大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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一章『大神屋敷』

(四)

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「大神様、失礼いたします」

 周囲よりもやや豪華な装飾の襖に立ち、すずは声を上げる。「どうぞ」と返答があったので、すずは取っ手に手をかけ、襖を開けた。

「おや、すず殿。巫女装束に着替えられたのですね」

 彼女を迎えたのは大神ではなく、薊だった。
 薊が袖を差し出してくれたので、すずは掴まりながら返事をする。
 
「神様にお仕えするからと、お銀さんが用意してくださって」
「左様でしたか。ああ、一歩先に段差がありますから、気をつけてお入りなさい」
 
 すずが敷居を跨いで室内に入ると、先ほどの椿油とはまた違った香木の香りが、室内を満たしていた。
 香りを吸って体の中に取り込むと、張り詰めていたものがほろっと緩んでいく感じがする。

「いいにおい~」「ふわふわぁ~」

 すずの肩に乗っていた鬼火たちも、優しげな香りにとろりと目を細めている。

「疲れや緊張をほぐす効果のあるお香を焚いておりまして。お嫌いではないですか?」
「大丈夫です。この匂い、おらも好きです」
「それはよかった」
「ところで、大神様はどちらへ……」
「いらっしゃいますよ。貴方の爪先のすぐそばに」
「え? ……うひゃあっ!?」

 すずはあられもない悲鳴をあげ、薊の袖を掴みながらぴょっと飛び上がる。
 というのも、薊に言われたのと同時に、すずの足になにかが飛びかかってきたからだ。

「お館様、目が見えない彼女にいきなり飛びついたら、吃驚されますよ」
「えっ!? お館様!?」
 
 確かに、足元のほうから、ぱたぱたと小さな動物が走り回っているような音がする。さらに、はふはふと興奮したような息遣いも聞こえる。
 これではまるで――

「お、大神様……もしかして、本当にわんこになってます?」
「わんっ!」

 元気よく返ってきた返事は、完全に子犬のものだった。普段のびりびり響くような低い声とは全く違う、無邪気で可愛らしい吠え声だ。

「ちっちゃいおやかたさまだあ」「わんわん~」
 
 大好きな飼い主が現れた時のように、彼は前足ですずの足に飛びついたり、早く撫でろと言わんばかりにすずの手に額を押し付けてくる。
 すずは腰をかがめて、子犬ほどの大きさになった大神をふわふわ撫でる。顔を撫でてみると、右目に眼帯をしているので、確かに大神だとわかった。

「お館様は昨夜の仕事でお疲れでして。何かあった時のための力を温存するために、今はそのお姿なのです。先ほどまではそこの座布団の上で潰れていましたよ」
「大変だったんですね……」

 しかし、潰れるほど疲労困憊だった大神が、すぐに駆け寄ってきてくれたのだと思うと、すずとしてはなんだか嬉しい。すずは大神の体をひょいと抱き上げると、壁伝いに部屋の真ん中まで行って正座した。 
 
「毛づくろいって、具体的に何をするのですか? おら、動物のお世話をしたことがなくて……」
「今日のところは撫でて差し上げるだけでも結構ですよ。お館様も相当お疲れのようですので」

 大神は尻尾だけ振りつつも、すずの膝の上でくたっと伸びている。彼女が来た喜びで少しだけ動きはしたものの、できればもう動きたくないようだ。
 すずは大神の額を、毛並みに沿ってゆっくり撫でてみる。すると、大神はきゅうきゅう鳴きながら、すずに甘えだした。あまりの可愛い声に、すずも思わず笑みがこぼれてきてしまう。

「めんこいなあ、大神様。おら、こんげいいお仕事もらっていいんろっかねえ」
 
 もふもふの神様を撫でるだけの仕事です。……という言葉の響きは大変魅力的ではあるものの、果たして本当にそれでいいのだろうか? とすずは首を傾げる。
 なにかが不都合というわけではない。すずにとっては役得だし、大神もうっとりと目を細めて気持ちよさそうだ。
 しかしながら、これを労働と呼んでいいものか、正直すずには釈然としない。微笑みつつもやや困惑気味のすずを見てか、脇に控えていた薊が説明を始めた。

