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四章「崩れた少女」
その五
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――総括して、今回の私は傍観者になれなかった。 それゆえに、失敗を重ねた。譚の傍観者ではなく当事者として、譚の読み手ではなく創り手として、衝動で動いてしまった結果――その全てが裏目に出てしまったのだ。
あの時、ああしていれば。あの時、ああ言えば。あの時、怒りを抑えていれば。――様々に過去の言動を悔いたところで、もう後の祭りだ。
ならばいっそ、私は当事者として、この譚を終結に導こう。
「ほら、主自身もこう綴ってるでしょ。ちゃんと原本の文字も追わないと」
ミツユキは唯助が手にしていた原本の字をなぞっていた。唯助もそれに合わせて文章の内容を咀嚼する。
「……じゃあ、つまり、旦那が関わったせいで、実井邸の火事は起きたってことか?」
「それは分からない。でも、実井正蔵がああまで狂ってしまっていたのなら、実井寧々子も遠からず死ぬ運命にあったんだろう。漆本蜜が関わった時点では、もう取り返しのつかないところまで来ていたんだ」
いくら譚を読み解いても。
いくら譚を聞き取ったとしても。
いくら選択肢を掲示したとしても。
実井寧々子が父と共に死ぬその結末は、もはや確定的だった。
「主はそれに気づいていたんだと思う」
「……でも、寧々子さんを死なせたくなかった」
実井寧々子という人物を愛してしまったが故に。傍観者に徹するべきだった漆本蜜は、いつの間にか当事者となって、譚に乱入してしまった。
「でも、それでどうして、旦那は自分を責めてるんだよ。正蔵さんを譚殺しにしたのは悪いことだったかもしれねえけど、それは寧々子さんを助けるためにやむを得ずしたことで――いや、それだけじゃなくて、旦那は寧々子さんを助けるために、あれよこれよと気を回して頑張ってただけだろ」
「それ自体を責めてるんだよ、主は」
三八を懸命に庇おうとする唯助に、ミツユキは冷徹に返す。まるで、三八の心を代弁するかのように。
「どうやったって死ぬ運命だった実井寧々子を、譚を書き換えて生かす――それは、読み手としてやっちゃいけないことだったんだ。
もう一度、読み返してみなよ。主は自分がした行いを皮肉って書いたんだと思うよ」
……確かに、思い返してみればその通りだったと、唯助は納得してしまった。
お嬢さんを想うばかり、S氏と冷静に話をすることができなかった。
するべきではないと分かっていたくせに、S氏と真っ向から口論してしまって自ら首を絞めてしまった。
あの時、ああしていれば。あの時、ああ言えば。あの時、怒りを抑えていれば。
――あの文章たちは、そうやって様々に過去の言動を悔いながら、己の不甲斐なさを責め立てているようにも見える。
「でも、寧々子さんは! 七本音音になって、旦那のところに嫁いで、幸せになれたじゃねえか。旦那だって、それ自体は喜んでるはずだろ?」
「最終的にはね。でも、すべてがハッピーの大団円じゃないことくらい、君だって気づいているだろう」
そう言われて、唯助はなにも反論できなかった。あの二人は共に寄り添って歩んでこそいるものの、背負っているものがとてつもなく重いのだ。唯助はつい先日、その一端に触れたばかりである。
「ともかく、これは彼らが迎えていたかもしれない数ある展開の中で、最も悪い展開だった。
誰も幸せにならず、誰も報われることなく、誰もが損をし、誰もが悔いた。
それが、実井邸の火災にまつわる譚だ」
ミツユキが、解を導く。無情にも、唯助にとっても、その解釈が一番腑に落ちてしまった。
それを合図としたように、辺りを覆っていた暗幕が、徐々に薄らいできた。
*****
「漆本様はお気づきではなかったでしょう。貴方がわたくしを連れて火の海から逃げるとき、最期に、お父様は笑ったのです」
そこは既に火災現場の林ではなく、とある一室の中だった。かといって実井邸のような洋式の部屋でもなく、襖と畳と天井板で囲われた大陽本式の部屋であった。
かすかに揺れる電球がぼんやりと部屋を照らす中、着物に身を包んだ少女と男が、向かい合って座布団に座っていた。
「娘を見送るための笑顔ではありません。あれは、安堵の笑顔です。父様はようやく生きる苦しみから解放されることに安堵して、笑ったのです」
覇気もなければ抑揚もない、幽霊のような声で、少女が話す。少女――実井寧々子が、語る。
「わたくしも、いっそ死んでしまえればよかった。あんなふうに安らかな笑顔で死ねたらよかった」
口元には薄く笑みを浮かべているものの、目元は全く笑っていない。
