寄せるだけなら許されるのでは? とも思う。
(……いやいや、待て待て。そういう問題じゃねえ! 瞽女になろうがなるまいが、こんげのおらが抱いていい感情でねえって言うてんがて!)
大神とて、先ほどの抱っこに深い意味はなかったはずだ。抱っこされたくらいで舞い上がるな、と自分に言い聞かせ、すずはひたすら洗濯物を畳むことに集中した。
せっせと畳んでいると、すずはおや? と指先から感じた違和に気づく。もう一度よく探ってみれば、子供用の衣服の縫い目がほつれていた。
「ここの縫い目……どこかに引っ掛けたんですかね」
「あらまあ。子供の着物って、すぐに破けるものよねえ」
「あとでおらが繕っておきましょう」
「貴方、お裁縫もできるの? すごいのねえ! でも、そんなに色々頼んじゃって大丈夫?」
「大丈夫です。むしろ、色んなお仕事をもらったほうが張り合いがあります」
すずにとっては、仕事を与えてもらえること自体がありがたいことなのだ。村ではむしろ迷惑だから働くなという雰囲気が漂っていた。すずがなにかをしようとする度に目をつけられて、少しでも危ういところがあれば仕事を取り上げられてしまう。すずにできたのは、自身の身の回りのことだけだ。
しかし、この場所は違う。お銀を含め、屋敷のあやかしたちはすずを信用してくれるし、変な気遣いもなくどんどん仕事をさせてくれる。やる気を見せれば見せるだけ喜んでもらえるので、すずとしてもやりがいがあるというものだ。
「恥ずかしい話だけど、お裁縫だけは苦手なのよねえ、私。他の女中に頼もうにも、冬の時期はみんな忙しいから、なかなか手が回らなくって。本当に助かるわ」
「お役に立てるのなら、なによりです」
他の人に比べれば、自分にできることなんてほんのひと握りだ。だからせめて、自分にできることだけは、精一杯やりたいものだ。
「そういえば、話は変わるんだけど。おすずちゃん、今夜は誰かと一緒に行動していた方がいいわ。特に、鬼火ちゃんとは絶対に離れない方がいい」
「? どういうことです?」
なぜ今夜に限って? とすずは不思議に思った。首を傾げるすずに、お銀は答える。
「このお屋敷は普段、お館様の結界に守られているの。屋敷に入ろうとする物の怪から守るためのね。けれど、今日はお館様が体を休める日だから、結界が張れなくて無防備になるわ。この隙を狙ってやってくる物の怪もいるから、みんな警戒しているの。貴方は特に、物の怪に狙われやすい体質だから、いつも以上に慎重に行動した方がいいわ」
「……重々気をつけます」
すずはこくこくと二度頷く。物の怪につけられた痣や盲目だけでもたくさんなのに、これ以上呪いをかけられてはたまらない。それに、目が見えないすずは、何かに襲われたとしても、逃げることがほとんど不可能だ。襲いかかられた、という時点で、彼女にとっては致命的である。
すずの不安を読み取ってか、お銀は彼女の背中をぽんぽんさすると、
「大丈夫よ。お館様は物の怪を倒すことができるから、何かあれば絶対に動いてくださるわ。私も物の怪を倒せるわけじゃないけど、時間稼ぎくらいならできるし。なんなら、私よりも頼りになるあやかしもいるわよ」
と言う。
「あやかしさんも戦うんですか?」
「ええ。一番はこの近くに住んでる双子の鬼たちね。大所帯があんまり好きじゃないみたいで、普段は屋敷の外にあるかまくらに住んでいるんだけど、屋敷の監視もしてくれてるの。あと、鬼火ちゃんの炎は物の怪が嫌がるから、おすずちゃんを守ってくれるはずよ」
「この子たちが……」
肩に乗った鬼火たちに指先で触れると、鬼火たちはきゃっきゃと喜びながら、すずの指に頬擦りをしてくる。
「だいじなすずちゃん、みんなでまもるよ」「もののけきたら、ぷーっ! ってなるよ」
鬼火たちが風船のように体を膨らませ、めらめらと炎を燃やしている。彼らなりの威嚇の構えなのだろうか。闘志を滾らせる姿は、頼もしいというよりは可愛らしいといった印象だが、やる気を出してくれているのはすずにとっても嬉しいことだ。
「ありがとうね、鬼火さん。頼りにしてるね」
と、すずは鬼火たちの頭を指で撫でた。
*
「よろっと飯の時間だろっかねえ」
地平線に太陽が足をつけ始めた頃。お銀の手伝いをあらかた終えたすずは、破けたりほつれたりした衣服を繕っていた。お銀は半刻ほど前に、夕食を仕込むと言ってひと足早く台所へ向かっている。
「きょうのごはんは♪」「なんだろな♪」「おだしのにおい♪」「おみそのにおい♪」
鬼火たちはぴょんぴょん飛び跳ねたり、ころころ転がったりながら、暇そうに夕刻の鐘の音を待ちわびている。作業の手を止めたすずも、腹の虫がそろそろ鳴きそうだった。
そんな時、表の戸がトントン叩かれる音がする。
「ごめんください。開けてもらえませんか? 道に迷ってしまって」
戸の向こうから訴えてくるのは、若い女の声だった。かすかに、赤子の泣く声も聞こえる。
「おきゃくさん?」「まよいびと?」
はしゃいでいた鬼火たちも神妙な面持ちで、襖の向こうにある玄関の方を見ている。