「意外かもしれませんが、人間やあやかしに触れてもらう行為は、大神様にとって非常に大事なことなんですよ。そうすることで力を補給することができますので」
「へえ」

 額のあたりを撫でていたすずは、さらに手を移動させて、頭のてっぺんや首のあたりを撫でてみる。すると、撫でる手の動きを邪魔しないよう、大神の小さな耳がぺたんと伏せられ、もこもこの毛並みに埋もれる。完全に撫でられるための姿勢であった。

「筋がいいですね、すず殿は。お館様が寝そうになっていますよ」
「そうですか? ご満足いただけてますかね?」

 大神の口から、きゅうん、と甘えん坊の犬のような声が聞こえて、すずは(うーん、めんこい……!)と密かにときめく。

霊力れいりょくを持った存在に直に触れてもらうことは、大神様の『神力じんりき』を補給して、力の流れを整えるのに役立つのです」
「じんりき?」
「読んで字のごとく、神様の力のことです。そして『霊力』とは人間やあやかし、植物や動物など、あらゆる生命に宿る根源的な力のこと。ですので、私にもすず殿にも、霊力は宿っています」
「うーん……だども、霊力ってあんまり分かりませんねえ」

 霊力という単語自体は聞いたことがあっても、すずにはそれがどういったものなのか、実態がよく分からない。なので、自分に霊力が宿っているということもまた、感覚としてわからないのだ。
 うんうん首をひねっているすずに、薊は微笑んで言う。

「普通はそうですよ。ある程度修練を積んで神職や修験者にならなければ、霊力を操ることはおろか、感じ取ることさえままならないでしょう。ですが、霊力はあらゆる生命に必要な力。霊力が尽きた生命は魂を維持できなくなって、ご臨終になってしまいます」
「ご臨終……」

 薊が茶化すように合掌すると、いつの間にかすずの肩から頭に移動していた鬼火たちも、小さな両手を合わせて「ちーん」「ぽくぽく」と遊び始めてしまった。

「さて、神力と霊力の関係ですが、すず殿は照日ノ国に伝わる国生みの神話をご存知ですか?」
「ええと……この国は照姫様てるひめさまがもたらした恵みの力によってできている、ってお話ですよね」
「そのとおり」

 照日ノ国はもともと、生命のない不毛の島であった。それを見かねて舞い降りたのが、原初の女神・『照日大御神てるひのおおみかみ』――通称『照姫てるひめ』だ。照姫が神の力を使って恵みをもたらすと、島には草木が芽吹き、鳥や虫や獣、さらに人や人ならざるものといった、あらゆる生命が誕生した。生命たちは母神たる彼女を女王として崇め奉り、感謝を伝えるため、日々供物や祈りを捧げるようになったという。
 その後、照姫は天上の都へ帰ることになるのだが、彼女の後継たる四島守護神が島を治めるようになってからも、生命たちはその風習を絶やさぬよう伝えてきた。そして、島はやがてひとつの国として発展を遂げ、照姫の名前から『照日ノ国』と呼ばれるようになった。
 ──というのが、この国に伝わる『国生み』の神話である。

「我々が日々口にする食事も、元をたどれば霊力を宿した動植物です。この世の森羅万象に宿る霊力は、神々によってもたらされる恵みを糧とします。神々が恵みをもたらすときに必要なのが、神力なのです」
「ふむふむ」
「ところが、神力は無限に湧くわけではありません。原初の女神たる照姫様以外の神は、神力の補給を必要とするのですよ。その補給元というのが、現世から捧げられる祈りや供物なのです」

 すずはここで、自分の頭を指でとんとん叩く仕草を見せる。これは彼女の癖のようなもので、頭に入ってきた情報を一旦整理したい時などにする行為だ。

「ええと、おらたちのような村の人間は、神様の力で実った作物の一部を感謝の気持ちとしてお返ししていて、神様はその供物から力を回復している。……ということは、霊力と神力はぐるぐる回っているということですか?」
「ご明察です。すず殿は賢いですね」