下を向いていた虚ろな瞳が、ころんと上を向く。重たげにかかった長い睫毛が、少しだけ持ち上がる。
「父を見殺しにした貴方を恨んでいるわけではありません。むしろ、お父様を解放していただいたことには感謝しています。……けれど」
目の前に腰を据える男を見たときの彼女の瞳は真っ黒に濁っていて、冷たい氷のようだった。
それを傍観していた唯助は、先日の音音との会話で感じた薄ら寒さを思い出した。
「漆本様。わたくしは、これからどう生きれば良いのですか。どう生きろと言うのですか。もう、わたくしは生きたくないのです」
失礼ながら、先日自分が言った幽霊という喩えは、あながち間違いではなかったのかもしれないと唯助は振り返る。
死んだ人間が生皮を被って、生者さながらに振舞っている――今の彼女にこそ、この表現が似つかわしいと言えるだろう。
「生きたくないなら、死んでもいいんだよ」
対して、男――七本三八は、彼女にそう返した。
奇を衒うかのように、しかし、気を違えた様子はなく。
「死にたくてもいいんだ。それでいい。でも、死のうと思ったら死にも向き合わなければ。どうやって生きるかを考えるように、どうやって死ぬかを考えるんだ」
至極真面目に、三八は彼女に説いた。
七本音音ならばいざ知らず、実井寧々子ではさすがに三八の物言いを解することはできなかったようで、彼女は完全に戸惑っていた。
そんな彼女を置いていくように、三八はさらに
「目を閉じて五つ数えて」
と訳の分からない指示を出す。目を瞬かせる寧々子。「ほら、目を閉じてごらん」と三八から催促されて、彼女は戸惑ったまま目を閉じた。
丁寧に膝に置かれた寧々子の手の下に、三八はある本を差し込む。寧々子の手がその本に触れた途端、和室の光景がぐにゃりと歪んだ。
驚いた唯助が、そばにいたミツユキの肩に掴まる。ぐらぐらと揺れて足元が危うい感じがしたが、実際は唯助がとらえた視覚から起こった、脳の錯覚であった。目を閉じている寧々子は至って平静である。
「――さん、し、ご。いいよ、目を開けて」
ゆっくりと目を開けた寧々子は、辺りに広がる景色を見回した。唯助もまた、挙動不審に辺りをきょろきょろ見回している。
彼らの眼前に広がっていたのは、夜の帝都によく似た街だったのである。
「ここ、は……」
「前にも譚本旅行で来たことがあるだろう?」
寧々子はこくりと頷く。
そういえば、三八は譚本の原本に宿った夢の空間を旅することを、譚本旅行と呼んでいたような気がする。意外と自分も師匠の教えを覚えているものだ、と唯助は少し自惚れてみる。
どうやら、寧々子はこの街並みを既に旅したことがあるようだ。
「ここは夢の中。空想の、作り物の世界だ。何をしたっていい。ここにあるもので着飾るのも、ここにあるものを盗んで食べるのも、窓ガラスを壊しても、なにも問題はない。
死ぬ前に心ゆくまで好きなことをしなさい」
*****
磨き抜かれた月明かりのライトに照らされている街並み。そこには、果てしない静寂が横たわっている。囁くような風がそこここに植えられた柳を揺らし、煉瓦と混凝土で塗り固められた通りを駆け抜けていく。
人っ子一人いないのも分かりきっているような静けさのくせに、通りに並ぶ店の品揃えはどこも一丁前だ。洒落た洋服に、装飾品に、野菜や果物に、駄菓子。作り物の世界、というか、街全体が舞台装置のようだった。
寧々子は履物も履かぬまま、足袋の状態で街を歩き始める。三八もそれに従って歩き出す。静かな街にそれぞれ重さの違う足音が響くが、彼らはそれを意に介することなく歩を進めた。
寧々子は初めに洋服屋に入る。店の中に所狭しと並べられた衣装は、明らかに高価な素材で仕立てられている。彼女はその中から一着のワンピースを手に取って全体を軽く眺めると、それを腕に抱えて次の洋服を物色しはじめる。次に手に取ったものはあまりお気に召さなかったらしい。それを元あった場所に戻す……のではなく、あろうことかぽいっと適当に放り投げた。
子供だましの玩具のごとく、高級な服をぞんざいに扱う寧々子に、唯助は思わず目を剥く。しかし、何をしたっていい夢の世界で、傍若無人な彼女を咎める野暮はいない。
寧々子は心のままに選んだ服を次々に試着し、一番気に入ったらしい、ラインストーンをふんだんにあしらった桜色のワンピースを来て店を後にした。
宝石店に入った寧々子は、ここでもやはり傍若無人に振舞う。宝飾品のガラスケースの鍵を見つけ出すと、それを勝手に開けた。真珠のイヤリングに、大粒のラピスラズリが連なるネックレス、ダイヤモンドが輝く指輪を身につけて、その身を豪華に飾った。
菓子屋に行って甘いおやつをつまみ食いしたり、果物に立ち入って林檎を丸かじりしたり、容器に盛る前のアイスクリンをスプーンで直食いしたり、極めつけは生クリームがたっぷりのケーキを手づかみで食べていた。