大神屋敷は鉈切山周辺のあやかしの拠り所なので、こういった来訪者も珍しくない。
お銀が台所から出てきて、「はあい、どなた?」と客人を出迎えた。
「突然、すみません。ここに来れば助けてもらえると聞いたので。どうか、一晩泊めてもらえませんか」
「まあ、寒いところを大変だったわね。さあ、上がって」
お銀が迎え入れた女は、切迫した様子で助けを求めていた。ふぎゃあふぎゃあと大声で泣いている赤子もいるようだ。
「この子がお腹を空かせて、泣き止まないんです。でもずっとお乳が出なくて、このままじゃこの子が……」
「大丈夫よ。ここにいるあやかしのお母さんたちに、お乳を分けてもらえないか声をかけてみるわ。でも、まずは早く温まりましょう」
お銀は胸の痛そうな声で、女を慰める。声まで凍えて震えている女に、親身に寄り添っていた。
玄関をあがり、廊下を歩いてくる彼女たちの会話を襖越しに聞いていたすずは、
「こんげとこに赤ん坊と迷い込むなんて、なーしたんろうねえ……」
と、気の毒そうに漏らす。
そんなすずの傍らで、鬼火たちはころんと首を傾げながら、無邪気に話し出した。
「ね、ね。あのこ、あかんぼう?」「もしかして、あばれんぼう?」「でも、そとみはあかんぼう」「でも、なかみはうそんこ?」
足音が近づいてくるにつれて、鬼火たちがそわそわしだす。彼らの話し声が大きかったので、慌てたすずが
「こら、そんげことおっきな声で言ったら、めっ! だぞ」
と注意する。
それとほとんど同時だっただろうか――ちょうど部屋の前を通りかかった女の足音が、ぴたりと止まった。
「? どうしたの? なにか気になることでも?」
足を止めた女に、お銀が怪訝そうに聞く。
「みつけた。今日のご飯」
次の瞬間――切なげだった女の声色が、暗く低いものに豹変した。
「え?」
「さあ、坊や。たんとお食べ」
赤子の泣き声も、大人の男のような野太い鳴き声に変化する。
襖の向こうで突如起こった異変に、すずは息を詰まらせる。全身の筋肉が一気に硬直し、悪寒が走り抜けた。
「――逃げて、おすずちゃん!」
お銀の警告と同時に、赤子の首が大蛇のように伸び、襖を突き破って乱入してくる。どうん! と大きな音が屋敷中を揺らした。
「きゃああっ!?」
風船のように大きく膨れ上がった赤子の首が、大口を開けてすずに襲いかかる。動けずに蹲ったすずの眼前まで赤子が迫った時、
「ぷーっ!!」
と、鬼火たちがおもちゃの笛のようなけたたましい声を上げ、威嚇した。
すずと赤子の間に割って入ってきた鬼火たちは、大福のような体を急激に膨らませた。西瓜ほどの大きさになった二体の鬼火たちの全身から、たちまち大きな炎がボワッと噴き出す。熱い炎を正面から受けた赤子が、おぎゃあと驚いて飛び退いた。
「立って!」
赤子が怯んだ隙に、お銀がすずを連れて走り出す。すると、こっちへ逃げろと二人を招くように、閉じられていた目の前の襖がぱんっ! とひとりでに開いた。まるで屋敷の建物自体が意思を持っているようだった。
二人は次々開いていく襖に導かれながら、奥の部屋へ逃げ込む。ほどなくして首を長くした赤子が、恐るべき速さで這いずりながら追跡してきた。鬼火たちの炎をかいくぐった赤子は、二人が通ったあとに閉ざされた襖を、バン! バン! バン! と次々に破って突進してくる。
「しつこいわね、もう!」
お銀はすずを連れたまま後ろへ振り返ると、赤子に向かってふうっと息を吹きかけた。
すると、今度は伸びてきた赤子の顔面が霜に覆われる。たちまち真っ白に凍りついた赤子は、動きがいっとき鈍くなるが、しかし。
「おぎゃああああ!!」
赤子がひときわ大きな声で泣き叫ぶと、顔を覆い尽くしていた霜や氷を、一瞬で吹き飛ばしてしまう。
「嘘でしょ……あれを破るなんて、どんな泣き声してるのよ!」
二人が逃げ回っているうちに、異変に気づいた他のあやかしたちも、悲鳴をあげて逃げ惑いはじめる。すると、混乱に陥った多数のあやかしたちの群れで、二人が逃げられる道が塞がれてしまった。
万事休すか──すずの長い髪を、赤子の手が掴みそうになった、その時だった。
「失礼するぜ!」
「よいしょっと!」
赤子に続いて、突如、二人の子供たちが乱入してくる。
真っ赤な肌をした、一本角の少年と、真っ青な肌をした、二本角の少女である。鬼の子たちは赤子が通ってきた道を、突風をも凌ぐ速度で駆け抜けてくると、二人を食おうとしていた赤子へ飛びかかった。
「うぎいいッ!?」
鬼の子たちが赤子の首をめがけ、大きな包丁のようなものをズドンと振り下ろす。細長く伸びた餅を鋭い刃物で斬ったときのように、赤子の首は綺麗に両断され、断末魔の叫びがあがった。
「お~! こりゃけっこうな大物だなあ」
「姑獲鳥の仲間みたいだね」
どうん、と赤子の体が倒れ込む。ぴくぴく動いている赤子を、鬼の子たちは悠長に覗き込んでいた。
しかし、目が見えないすずは、何が起こったのかも理解できず、混乱するばかりだ。
(おら、助かったんろっか……?)
