大神様のお気に入り

茶柱まちこ

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序章『洞穴の少女』

(一)

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 真冬の川の土手で、童女は叫ぶように唄っている。
 着物一枚に目隠しという奇妙な姿で、小柄で痩せた体型からは想像もつかぬような声で、懸命に唄う。遠くの空を飛ぶ渡り鳥を撃ち落とさんばかりに、力強く唄う。
 当然、それだけの声を出せば喉が潰れてくるが、どんなに喉が痛んでも、彼女は唄うのを止めない。血の味がしてきても、ただひたすら唄い続ける。
 照日ノ国てるひのくににある北国島ほっこくとうは、他の三つの島のどこよりも圧倒的な積雪量を誇る。一年の実に半分が寒風にさらされるこの島では、古来より『寒声かんごえ』と呼ばれる独自の唄修行が行われていた。寒中で声を出し、喉を鍛えるのだ。
 そうしてのびやかな声を手にしたあかつきには、寒さに凍える人々の心に唄を届ける。それが盲目の唄女うたいびとたち――『瞽女ごぜ』である。

「すず。よろっと帰るけ、戻ってこ」

 土手近くの小屋にいた祖母が呼びかけてきたところで、彼女――すずは、ようやく唄うことをやめた。すずは祖母の声がした先を目指し、どっさりと降り積もった雪をかき分け、祖母の元へ転がるように駆け寄る。祖母は鷹のように鋭い目ですずを見た。

「のめしこかんかったがか?」
「うん。神様が見てるすけ、しっかとお稽古したがよ」
「そんだらいい。のめしこきは立派な瞽女ごぜになれんっけな。ほれ、早う着なせや」

 すずは祖母から差し出された半纏はんてんを受け取ると、それをくるくる回して、やっとこさ、すぽんと袖を通す。仕上げに半纏の紐を結び、「できたよ~」と得意げになるすず。しかし、祖母はそんな彼女を見て、やれやれと呆れ顔だった。

「そいじゃあ上と下があべこべだがね」
「あっきゃ、ほんとだ」

 すずは半纏の紐をほどき、今度は上下を直してから袖を通して、紐を結び直す。しかし、これでも祖母は良しと言わない。

「ちょうちょがおねんねしてしもうてる、縦結びだが」
「あれ? おっかしいなあ。ばあば、むすんでよう」
「甘ったれんでねえ。そんがんことも一人でできねえんじゃ、またおまんま抜きにしねばならんてさ」
「やだ、おまんまたべたい!」
「んだら、ばあばにばっか頼ってねえで、自分で直しなせ」

 すずはそう言われたので、紐を何度も結ぼうとするが、なかなか上手くいかない。縦結びになったり、蝶結びにならずに解けてしまったりで、四苦八苦している。助けを求めようにも、祖母は突き放して見守りに徹するばかりで、一向に手を貸してくれない。十度目の挑戦で「う~っ!」と唸り、癇癪かんしゃくを起こしそうになっているすずに、祖母は言い聞かせた。
 
「おめさんは目が見えねえすけ、人一倍苦労もあるこってさ。だろも、身の回りのことは自分でしねばならん。今からばあばの手を借りて甘ったれたら、おめさんは将来なんもできんお人形さんになるがよ」

 すずはこの時、たったの五歳。しかし、既に両方の目が見えていなかった。
 なので、彼女にとっての世界とは、出入口のない洞穴ほらあなのようなものだ。
 同じ年頃の子供が明るい目で見ながら容易に紐を結べるのに対し、すずは手の感覚しか頼るものがない。上手く結べているか、失敗してしまったかは、祖母に指摘されるまで分からないのだ。

「お人形さんになったら、いつか狒々ひひが住む山にぶちゃられるんだがや」
「ひひ? ひひってなあに?」
「あっこの山ん中に住んでる、でっこい猿の物の怪だがね。時折人里に降りてきては畑を荒らして悪さしたり、人を食っちまう。なんでも、狒々は若い娘やおめさんみてえな幼げな子供の肉が大好物だとか……」

 祖母の低く凄みのある声もあって、すずは薄暗い寒気に襲われる。

「やだ、やだ。ばあば、すずのことおいてかないでくらっしぇ」
「やなら早う結べ。狒々が降りてきちまう」

 半泣きになるすずの心に深く刻みつけるよう、祖母はいつものように口を酸っぱくして言う。
 なにもしないようではただの人形と一緒。お荷物になってしまう。いらなくなったお荷物はぽいっと捨てられるのがオチだ、と。
 だから、この時もすずは、気が気でなかった。
 今ここできちんと紐が結べなければ、祖母に首根っこを掴まれて、山にいる狒々の餌にされてしまう。あるいは、冷たい川の中に投げ込まれてしまう。そんなことを、本気で思ったのだ。
 泣きそうになりながら、震える手を無理やり動かし、すずは紐をなんとか結び直した。

「ようし、結べたな。そろっとおめさんにも三味線を教えてやろうかね」
「ばあばの三味線、すずにも弾かせてくれるの?」
「ばっか、おめさんにあの三味線はまだ早えが。子供用のに決まってるて」
「ええ~」
「文句たれるんでね。日も暮れるすけ、早うおうちに帰るよ」
「はあい……」

 すずが祖母に向かって手を伸ばすと、祖母はその手を包むように捉え、握りつぶさない程度の力でしっかりと握った。

「へへ、ばあばのおてて、おっきくてあったかいねえ。すず、ばあばのおてて、だあいすき!」

 シワシワでハリのない手から伝わる温もりは、馴染み深いもののはずなのに、寒空の下ではどういうわけか、特別感がある。
 すずにとって、祖母は厳しくも温かい、かけがえのない人だった。
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