腹が膨れたのか、彼女は飽きたようにまた街を歩く。すると、今度はたまたま目に入った花屋に足を踏み入れた。色とりどりの花々が並んでいるのを見ると、その中から気に入った花を掴んで、ラッピングで綺麗に束ねる。出来上がると満足してしまったのか、寧々子はせっかく束ねた花を乱暴につかみ、花びらをもぎ始めた。
それを延々と繰り返すうちに、彼女はなにか閃いたらしい。「いいことを思いついた」と無邪気に言うと、花束を抱えて街のど真ん中に飛び出した。
「昔、見たのです。花嵐を模した紙吹雪の中で、少女が歌う。そんな舞台演劇を」
どうやら、彼女はそれの真似をしてみたいらしい。寧々子が言うまでもなく、三八はそれをすぐに理解する。彼女の願いを叶えるべく、花をたっぷりかき集めて、近くの屋根に登る。
寧々子が合図すると、大量に集めた花たちから花びらをもぎとり、それを惜しみなくばらまいた。
「うふふ! あはは! 夢みたいだわ! こんな町に、こんな素敵なお花畑があったなんて!」
花の雨が降り注ぐ中、寧々子は信じられないほど大きな声で、高らかに唄った。
唯助が驚いたのは言うまでもない。こんなに大きな声を出す彼女など、彼の記憶にはなかったからだ。ここにやってくるまでも驚愕しきりではあったが、まるで本物の舞台女優のように両手を広げて唄う彼女には、色々な意味で度肝を抜かれた。
「あはははは! あは、あはははははっ」
楽しそうに笑う寧々子の姿を見ている彼らが、微笑むことはなかった。ただただ呆気にとられる唯助と、静かに見守るミツユキ。花吹雪と共に大胆にスカートを翻しながら舞う彼女の、その甲高い笑い声は、見ている側からすれば狂笑にも取れた。
ひとしきり踊りきった彼女は、最後にとびきり悪いことをしようと三八に提案する。
「窓ガラス、割っても良いのでしょう?」
彼女はにっこり笑う。三八はそれに笑い返すと、近くのゴミ捨て場から適当な棒を拾って、寧々子に手渡す。寧々子はそれを受け取ると、近くにあった家屋のガラスを、躊躇いなく叩いた。
「あら? 上手く割れませんね」
寧々子がひ弱なせいなのか、思いの外ガラスの方が頑丈だったのか、彼女が叩いたガラスはガンッと音を立てただけで、棒を弾いてしまう。
「こっちの方で叩いてごらん。力で殴るんじゃなくて、棒の重みで殴る感じで」
寧々子は三八に言われた通り、棒を持ち替えて、もう一度ガラスを叩いた。ガシャン! と痛快な音を立てて、ガラスが粉々に砕ける。
上手く割れた寧々子はそのまま勢いに乗って、隣の窓ガラスを次々に叩き割った。
「漆本様も一緒にやりましょう? ねえ、いいでしょう?」
遊びに誘う子供のごとき爛々とした目で、寧々子が言う。三八はそれに頷いて、いつの間にか手に持っていた棒を振りかぶる。男性の三八のほうが力がある分、音も豪快だった。ますます高揚した寧々子は、三八と共にそこら中の建物の窓ガラスを片っ端から壊した。せっかく着飾った衣装が汚れてもお構いなしに、好き勝手に暴れまくった。
*****
――はっきり言って、異様である。異常である。楽しそうと言えば聞こえはいいが、唯助はこれをそんな生易しい言葉で片付けられるような気がしなかった。ひょっとして寧々子は気狂いになってしまったのではないかと危惧してしまうほどの、凄まじい吹っ切れようだった。先ほどまで幽霊のように暗澹としていた彼女が、この作り物の世界に来てから子供のようにはしゃいでいる――その落差があまりにも極端すぎるのだ。
ひとしきり暴れ回って、彼女が疲れた頃。それまで黙って彼女に振り回されていた三八が、
「どうだい。これで心置きなく死ねるかい」
と、ベンチに座る彼女に尋ねた。
「……嘘つき」
彼女は、はっきりとそう言った。先ほどまでの暴れようとはまた一転して、幽霊のような面差しで、三八の顔をまっすぐ見て言った。
三八はもう、唯助たちのようにその落差には動揺しないらしい。ほんのりと笑顔を浮かべて、彼女の言葉の続きを待っている。
「『死んでもいいんだ』なんて、貴方は思ってもいないことを仰るのですね。貴方は、わたくしを生かしたではありませんか」
お父様を見殺しにして。と。憚りもしない物言いであった。
かといって怒っているわけではありません、と彼女は一応の注釈を入れる。その上で、続きはこう述べた。
「貴方はわたくしを助けてくださいました。どんな理由があったにせよ、わたくしを死なせてはならないから、助けてくださったのでしょう。考えてみれば……いいえ、わざわざ考えるまでもなく、貴方の言動は矛盾しているのです。漆本様」
寧々子は、ぶつける間もなかったそもそもの疑問を、三八にぶつけた。
「『死んではいけない』と、なぜ言わないのですか」