状況をハラハラしながら探っていると、身を呈してすずを庇おうとしていたお銀が、そのまますずの体をぎゅうっと抱きしめてくる。
「ああ、おすずちゃん! よかった……!」
「わわっ、お銀さんっ」
お銀は今にも泣きそうな声だった。すずの細い体をこれでもかときつく抱きしめ、背中をさすっている。
「ごめんね、ごめんね! 私がつい屋敷に招き入れちゃったから……! 本当にごめんね……」
「そ、そんな、お銀さん……」
お銀は、まんまと同情心につけ込まれてしまった自分の過ちを、ひたすら謝り倒していた。
「まさか、親子の物の怪だったなんて思わなかったの……」
「物の怪? 今のおっかないのが、物の怪なんですか?」
「そーだよ」
すずの疑問に答えたのは、赤い肌の少年だった。
「人間やあやかしの負の情念から生まれた悪霊。汚らわしい化け物さ。ほら、死体を片付けるから、さっさとそこをどきな」
言って、少年は転がった赤子の死体を手に持ち、引きずろうとした。
――しかし。
「……まだ意識がある!」
赤鬼の少年が警告するのと同時に、ビクン! と動いた赤子の手が、鬼の子たちの手を乱暴に払い除けようとする。鬼の子たちはすぐさま離れたが、横なぎにされた風圧で壁や襖に叩きつけられてしまった。
「青梅ちゃん! 紅梅くん!」
お銀が二人の名を叫ぶ。叩きつけられた痛みに鬼たちが悶えている間に、切り落とされた赤子の首が、再びすずを睨んだ。
「ひっ」
目が見えずとも、ふっとした空気の動きと、本能で感じる嫌な気配で分かる――赤子は再び、すずを襲おうとしていた。赤子の胴体が畳をずりずりと這いずって、少しずつ距離を詰めてくる。
「やだ……いやだぁっ……」
すずもお銀も、恐怖で足がすくんで動けない。お互いの体を抱きしめ合うことしかできなかった。
戦えるあやかしはもういないのか、閉ざされた襖の向こうからは、誰一人出てこない。救援の気配が、ない。
――誰でもいい。誰でもいいから、助けて……!
震えて動けない体で、お銀にしがみつきながら、すずは祈る。
蚊を叩き潰すような勢いで、赤子の手が二人に向かって振り下ろされたのと同時に――シャリン! という熊鈴の音が響いた。
(……大神様の、鈴の音?)
すずがおずおずと顔を上げた時、お銀の口から
「お館、様……」
という声が漏れた。
「悪い、出遅れた」
二人と赤子の間に立ってそう言ったのは、人間姿の大神だった。
「ぎゃあぁっ!」
振り下ろされていた赤子の手が、胴体が、そして頭部が、瞬く間に後ろへ吹き飛ばされる。
それは、大神の術だった――見えない壁から発された衝撃に阻まれ、赤子の体はゴロゴロと後ろへ転がっていく。
「耳を塞いで十数えな。その間に終わらせるからよ」
今の台詞は、すずに向けられたものだった。すずはそれを瞬時に理解し、言われたとおりに両耳をギュッと塞ぐ。
それを見て「いい子だ」と小さく呟いた大神は、腰に挿していた武器を手に取る──太刀のように刃渡りの長い、大きな鉈だった。
脚にグッと力を込め、一気に駆け出す大神。一直線に向かう先は、吹き飛ばされた先で未だに蠢いている赤子の物の怪だ。
向かってくる大神に抵抗しようと、手足を振り回して暴れる赤子。大神はその巨体に似合わぬ身軽さで手足を避けると、赤子の上半身を目がけ、ブンッと鉈を力強く振るう。大きさに見合った質量を持つ鉈は、刀剣というより、鈍器に近い──豪腕から繰り出される重い打撃によって、赤子の胴体は心臓ごと、真っ二つに叩き割られた。
さらに、大神は勢いに乗って体をひねり、そばでけたたましく泣き声を上げていた赤子の頭部を、一撃で叩き潰す。
赤子の物の怪はついに息絶え――力尽きた死体は黒く変色し、やがて灰になって形を失った。
「……大神様? あの……?」
「おう、すず。物の怪は倒したぞ」
十数え終えたすずが、怯えながら大神を呼ぶ。物の怪が消えた周囲は、しんと静まり返っていた。
すずには何が起きたか、当然見えていなかったのだが――この場合は幸いだったかもしれない。大神のあまりに荒っぽい戦いぶりに、お銀はぎゅっ、とすずを抱きしめ、目を背けていた。
「青梅、紅梅! 無事か?」
鉈を下ろしながら、大神はうずくまっていた鬼の子たちにも呼びかける。
「おれたちなら平気だよ、これくらい」
「なんてことないからね、あたしたち」
鬼の子たちはむくりと立ち上がり、手にしていた包丁をしまいながら答えた。
「お銀、もう顔を上げていいぞ。ドぎついモンを見せて悪かったな」
「いえ……大丈夫ですわ」
お銀は顔を上げ、辺りを恐る恐る見渡してから、ふうっと胸を撫で下ろす。