 いえ、そんなことは……とすずが謙遜しようとすると、彼女の頭上にいた鬼火たちが歌うように「すずちゃん、さすが」「すずちゃん、てんさい」と盛んに褒めてくる。
 照れ隠しのように熱くなった頬をぎゅっと押さえるすず。
  
「現世の人間たちは、神々へ作物などの供物を捧げたり、祈祷や神楽の儀式を行うことがあるでしょう。これが神々にとっての大事な力の源となるのです。神は現世から贈られる霊力を神力として蓄え、その神力で再び恵みをもたらし、生命たちに霊力として還します」

 つまり、神力と霊力は、神とあらゆる生命との間で、形を変えながら常に循環している……ということだ。
 ここまでは分かりましたか? と確認する薊に、すずはなんとか頷く。
 しかし、この間、すずは思考に気を取られて、撫でるのが疎かになっていた。大神は「なんでやめるの!」とばかりに、止まっていた彼女の手にかぷっと噛みつく。

「わわ! ごめんなさい、大神様」
 
 大神は膝の上で体勢を変えたかと思うと、今度はお腹を見せてきた。

「今度はお腹側ですか? よしよし~」
「きゅう~」

 大神のお腹はもこもこしていて、撫でているうちに手が毛並みに埋まりそうになる。温かくて柔らかくて気持ちよくて、くせになりそうな撫で心地だ。
 しかし、触っているうちに、すずはあることに気づく。

「なんだか、毛がちょくちょく抜けていますね? 生え変わりですか?」
「いいところに気づいてくれました」

 薊はすずに拍手を送ると、さらに説明を加えた。

「簡単に言うと、栄養不足です」
「栄養不足?」
「北国島の民から捧げられる供物の多くは作物や魚、獣肉などです。しかし、ここ数年は異常気象が続いてしまっているせいか、供物の質が落ちているのです。お館様はずっと、神力を十分に回復できていない状態なのですよ」
「ええ!? 大丈夫なんですか、それは!」

 心配になるすずだが、それには及ばないと薊は言う。

「神力が少ない状態でも、お館様が今すぐ具合を悪くすることはありません。ただ、神力が足りない今、お館様は現世に十分な恵みを与えることができません。当然、現世の作物にも影響は出ますし、気候条件も重なって翌年の供物の質がまた下がってしまいます。そしてまたお館様が神力を回復できない……そういう悪循環ができあがってしまっているのです」
「そう、だったんですか……」

 すずは話を聞いている最中、村での様子を思い出していた。
 というのも、彼女が住んでいた村ではここ数年、不作が続いていたのだ。一番影響が大きかったのが穀類で、春夏の間に病気になってしまったり、やっと収穫しても実りが悪かったりしたという話を聞く。村人たちが食べられる穀類はほんのわずか。お供え用のお神酒を作ることもままならない。味の質も下がっているようだった。
 近隣の村も似たような状況だったそうなので、大神にもまた、質のいい供物は届けられない状態だったのだろう。人間の力ではどうしようもできなかった――とは言っても、神力を削りながら恵みを与えてくれていた大神に対して、これではあまりに申し訳が立たない。
 すずは村人たちの代わりに、大神に向かって土下座でもして謝り倒したくなった。

「そこで、すず殿の出番です」

 ……のだが、こんなところで自分の名前が出てくるとは思わず、きょとんとする。
 なぜそこで、自分が関わってくるのか。すずは少しハラハラしながら、薊の続きの言葉に耳を傾ける。

「万物に宿る霊力にも、質というものがありましてね。すず殿、貴方は霊力の質が非常にいい。百年に一度現れるかどうかの逸材だと、お館様が仰っていましたよ」
「お、おらがですか?」
「ええ。神と、良質な霊力の持ち主にしか懐かない鬼火たちが、常にすず殿の周りにいることも、なによりの証拠ですね」
「そーいん?」