死んではいけない。
死にたいと言ってはいけない。考えてはいけない。
命を粗末にするようなことなんて、してはいけない。
――いずれにしても。
「大人は普通、皆そう仰るでしょう。だって、死なせたくないのですから。けれど、貴方は分からないのです。貴方が。わたくしには、分からない」
彼女は再び目線を下げた。自分の靴先を見るように、俯いた。
入れ替わるように、三八の口がゆっくりと動き出す。そのまま淡々とした口調で、なんの感情も含んでいないような声音で言った。
「本当であれば、小生は君のことも見殺しにするべきだった。炎の中で絶命していく父と娘を助けてはいけなかった」
「……え」
どちらも助けるべきだった、ではなく。どちらも見捨てるべきだった。
まさかそのような答えが返ってくるとは、彼女も予想だにしなかったのだろう。だから、俯いていた視線は再び三八のほうへと向けられた。
「譚本作家はありのままの譚を見なければならない。君はあの夜、死ぬ運命だった。小生は決定づけられていた譚を最後まで見届けて本に紡ぐべきだったけれど、実際はその掟を破って、見届けるべき譚をねじ曲げてしまった。君の父を譚殺しにし、君を無理やり助け出した。否――」
三八はゆるく首を振った。
「そもそも、最初の時点で譚が変わっていたんだ。初対面の君を見て、この子をどうにかしてあげようと思ってしまった時点で」
本来、譚を変えるほどの行為をしてはいけない。それが譚本作家の掟だが、先にもミツユキが説いた通り、三八は彼女と初対面の時点ですでに禁忌を犯していたのだ。
「君の譚からは、雨のような匂いがした。なぜそんな匂いがしたかは分からないけれど、このまま放置すれば間違いなく、君は悲劇的な結末を辿ることになる。それを何とかしようと思って行動した時点で、小生は作家として弁えていなかったんだ」
それこそ、三八は彼女に踏み込みすぎた。明らかに彼女との距離を縮めすぎた。彼女に同情しすぎてしまった。その結果、三八は禁忌を二つも犯したのである。
「譚殺しに加えて、譚の改竄――まったく、曲がりなりにも稀代の文豪だっていうのに、形無しだ」
自分に対して心底呆れ返るよ、などと、三八はため息をつく。今の唯助には、そのため息が決して大袈裟な演技ではなく、本気で嘆いているのだと分かった。
「君が死にたいと思うのは当然なんだ。そういう運命だったんだから。でも、小生はそれに抗おうとしている。抗ってでも、君を生かそうとしている。だから、言葉をかけるんだよ。君に生きようと思って貰えるように」
「………あまり、答えになってないような」
見殺しにするべきだった云々の話にも衝撃を受けていたようだが、しかし、彼女はひとまず自分の聞いたことに注意を向けることにしたらしい。
「君は『生きろ』と言ってほしかったのかい?」
「どちらでも、ないです」
「では、『何がなんでも生きろ』と『死にたくなったら死んでいい』と、どちらが言われて楽だと思う?」
そう聞かれて、寧々子は三八の意図にはっと気づいたようだった。
そしてそれは、傍観している唯助も同じだった。
「義務と権利の違いだよ、お嬢さん。『死にたい』と思っている相手を生かそうとしているとして、『生きろ』なんて言い方をして効果があるか? そんな物言いで強制される生を、君は受け入れるかい? それよりはいつでも死ねる自由を与えたほうがいいだろうと思ったんだよ」
とりあえず『生きてみようか』という気軽な意志を持てるのは、後者じゃないのかな。
――三八が言いたいのは、つまりそういうことなのだ。聡い寧々子と唯助は、それに気づいたのだった。
「矛盾して見えるだろう。でも、きちんと意図がある言葉選びなんだよ」
もっとも、三八が彼女の分析を誤っていて、実は前者を言ってほしい側の人間だったのなら、完全に逆効果だったのだが。しかし、三八の読みは当たりだった。
「よくお聞き。君はいつでも死ねるし、いつ死んだっていい。だが、死は一回きりだからこそ、大事にとっておくべきでもある。
まだ死を選ぶには早い、と思ったのなら、小生のところにおいで。小生はただ、君の傘になろう。雨が降っても濡れないで済むように」
三八は寧々子に正面から向き合って、彼女の細い手をそっと取ると、それを彼女の胸にやる。
「大丈夫。君が忘れない限り、父君はここにいる。忘れてしまったとしても、実井正蔵の譚は君の中にちゃんとめぐっているから」
実井正蔵あってこその彼女だ。実井正蔵の譚があってこその、彼女の譚なのだ。
彼女は、それを思い出したようだった。
「お、とう、さまぁ……っ」
にわか雨のようにどうっと涙を零した彼女は、そのまま豪快に泣きじゃくった。愛する父の名を一途に呼んで。雷鳴のような激しい声を上げて。