「坊や!? 坊や!! どこへいったの? 私の坊やはどこぉ!?」
赤子が開けた壁の穴から、鳥の翼を生やした女のあやかしが現れる。
向かわせたはずの我が子の声がしなくなったので、駆けつけたのだろう――女は、すっかり黒い灰と化した我が子を見て、悲鳴をあげた。
「いやああっ! 嘘、嘘、どうしてっ!? 坊や、坊や、私の坊やがあっ!!」
動転し泣きわめく女の物の怪に、赤子を斬った大神は淡々と答えた。
「すまねえな。ここに物の怪を入れるわけにはいかねえんだ。それに物の怪を見つけちまった以上、俺も斬らなきゃならねえ」
これも仕事の内なんでな、と付け加えて。
女は、我が子を殺した大神を怨嗟のこもった目で睨みつける。
「よくも、私の坊やを……っ! 許さない! お前たちみんな殺してや――」
今度は女が襲ってくるかと思ったが、ここで女の恨み節が不自然に途切れる。その直後、ごとっ、と畳の上になにか重いものが落ちる音がした。
女の頭部が、大神の鉈によって刎られていたのだ。当人も気づかぬ、ほんの一瞬の間に。
「悪いな、本当」
大神が言い終えると同時に、頭部が消えた女の胴体が後ろへ傾き、ぱたりと倒れる。
女の死体もまた、黒い灰になると──居心地の悪い沈黙が部屋に戻ってくる。
「……この方たちは」
お銀に抱きしめられたままのすずが、消え入りそうなかすれ声で、大神に言う。
「雪山に迷い込んで落命した母親と子供――の成れの果てといったところだな。物の怪になって十年は経ってるんだろう」
大神はようやく鉈を鞘に納め、静かに言う。心なしか、声が少し落ち込んでいるように、すずには聞こえた。傍らのお銀も、小さくため息をついている。
「十年もこんなのがうろついてたのかよ」
「そりゃこんなに凶暴にもなるわよね。怖い怖い」
鬼の子たちはそう言いながら灰を跨ぐと、部屋の外から箒と塵取りを持ってきて、手早く畳を掃きはじめる。
ざっ、ざっ、と箒で片付けられていく音を聞きながら、すずは胸を引っかかれたような不快感を覚えた。
「おーい、お前ら。物の怪は退治したぞ。もう大丈夫だ」
襖の奥へ逃げ込んでいたあやかしに、大神が呼びかける。あやかしたちはまだ少し混乱していたものの、退治されたと聞いて落ち着きを取り戻したようだった。野次馬癖のある者たちは、こぞって斬られた物の怪を覗き込もうとする。
「ほらほら、片付けはおれたちがやるから!」
「あたしたちの邪魔しないで、とっとと下がってよね」
鬼の子たちは一度箒と塵取りを放り出して、覗きにやってくる野次馬なあやかしたちを押し返す。
あやかしたちの声で騒然とする中、すずはお銀の腕の中からするりと抜け出て、先ほどまで鬼の子たちが掃除をしていた場所に近づいた。
「……おすずちゃん? どうしたの?」
お銀の視線の先には、なにかを手で探るようにして畳の上を這うすずの姿があった。畳を舐めてしまうのでは、というほど顔を伏せている。
「あ? なにしてんだ、人間?」
鬼の子たちも、すずの奇妙な行動に首を傾げる。それでも構わず、彼女は畳の上を這い続けた。
やがて、すずの手に、塵取りの中に集められていた灰が触れる。すずはそれを掴み取ると、まるで至近距離からそれを眺めるように、じっと見つめていた。
大神から思わぬお返しをもらったすずの熱は、未だ冷めやらない。お銀とともに洗濯物を畳んで紛らわそうにも、
「すずちゃんのおかお、まっかっか」「りんごみたいに、まっかっか」
と、鬼火たちが無邪気に歌ってくるので、すずはますます縮こまってしまう。
「お館様は元々狼だったそうだから、感覚がそっちに近いときがあるのよね」
「なるほど……そーいんでしたか……」
確かに、狼は群れで身を寄せあって生活する生き物だ。厳しい寒さの中、仲間同士で触れ合い、温め合うのは本能なのだろう。
狼に似ている犬だって好きな人間に飛びついたり、顔を舐めたりするので、大神が抱きしめて感謝を伝えようとしたのも頷ける。
しかしだ。男に慣れていないすずにしてみれば、あれは心臓に悪い以外の何物でもなかった。
「嫌なことは嫌とはっきり言って大丈夫よ。お館様、あれでも感覚のズレは気にしてらっしゃるみたいだから」
「うーん……嫌、ではなかったんですが……」
そう、嫌ではなかった。恥ずかしかったり、驚いたりしたのが大きくて、その結果逃げたくなってしまっただけで――本当は大神に抱きしめられたのが嬉しくて、ほんのちょっぴり浮かれていたのだ。
(というか……これってつまり、おらは大神様を男として意識してる、ってことなのか……!?)