 すずは頭上に移動していた二体の鬼火に触れながら、尋ねてみる。頭を撫でられたと思ったのか、きゃあきゃあと嬉しそうにはしゃぐ鬼火たち。

「すずちゃん、やさしい」「たましい、きれい」「あったかくて、つよいんだよ」「おおがみやしきみたいに、ぽかぽかしてるの」

 よく分からないが、鬼火たちにとって、すずは居心地のいい宿のようなものらしい。
  
「実は、お館様がすず殿に毛づくろい役をお願いしたのは、貴方の良質な霊力を分けてもらうためでもあったのです。貴方は少量の霊力で、お館様の神力を大きく回復させることができます。北国島により大きな恵みをもたらすことや、この大雪を抑え込むことも可能になるでしょう」
「そうなんだ……」

 生贄として捧げられたのが自分でよかった。これならば、生贄としての役割は十分果たされるだろう。村の人間たちも飢えから解放される。
 ──騙されて生贄にされておきながら、おかしな話ではあるが、すずは純粋に思った。
 すずが安堵していると、彼女の膝の上で大人しくしていた大神が、不意にひょこっと立ち上がる。

「大神様? もういいんですか?」
 
 大神はそのままぎゅーっと伸びをしたかと思うと、すずの膝の上から、畳に転がるようにでんぐり返りをする。驚いたのは次の瞬間だった。

「んん~っ! 整ったあ!」
「!?」

 それまで犬語しか喋らなかった大神が、いきなり人語を話し始めた。しかも彼は、すずの膝から降りたかと思うと、正座していたすずを抱き上げた。そして、お返しとばかりに軽く頬擦りをしてきたのだが――それがまた、すずを動転させた。

「お、大神様……え?? あれ?? もふもふじゃない!?」

 どう考えても、頬に感じるのは人の皮膚の感触だった。がっしりした体型には覚えがあれど、ちっとも毛の生えていないさらさらした人肌には、まったく馴染みがない。

「あれ、言ってなかったっけ? 俺、人間に近い姿も取れるんだぞ。最近は神力を節約したくて、獣人のままだったけどな」
「え……えええええええ!?」

 盲目のすずには分かりようもないが、人間姿の大神はかなりの美丈夫だった。
 目鼻立ちははっきりとしており、眉が太めなのもあって、キリッと凛々しい印象だ。黄金色の瞳は稲穂の海、つやのいい濃紺の髪は冬の澄んだ星空を思わせる。
 厳しくも美しい自然を持つ北国島の神に相応しい、神秘的な見た目であった。
 大神は声を上げて驚いているすずに、更なる追い打ちをかける。
 
「ありがとな、すず~。お前がたくさん撫でてくれたおかげで、すげー回復できた! ん~っ!」

 大神はお礼のつもりなのか、なんとすずをぎゅっと抱き締めてきたのだ。
 今までまともに男性と接触したことがなく、それどころか男性など一生無縁だと思っていたすずである――太くたくましい腕も、分厚い胸板も、体温や鼓動も、彼女にはいささか刺激が強すぎる。

「ひいいい! 堪忍してくらっしぇ~っ!! おおお男の人に抱っこされるなんて、おおおおおらには早いですうう!」

 すずの体温は急上昇して、今にもボン! と破裂してしまいそうだった。顔から耳まで真っ赤に染めあげ、大神の腕の中でじたばたと暴れている。
 しかし、大神からしてみれば、すずの反応は思ったものとは違ったようで、

「え、だめだった?? すずは抱っこが嫌いか?」
 
 と、首を傾げていた。
 いつまでもすずを離さないでいる大神に、

「十六歳の女性が、初対面も同然の男性から抱っこされて嬉しそうに受け入れるわけないでしょう……」

 と薊が苦言を呈す。
 
「ええ? 十六歳なんてまだ子供じゃん。屋敷に来る子供は皆、これで喜ぶぞ?」

 大神にはまったく悪気はない。単に相手を喜ばせたかっただけなのだろう。しかし、これはまるでなにも分かっていないようだ。薊はやれやれとかぶりを振った。
 
「人間の十六歳は、半分大人みたいなものです。いくら大神様と言えど、女性を子供のように扱うのは失礼ですよ」
「うーん、そっかあ、よくなかったか……ごめんな、すず」

 しゅんと謝りながら下ろしてくれる大神に、すずはただ、
 
「はひい……」

 と力の抜けた返事をすることしかできなかった。
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