「いい子、いい子。可愛い子」
三八は子守唄のように唱えながら、彼女の頭を撫でていた。
あの時、ああしていれば。あの時、ああ言えば。あの時、怒りを抑えていれば。――様々に過去の言動を悔いたところで、もう後の祭りだ。
ならばいっそ、私は当事者として、この譚を終結に導こう。
「ほら、主自身もこう綴ってるでしょ。ちゃんと原本の文字も追わないと」
ミツユキは唯助が手にしていた原本の字をなぞっていた。唯助もそれに合わせて文章の内容を咀嚼する。
「……じゃあ、つまり、旦那が関わったせいで、実井邸の火事は起きたってことか?」
「それは分からない。でも、実井正蔵がああまで狂ってしまっていたのなら、実井寧々子も遠からず死ぬ運命にあったんだろう。漆本蜜が関わった時点では、もう取り返しのつかないところまで来ていたんだ」
いくら譚を読み解いても。
いくら譚を聞き取ったとしても。
いくら選択肢を掲示したとしても。
実井寧々子が父と共に死ぬその結末は、もはや確定的だった。
「主はそれに気づいていたんだと思う」
「……でも、寧々子さんを死なせたくなかった」
実井寧々子という人物を愛してしまったが故に。傍観者に徹するべきだった漆本蜜は、いつの間にか当事者となって、譚に乱入してしまった。
「でも、それでどうして、旦那は自分を責めてるんだよ。正蔵さんを譚殺しにしたのは悪いことだったかもしれねえけど、それは寧々子さんを助けるためにやむを得ずしたことで――いや、それだけじゃなくて、旦那は寧々子さんを助けるために、あれよこれよと気を回して頑張ってただけだろ」
「それ自体を責めてるんだよ、主は」
三八を懸命に庇おうとする唯助に、ミツユキは冷徹に返す。まるで、三八の心を代弁するかのように。
「どうやったって死ぬ運命だった実井寧々子を、譚を書き換えて生かす――それは、読み手としてやっちゃいけないことだったんだ。
もう一度、読み返してみなよ。主は自分がした行いを皮肉って書いたんだと思うよ」
……確かに、思い返してみればその通りだったと、唯助は納得してしまった。
お嬢さんを想うばかり、S氏と冷静に話をすることができなかった。
するべきではないと分かっていたくせに、S氏と真っ向から口論してしまって自ら首を絞めてしまった。
あの時、ああしていれば。あの時、ああ言えば。あの時、怒りを抑えていれば。
――あの文章たちは、そうやって様々に過去の言動を悔いながら、己の不甲斐なさを責め立てているようにも見える。
「でも、寧々子さんは! 七本音音になって、旦那のところに嫁いで、幸せになれたじゃねえか。旦那だって、それ自体は喜んでるはずだろ?」
「最終的にはね。でも、すべてがハッピーの大団円じゃないことくらい、君だって気づいているだろう」
そう言われて、唯助はなにも反論できなかった。あの二人は共に寄り添って歩んでこそいるものの、背負っているものがとてつもなく重いのだ。唯助はつい先日、その一端に触れたばかりである。
「ともかく、これは彼らが迎えていたかもしれない数ある展開の中で、最も悪い展開だった。
誰も幸せにならず、誰も報われることなく、誰もが損をし、誰もが悔いた。
それが、実井邸の火災にまつわる譚だ」
ミツユキが、解を導く。無情にも、唯助にとっても、その解釈が一番腑に落ちてしまった。
それを合図としたように、辺りを覆っていた暗幕が、徐々に薄らいできた。
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「漆本様はお気づきではなかったでしょう。貴方がわたくしを連れて火の海から逃げるとき、最期に、お父様は笑ったのです」
そこは既に火災現場の林ではなく、とある一室の中だった。かといって実井邸のような洋式の部屋でもなく、襖と畳と天井板で囲われた大陽本式の部屋であった。
かすかに揺れる電球がぼんやりと部屋を照らす中、着物に身を包んだ少女と男が、向かい合って座布団に座っていた。
「娘を見送るための笑顔ではありません。あれは、安堵の笑顔です。父様はようやく生きる苦しみから解放されることに安堵して、笑ったのです」
覇気もなければ抑揚もない、幽霊のような声で、少女が話す。少女――実井寧々子が、語る。
「わたくしも、いっそ死んでしまえればよかった。あんなふうに安らかな笑顔で死ねたらよかった」
口元には薄く笑みを浮かべているものの、目元は全く笑っていない。
下を向いていた虚ろな瞳が、ころんと上を向く。重たげにかかった長い睫毛が、少しだけ持ち上がる。
「父を見殺しにした貴方を恨んでいるわけではありません。むしろ、お父様を解放していただいたことには感謝しています。……けれど」
目の前に腰を据える男を見たときの彼女の瞳は真っ黒に濁っていて、冷たい氷のようだった。