だとしたら、それはかなりまずいのでは、とすずは自身に芽生えた感情を危ぶむ。
相手は人間ではなく、神様だ。そんな崇高な存在に、賎しい身分の自分が首ったけになっている場合ではない。ここは分をわきまえなければ。
すずはぶんぶんと激しく首を振り、頭をぽこぽこと叩く。
(しっかりしなせや、すず! ばあばも瞽女になるなら恋心は捨てろと言うたったろう!)
瞽女には厳しい戒律があり、その中で禁忌と定められているのが『男性と関係を持つこと』である。瞽女を稼業と定めたならば、一生それに従事しなければならない。世帯を持つことは瞽女には許されないのだ。
そう言って自分を戒めようとするすずだが、ふとここで気づいてしまう。
(でも、おらは現世で死んだことになってる。結局瞽女として修行することも、巡業していくこともねえんだよなあ。ここではこうしてお仕事をもらっているし、ご飯も寝床もあるし……)
過酷な瞽女稼業に比べ、大神屋敷での暮らしは快適そのものである。叩き込まれた唄の芸が生かされないのは寂しいけれど、すずはもう瞽女にならなくてもいいのだ。
瞽女として生きなくてもいいのならば、誰も迷惑しないよう、ひっそりと想いを寄せるだけなら許されるのでは? とも思う。
(……いやいや、待て待て。そういう問題じゃねえ! 瞽女になろうがなるまいが、こんげのおらが抱いていい感情でねえって言うてんがて!)
大神とて、先ほどの抱っこに深い意味はなかったはずだ。抱っこされたくらいで舞い上がるな、と自分に言い聞かせ、すずはひたすら洗濯物を畳むことに集中した。
せっせと畳んでいると、すずはおや? と指先から感じた違和に気づく。もう一度よく探ってみれば、子供用の衣服の縫い目がほつれていた。
「ここの縫い目……どこかに引っ掛けたんですかね」
「あらまあ。子供の着物って、すぐに破けるものよねえ」
「あとでおらが繕っておきましょう」
「貴方、お裁縫もできるの? すごいのねえ! でも、そんなに色々頼んじゃって大丈夫?」
「大丈夫です。むしろ、色んなお仕事をもらったほうが張り合いがあります」
すずにとっては、仕事を与えてもらえること自体がありがたいことなのだ。村ではむしろ迷惑だから働くなという雰囲気が漂っていた。すずがなにかをしようとする度に目をつけられて、少しでも危ういところがあれば仕事を取り上げられてしまう。すずにできたのは、自身の身の回りのことだけだ。
しかし、この場所は違う。お銀を含め、屋敷のあやかしたちはすずを信用してくれるし、変な気遣いもなくどんどん仕事をさせてくれる。やる気を見せれば見せるだけ喜んでもらえるので、すずとしてもやりがいがあるというものだ。
「恥ずかしい話だけど、お裁縫だけは苦手なのよねえ、私。他の女中に頼もうにも、冬の時期はみんな忙しいから、なかなか手が回らなくって。本当に助かるわ」
「お役に立てるのなら、なによりです」
他の人に比べれば、自分にできることなんてほんのひと握りだ。だからせめて、自分にできることだけは、精一杯やりたいものだ。
「そういえば、話は変わるんだけど。おすずちゃん、今夜は誰かと一緒に行動していた方がいいわ。特に、鬼火ちゃんとは絶対に離れない方がいい」
「? どういうことです?」
なぜ今夜に限って? とすずは不思議に思った。首を傾げるすずに、お銀は答える。
「このお屋敷は普段、お館様の結界に守られているの。屋敷に入ろうとする物の怪から守るためのね。けれど、今日はお館様が体を休める日だから、結界が張れなくて無防備になるわ。この隙を狙ってやってくる物の怪もいるから、みんな警戒しているの。貴方は特に、物の怪に狙われやすい体質だから、いつも以上に慎重に行動した方がいいわ」
「……重々気をつけます」
すずはこくこくと二度頷く。物の怪につけられた痣や盲目だけでもたくさんなのに、これ以上呪いをかけられてはたまらない。それに、目が見えないすずは、何かに襲われたとしても、逃げることがほとんど不可能だ。襲いかかられた、という時点で、彼女にとっては致命的である。
すずの不安を読み取ってか、お銀は彼女の背中をぽんぽんさすると、
「大丈夫よ。お館様は物の怪を倒すことができるから、何かあれば絶対に動いてくださるわ。私も物の怪を倒せるわけじゃないけど、時間稼ぎくらいならできるし。なんなら、私よりも頼りになるあやかしもいるわよ」
と言う。
「あやかしさんも戦うんですか?」