それを傍観していた唯助は、先日の音音との会話で感じた薄ら寒さを思い出した。
「漆本様。わたくしは、これからどう生きれば良いのですか。どう生きろと言うのですか。もう、わたくしは生きたくないのです」
失礼ながら、先日自分が言った幽霊という喩えは、あながち間違いではなかったのかもしれないと唯助は振り返る。
死んだ人間が生皮を被って、生者さながらに振舞っている――今の彼女にこそ、この表現が似つかわしいと言えるだろう。
「生きたくないなら、死んでもいいんだよ」
対して、男――七本三八は、彼女にそう返した。
奇を衒うかのように、しかし、気を違えた様子はなく。
「死にたくてもいいんだ。それでいい。でも、死のうと思ったら死にも向き合わなければ。どうやって生きるかを考えるように、どうやって死ぬかを考えるんだ」
至極真面目に、三八は彼女に説いた。
七本音音ならばいざ知らず、実井寧々子ではさすがに三八の物言いを解することはできなかったようで、彼女は完全に戸惑っていた。
そんな彼女を置いていくように、三八はさらに
「目を閉じて五つ数えて」
と訳の分からない指示を出す。目を瞬かせる寧々子。「ほら、目を閉じてごらん」と三八から催促されて、彼女は戸惑ったまま目を閉じた。
丁寧に膝に置かれた寧々子の手の下に、三八はある本を差し込む。寧々子の手がその本に触れた途端、和室の光景がぐにゃりと歪んだ。
驚いた唯助が、そばにいたミツユキの肩に掴まる。ぐらぐらと揺れて足元が危うい感じがしたが、実際は唯助がとらえた視覚から起こった、脳の錯覚であった。目を閉じている寧々子は至って平静である。
「――さん、し、ご。いいよ、目を開けて」
ゆっくりと目を開けた寧々子は、辺りに広がる景色を見回した。唯助もまた、挙動不審に辺りをきょろきょろ見回している。
彼らの眼前に広がっていたのは、夜の帝都によく似た街だったのである。
「ここ、は……」
「前にも譚本旅行で来たことがあるだろう?」
寧々子はこくりと頷く。
そういえば、三八は譚本の原本に宿った夢の空間を旅することを、譚本旅行と呼んでいたような気がする。意外と自分も師匠の教えを覚えているものだ、と唯助は少し自惚れてみる。
どうやら、寧々子はこの街並みを既に旅したことがあるようだ。
「ここは夢の中。空想の、作り物の世界だ。何をしたっていい。ここにあるもので着飾るのも、ここにあるものを盗んで食べるのも、窓ガラスを壊しても、なにも問題はない。
死ぬ前に心ゆくまで好きなことをしなさい」
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磨き抜かれた月明かりのライトに照らされている街並み。そこには、果てしない静寂が横たわっている。囁くような風がそこここに植えられた柳を揺らし、煉瓦と混凝土で塗り固められた通りを駆け抜けていく。
人っ子一人いないのも分かりきっているような静けさのくせに、通りに並ぶ店の品揃えはどこも一丁前だ。洒落た洋服に、装飾品に、野菜や果物に、駄菓子。作り物の世界、というか、街全体が舞台装置のようだった。
寧々子は履物も履かぬまま、足袋の状態で街を歩き始める。三八もそれに従って歩き出す。静かな街にそれぞれ重さの違う足音が響くが、彼らはそれを意に介することなく歩を進めた。
寧々子は初めに洋服屋に入る。店の中に所狭しと並べられた衣装は、明らかに高価な素材で仕立てられている。彼女はその中から一着のワンピースを手に取って全体を軽く眺めると、それを腕に抱えて次の洋服を物色しはじめる。次に手に取ったものはあまりお気に召さなかったらしい。それを元あった場所に戻す……のではなく、あろうことかぽいっと適当に放り投げた。
子供だましの玩具のごとく、高級な服をぞんざいに扱う寧々子に、唯助は思わず目を剥く。しかし、何をしたっていい夢の世界で、傍若無人な彼女を咎める野暮はいない。
寧々子は心のままに選んだ服を次々に試着し、一番気に入ったらしい、ラインストーンをふんだんにあしらった桜色のワンピースを来て店を後にした。
宝石店に入った寧々子は、ここでもやはり傍若無人に振舞う。宝飾品のガラスケースの鍵を見つけ出すと、それを勝手に開けた。真珠のイヤリングに、大粒のラピスラズリが連なるネックレス、ダイヤモンドが輝く指輪を身につけて、その身を豪華に飾った。
菓子屋に行って甘いおやつをつまみ食いしたり、果物に立ち入って林檎を丸かじりしたり、容器に盛る前のアイスクリンをスプーンで直食いしたり、極めつけは生クリームがたっぷりのケーキを手づかみで食べていた。