「ええ。一番はこの近くに住んでる双子の鬼たちね。大所帯があんまり好きじゃないみたいで、普段は屋敷の外にあるかまくらに住んでいるんだけど、屋敷の監視もしてくれてるの。あと、鬼火ちゃんの炎は物の怪が嫌がるから、おすずちゃんを守ってくれるはずよ」
「この子たちが……」
肩に乗った鬼火たちに指先で触れると、鬼火たちはきゃっきゃと喜びながら、すずの指に頬擦りをしてくる。
「だいじなすずちゃん、みんなでまもるよ」「もののけきたら、ぷーっ! ってなるよ」
鬼火たちが風船のように体を膨らませ、めらめらと炎を燃やしている。彼らなりの威嚇の構えなのだろうか。闘志を滾らせる姿は、頼もしいというよりは可愛らしいといった印象だが、やる気を出してくれているのはすずにとっても嬉しいことだ。
「ありがとうね、鬼火さん。頼りにしてるね」
と、すずは鬼火たちの頭を指で撫でた。
*
「よろっと飯の時間だろっかねえ」
地平線に太陽が足をつけ始めた頃。お銀の手伝いをあらかた終えたすずは、破けたりほつれたりした衣服を繕っていた。お銀は半刻ほど前に、夕食を仕込むと言ってひと足早く台所へ向かっている。
「きょうのごはんは♪」「なんだろな♪」「おだしのにおい♪」「おみそのにおい♪」
鬼火たちはぴょんぴょん飛び跳ねたり、ころころ転がったりながら、暇そうに夕刻の鐘の音を待ちわびている。作業の手を止めたすずも、腹の虫がそろそろ鳴きそうだった。
そんな時、表の戸がトントン叩かれる音がする。
「ごめんください。開けてもらえませんか? 道に迷ってしまって」
戸の向こうから訴えてくるのは、若い女の声だった。かすかに、赤子の泣く声も聞こえる。
「おきゃくさん?」「まよいびと?」
はしゃいでいた鬼火たちも神妙な面持ちで、襖の向こうにある玄関の方を見ている。
大神屋敷は鉈切山周辺のあやかしの拠り所なので、こういった来訪者も珍しくない。
お銀が台所から出てきて、「はあい、どなた?」と客人を出迎えた。
「突然、すみません。ここに来れば助けてもらえると聞いたので。どうか、一晩泊めてもらえませんか」
「まあ、寒いところを大変だったわね。さあ、上がって」
お銀が迎え入れた女は、切迫した様子で助けを求めていた。ふぎゃあふぎゃあと大声で泣いている赤子もいるようだ。
「この子がお腹を空かせて、泣き止まないんです。でもずっとお乳が出なくて、このままじゃこの子が……」
「大丈夫よ。ここにいるあやかしのお母さんたちに、お乳を分けてもらえないか声をかけてみるわ。でも、まずは早く温まりましょう」
お銀は胸の痛そうな声で、女を慰める。声まで凍えて震えている女に、親身に寄り添っていた。
玄関をあがり、廊下を歩いてくる彼女たちの会話を襖越しに聞いていたすずは、
「こんげとこに赤ん坊と迷い込むなんて、なーしたんろうねえ……」
と、気の毒そうに漏らす。
そんなすずの傍らで、鬼火たちはころんと首を傾げながら、無邪気に話し出した。
「ね、ね。あのこ、あかんぼう?」「もしかして、あばれんぼう?」「でも、そとみはあかんぼう」「でも、なかみはうそんこ?」
足音が近づいてくるにつれて、鬼火たちがそわそわしだす。彼らの話し声が大きかったので、慌てたすずが
「こら、そんげことおっきな声で言ったら、めっ! だぞ」
と注意する。
それとほとんど同時だっただろうか――ちょうど部屋の前を通りかかった女の足音が、ぴたりと止まった。
「? どうしたの? なにか気になることでも?」
足を止めた女に、お銀が怪訝そうに聞く。
「みつけた。今日のご飯」
次の瞬間――切なげだった女の声色が、暗く低いものに豹変した。
「え?」
「さあ、坊や。たんとお食べ」
赤子の泣き声も、大人の男のような野太い鳴き声に変化する。
襖の向こうで突如起こった異変に、すずは息を詰まらせる。全身の筋肉が一気に硬直し、悪寒が走り抜けた。
「――逃げて、おすずちゃん!」
お銀の警告と同時に、赤子の首が大蛇のように伸び、襖を突き破って乱入してくる。どうん! と大きな音が屋敷中を揺らした。
「きゃああっ!?」
風船のように大きく膨れ上がった赤子の首が、大口を開けてすずに襲いかかる。動けずに蹲ったすずの眼前まで赤子が迫った時、
「ぷーっ!!」
と、鬼火たちがおもちゃの笛のようなけたたましい声を上げ、威嚇した。
すずと赤子の間に割って入ってきた鬼火たちは、大福のような体を急激に膨らませた。西瓜ほどの大きさになった二体の鬼火たちの全身から、たちまち大きな炎がボワッと噴き出す。熱い炎を正面から受けた赤子が、おぎゃあと驚いて飛び退いた。
「立って!」
赤子が怯んだ隙に、お銀がすずを連れて走り出す。すると、こっちへ逃げろと二人を招くように、閉じられていた目の前の襖がぱんっ! とひとりでに開いた。まるで屋敷の建物自体が意思を持っているようだった。
二人は次々開いていく襖に導かれながら、奥の部屋へ逃げ込む。ほどなくして首を長くした赤子が、恐るべき速さで這いずりながら追跡してきた。鬼火たちの炎をかいくぐった赤子は、二人が通ったあとに閉ざされた襖を、バン! バン! バン! と次々に破って突進してくる。
「しつこいわね、もう!」
お銀はすずを連れたまま後ろへ振り返ると、赤子に向かってふうっと息を吹きかけた。
すると、今度は伸びてきた赤子の顔面が霜に覆われる。たちまち真っ白に凍りついた赤子は、動きがいっとき鈍くなるが、しかし。
「おぎゃああああ!!」
赤子がひときわ大きな声で泣き叫ぶと、顔を覆い尽くしていた霜や氷を、一瞬で吹き飛ばしてしまう。
「嘘でしょ……あれを破るなんて、どんな泣き声してるのよ!」
二人が逃げ回っているうちに、異変に気づいた他のあやかしたちも、悲鳴をあげて逃げ惑いはじめる。すると、混乱に陥った多数のあやかしたちの群れで、二人が逃げられる道が塞がれてしまった。
万事休すか──すずの長い髪を、赤子の手が掴みそうになった、その時だった。
「失礼するぜ!」
「よいしょっと!」
赤子に続いて、突如、二人の子供たちが乱入してくる。
真っ赤な肌をした、一本角の少年と、真っ青な肌をした、二本角の少女である。鬼の子たちは赤子が通ってきた道を、突風をも凌ぐ速度で駆け抜けてくると、二人を食おうとしていた赤子へ飛びかかった。
「うぎいいッ!?」
鬼の子たちが赤子の首をめがけ、大きな包丁のようなものをズドンと振り下ろす。細長く伸びた餅を鋭い刃物で斬ったときのように、赤子の首は綺麗に両断され、断末魔の叫びがあがった。
「お~! こりゃけっこうな大物だなあ」
「姑獲鳥の仲間みたいだね」
どうん、と赤子の体が倒れ込む。ぴくぴく動いている赤子を、鬼の子たちは悠長に覗き込んでいた。
しかし、目が見えないすずは、何が起こったのかも理解できず、混乱するばかりだ。
(おら、助かったんろっか……?)
状況をハラハラしながら探っていると、身を呈してすずを庇おうとしていたお銀が、そのまますずの体をぎゅうっと抱きしめてくる。
「ああ、おすずちゃん! よかった……!」
「わわっ、お銀さんっ」
お銀は今にも泣きそうな声だった。すずの細い体をこれでもかときつく抱きしめ、背中をさすっている。
「ごめんね、ごめんね! 私がつい屋敷に招き入れちゃったから……! 本当にごめんね……」
「そ、そんな、お銀さん……」
お銀は、まんまと同情心につけ込まれてしまった自分の過ちを、ひたすら謝り倒していた。
「まさか、親子の物の怪だったなんて思わなかったの……」
「物の怪? 今のおっかないのが、物の怪なんですか?」
「そーだよ」
すずの疑問に答えたのは、赤い肌の少年だった。
「人間やあやかしの負の情念から生まれた悪霊。汚らわしい化け物さ。ほら、死体を片付けるから、さっさとそこをどきな」
言って、少年は転がった赤子の死体を手に持ち、引きずろうとした。
――しかし。
「……まだ意識がある!」
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「青梅ちゃん! 紅梅くん!」
お銀が二人の名を叫ぶ。叩きつけられた痛みに鬼たちが悶えている間に、切り落とされた赤子の首が、再びすずを睨んだ。
「ひっ」
目が見えずとも、ふっとした空気の動きと、本能で感じる嫌な気配で分かる――赤子は再び、すずを襲おうとしていた。赤子の胴体が畳をずりずりと這いずって、少しずつ距離を詰めてくる。
「やだ……いやだぁっ……」
すずもお銀も、恐怖で足がすくんで動けない。お互いの体を抱きしめ合うことしかできなかった。
戦えるあやかしはもういないのか、閉ざされた襖の向こうからは、誰一人出てこない。救援の気配が、ない。
――誰でもいい。誰でもいいから、助けて……!
震えて動けない体で、お銀にしがみつきながら、すずは祈る。
蚊を叩き潰すような勢いで、赤子の手が二人に向かって振り下ろされたのと同時に――シャリン! という熊鈴の音が響いた。
(……大神様の、鈴の音?)