腹が膨れたのか、彼女は飽きたようにまた街を歩く。すると、今度はたまたま目に入った花屋に足を踏み入れた。色とりどりの花々が並んでいるのを見ると、その中から気に入った花を掴んで、ラッピングで綺麗に束ねる。出来上がると満足してしまったのか、寧々子はせっかく束ねた花を乱暴につかみ、花びらをもぎ始めた。
それを延々と繰り返すうちに、彼女はなにか閃いたらしい。「いいことを思いついた」と無邪気に言うと、花束を抱えて街のど真ん中に飛び出した。
「昔、見たのです。花嵐を模した紙吹雪の中で、少女が歌う。そんな舞台演劇を」
どうやら、彼女はそれの真似をしてみたいらしい。寧々子が言うまでもなく、三八はそれをすぐに理解する。彼女の願いを叶えるべく、花をたっぷりかき集めて、近くの屋根に登る。
寧々子が合図すると、大量に集めた花たちから花びらをもぎとり、それを惜しみなくばらまいた。
「うふふ! あはは! 夢みたいだわ! こんな町に、こんな素敵なお花畑があったなんて!」
花の雨が降り注ぐ中、寧々子は信じられないほど大きな声で、高らかに唄った。
唯助が驚いたのは言うまでもない。こんなに大きな声を出す彼女など、彼の記憶にはなかったからだ。ここにやってくるまでも驚愕しきりではあったが、まるで本物の舞台女優のように両手を広げて唄う彼女には、色々な意味で度肝を抜かれた。
「あはははは! あは、あはははははっ」
楽しそうに笑う寧々子の姿を見ている彼らが、微笑むことはなかった。ただただ呆気にとられる唯助と、静かに見守るミツユキ。花吹雪と共に大胆にスカートを翻しながら舞う彼女の、その甲高い笑い声は、見ている側からすれば狂笑にも取れた。
ひとしきり踊りきった彼女は、最後にとびきり悪いことをしようと三八に提案する。
「窓ガラス、割っても良いのでしょう?」
彼女はにっこり笑う。三八はそれに笑い返すと、近くのゴミ捨て場から適当な棒を拾って、寧々子に手渡す。寧々子はそれを受け取ると、近くにあった家屋のガラスを、躊躇いなく叩いた。
「あら? 上手く割れませんね」
寧々子がひ弱なせいなのか、思いの外ガラスの方が頑丈だったのか、彼女が叩いたガラスはガンッと音を立てただけで、棒を弾いてしまう。
「こっちの方で叩いてごらん。力で殴るんじゃなくて、棒の重みで殴る感じで」
寧々子は三八に言われた通り、棒を持ち替えて、もう一度ガラスを叩いた。ガシャン! と痛快な音を立てて、ガラスが粉々に砕ける。
上手く割れた寧々子はそのまま勢いに乗って、隣の窓ガラスを次々に叩き割った。
「漆本様も一緒にやりましょう? ねえ、いいでしょう?」
遊びに誘う子供のごとき爛々とした目で、寧々子が言う。三八はそれに頷いて、いつの間にか手に持っていた棒を振りかぶる。男性の三八のほうが力がある分、音も豪快だった。ますます高揚した寧々子は、三八と共にそこら中の建物の窓ガラスを片っ端から壊した。せっかく着飾った衣装が汚れてもお構いなしに、好き勝手に暴れまくった。
*****
――はっきり言って、異様である。異常である。楽しそうと言えば聞こえはいいが、唯助はこれをそんな生易しい言葉で片付けられるような気がしなかった。ひょっとして寧々子は気狂いになってしまったのではないかと危惧してしまうほどの、凄まじい吹っ切れようだった。先ほどまで幽霊のように暗澹としていた彼女が、この作り物の世界に来てから子供のようにはしゃいでいる――その落差があまりにも極端すぎるのだ。
ひとしきり暴れ回って、彼女が疲れた頃。それまで黙って彼女に振り回されていた三八が、
「どうだい。これで心置きなく死ねるかい」
と、ベンチに座る彼女に尋ねた。
「……嘘つき」
彼女は、はっきりとそう言った。先ほどまでの暴れようとはまた一転して、幽霊のような面差しで、三八の顔をまっすぐ見て言った。
三八はもう、唯助たちのようにその落差には動揺しないらしい。ほんのりと笑顔を浮かべて、彼女の言葉の続きを待っている。
「『死んでもいいんだ』なんて、貴方は思ってもいないことを仰るのですね。貴方は、わたくしを生かしたではありませんか」
お父様を見殺しにして。と。憚りもしない物言いであった。
かといって怒っているわけではありません、と彼女は一応の注釈を入れる。その上で、続きはこう述べた。
「貴方はわたくしを助けてくださいました。どんな理由があったにせよ、わたくしを死なせてはならないから、助けてくださったのでしょう。考えてみれば……いいえ、わざわざ考えるまでもなく、貴方の言動は矛盾しているのです。漆本様」
寧々子は、ぶつける間もなかったそもそもの疑問を、三八にぶつけた。
「『死んではいけない』と、なぜ言わないのですか」
死んではいけない。
死にたいと言ってはいけない。考えてはいけない。
命を粗末にするようなことなんて、してはいけない。
――いずれにしても。
「大人は普通、皆そう仰るでしょう。だって、死なせたくないのですから。けれど、貴方は分からないのです。貴方が。わたくしには、分からない」
彼女は再び目線を下げた。自分の靴先を見るように、俯いた。
入れ替わるように、三八の口がゆっくりと動き出す。そのまま淡々とした口調で、なんの感情も含んでいないような声音で言った。
「本当であれば、小生は君のことも見殺しにするべきだった。炎の中で絶命していく父と娘を助けてはいけなかった」
「……え」
どちらも助けるべきだった、ではなく。どちらも見捨てるべきだった。
まさかそのような答えが返ってくるとは、彼女も予想だにしなかったのだろう。だから、俯いていた視線は再び三八のほうへと向けられた。
「譚本作家はありのままの譚を見なければならない。君はあの夜、死ぬ運命だった。小生は決定づけられていた譚を最後まで見届けて本に紡ぐべきだったけれど、実際はその掟を破って、見届けるべき譚をねじ曲げてしまった。君の父を譚殺しにし、君を無理やり助け出した。否――」
三八はゆるく首を振った。
「そもそも、最初の時点で譚が変わっていたんだ。初対面の君を見て、この子をどうにかしてあげようと思ってしまった時点で」
本来、譚を変えるほどの行為をしてはいけない。それが譚本作家の掟だが、先にもミツユキが説いた通り、三八は彼女と初対面の時点ですでに禁忌を犯していたのだ。
「君の譚からは、雨のような匂いがした。なぜそんな匂いがしたかは分からないけれど、このまま放置すれば間違いなく、君は悲劇的な結末を辿ることになる。それを何とかしようと思って行動した時点で、小生は作家として弁えていなかったんだ」
それこそ、三八は彼女に踏み込みすぎた。明らかに彼女との距離を縮めすぎた。彼女に同情しすぎてしまった。その結果、三八は禁忌を二つも犯したのである。
「譚殺しに加えて、譚の改竄――まったく、曲がりなりにも稀代の文豪だっていうのに、形無しだ」
自分に対して心底呆れ返るよ、などと、三八はため息をつく。今の唯助には、そのため息が決して大袈裟な演技ではなく、本気で嘆いているのだと分かった。
「君が死にたいと思うのは当然なんだ。そういう運命だったんだから。でも、小生はそれに抗おうとしている。抗ってでも、君を生かそうとしている。だから、言葉をかけるんだよ。君に生きようと思って貰えるように」
「………あまり、答えになってないような」
見殺しにするべきだった云々の話にも衝撃を受けていたようだが、しかし、彼女はひとまず自分の聞いたことに注意を向けることにしたらしい。
「君は『生きろ』と言ってほしかったのかい?」
「どちらでも、ないです」
「では、『何がなんでも生きろ』と『死にたくなったら死んでいい』と、どちらが言われて楽だと思う?」
そう聞かれて、寧々子は三八の意図にはっと気づいたようだった。
そしてそれは、傍観している唯助も同じだった。
「義務と権利の違いだよ、お嬢さん。『死にたい』と思っている相手を生かそうとしているとして、『生きろ』なんて言い方をして効果があるか? そんな物言いで強制される生を、君は受け入れるかい? それよりはいつでも死ねる自由を与えたほうがいいだろうと思ったんだよ」
とりあえず『生きてみようか』という気軽な意志を持てるのは、後者じゃないのかな。
――三八が言いたいのは、つまりそういうことなのだ。聡い寧々子と唯助は、それに気づいたのだった。
「矛盾して見えるだろう。でも、きちんと意図がある言葉選びなんだよ」
もっとも、三八が彼女の分析を誤っていて、実は前者を言ってほしい側の人間だったのなら、完全に逆効果だったのだが。しかし、三八の読みは当たりだった。
「よくお聞き。君はいつでも死ねるし、いつ死んだっていい。だが、死は一回きりだからこそ、大事にとっておくべきでもある。
まだ死を選ぶには早い、と思ったのなら、小生のところにおいで。小生はただ、君の傘になろう。雨が降っても濡れないで済むように」
三八は寧々子に正面から向き合って、彼女の細い手をそっと取ると、それを彼女の胸にやる。
「大丈夫。君が忘れない限り、父君はここにいる。忘れてしまったとしても、実井正蔵の譚は君の中にちゃんとめぐっているから」
実井正蔵あってこその彼女だ。実井正蔵の譚があってこその、彼女の譚なのだ。
彼女は、それを思い出したようだった。
「お、とう、さまぁ……っ」
にわか雨のようにどうっと涙を零した彼女は、そのまま豪快に泣きじゃくった。愛する父の名を一途に呼んで。雷鳴のような激しい声を上げて。
「いい子、いい子。可愛い子」
三八は子守唄のように唱えながら、彼女の頭を撫でていた。
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