すずがおずおずと顔を上げた時、お銀の口から
「お館、様……」
という声が漏れた。
「悪い、出遅れた」
二人と赤子の間に立ってそう言ったのは、人間姿の大神だった。
「ぎゃあぁっ!」
振り下ろされていた赤子の手が、胴体が、そして頭部が、瞬く間に後ろへ吹き飛ばされる。
それは、大神の術だった――見えない壁から発された衝撃に阻まれ、赤子の体はゴロゴロと後ろへ転がっていく。
「耳を塞いで十数えな。その間に終わらせるからよ」
今の台詞は、すずに向けられたものだった。すずはそれを瞬時に理解し、言われたとおりに両耳をギュッと塞ぐ。
それを見て「いい子だ」と小さく呟いた大神は、腰に挿していた武器を手に取る──太刀のように刃渡りの長い、大きな鉈だった。
脚にグッと力を込め、一気に駆け出す大神。一直線に向かう先は、吹き飛ばされた先で未だに蠢いている赤子の物の怪だ。
向かってくる大神に抵抗しようと、手足を振り回して暴れる赤子。大神はその巨体に似合わぬ身軽さで手足を避けると、赤子の上半身を目がけ、ブンッと鉈を力強く振るう。大きさに見合った質量を持つ鉈は、刀剣というより、鈍器に近い──豪腕から繰り出される重い打撃によって、赤子の胴体は心臓ごと、真っ二つに叩き割られた。
さらに、大神は勢いに乗って体をひねり、そばでけたたましく泣き声を上げていた赤子の頭部を、一撃で叩き潰す。
赤子の物の怪はついに息絶え――力尽きた死体は黒く変色し、やがて灰になって形を失った。
「……大神様? あの……?」
「おう、すず。物の怪は倒したぞ」
十数え終えたすずが、怯えながら大神を呼ぶ。物の怪が消えた周囲は、しんと静まり返っていた。
すずには何が起きたか、当然見えていなかったのだが――この場合は幸いだったかもしれない。大神のあまりに荒っぽい戦いぶりに、お銀はぎゅっ、とすずを抱きしめ、目を背けていた。
「青梅、紅梅! 無事か?」
鉈を下ろしながら、大神はうずくまっていた鬼の子たちにも呼びかける。
「おれたちなら平気だよ、これくらい」
「なんてことないからね、あたしたち」
鬼の子たちはむくりと立ち上がり、手にしていた包丁をしまいながら答えた。
「お銀、もう顔を上げていいぞ。ドぎついモンを見せて悪かったな」
「いえ……大丈夫ですわ」
お銀は顔を上げ、辺りを恐る恐る見渡してから、ふうっと胸を撫で下ろす。
「坊や!? 坊や!! どこへいったの? 私の坊やはどこぉ!?」
赤子が開けた壁の穴から、鳥の翼を生やした女のあやかしが現れる。
向かわせたはずの我が子の声がしなくなったので、駆けつけたのだろう――女は、すっかり黒い灰と化した我が子を見て、悲鳴をあげた。
「いやああっ! 嘘、嘘、どうしてっ!? 坊や、坊や、私の坊やがあっ!!」
動転し泣きわめく女の物の怪に、赤子を斬った大神は淡々と答えた。
「すまねえな。ここに物の怪を入れるわけにはいかねえんだ。それに物の怪を見つけちまった以上、俺も斬らなきゃならねえ」
これも仕事の内なんでな、と付け加えて。
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「よくも、私の坊やを……っ! 許さない! お前たちみんな殺してや――」
今度は女が襲ってくるかと思ったが、ここで女の恨み節が不自然に途切れる。その直後、ごとっ、と畳の上になにか重いものが落ちる音がした。
女の頭部が、大神の鉈によって刎られていたのだ。当人も気づかぬ、ほんの一瞬の間に。
「悪いな、本当」
大神が言い終えると同時に、頭部が消えた女の胴体が後ろへ傾き、ぱたりと倒れる。
女の死体もまた、黒い灰になると──居心地の悪い沈黙が部屋に戻ってくる。
「……この方たちは」
お銀に抱きしめられたままのすずが、消え入りそうなかすれ声で、大神に言う。
「雪山に迷い込んで落命した母親と子供――の成れの果てといったところだな。物の怪になって十年は経ってるんだろう」
大神はようやく鉈を鞘に納め、静かに言う。心なしか、声が少し落ち込んでいるように、すずには聞こえた。傍らのお銀も、小さくため息をついている。
「十年もこんなのがうろついてたのかよ」
「そりゃこんなに凶暴にもなるわよね。怖い怖い」
鬼の子たちはそう言いながら灰を跨ぐと、部屋の外から箒と塵取りを持ってきて、手早く畳を掃きはじめる。
ざっ、ざっ、と箒で片付けられていく音を聞きながら、すずは胸を引っかかれたような不快感を覚えた。
「おーい、お前ら。物の怪は退治したぞ。もう大丈夫だ」
襖の奥へ逃げ込んでいたあやかしに、大神が呼びかける。あやかしたちはまだ少し混乱していたものの、退治されたと聞いて落ち着きを取り戻したようだった。野次馬癖のある者たちは、こぞって斬られた物の怪を覗き込もうとする。
「ほらほら、片付けはおれたちがやるから!」
「あたしたちの邪魔しないで、とっとと下がってよね」
鬼の子たちは一度箒と塵取りを放り出して、覗きにやってくる野次馬なあやかしたちを押し返す。
あやかしたちの声で騒然とする中、すずはお銀の腕の中からするりと抜け出て、先ほどまで鬼の子たちが掃除をしていた場所に近づいた。
「……おすずちゃん? どうしたの?」
お銀の視線の先には、なにかを手で探るようにして畳の上を這うすずの姿があった。畳を舐めてしまうのでは、というほど顔を伏せている。
「あ? なにしてんだ、人間?」
鬼の子たちも、すずの奇妙な行動に首を傾げる。それでも構わず、彼女は畳の上を這い続けた。
やがて、すずの手に、塵取りの中に集められていた灰が触れる。すずはそれを掴み取ると、まるで至近距離からそれを眺めるように、じっと見つめていた。
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