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四章「崩れた少女」

その一

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ところ変わって、鷺原診療所。調査を終えた唯助とミツユキは、実井邸から長時間かけて帰ってきた。
長時間かけずに帰ってくることもできたのだが、わざわざ一番時間がかかる手段――つまり、徒歩を選んだその経緯は、道中で唯助が駄々をこねたことに端を発する。
ここまでの彼らの旅を見守ってきたお方々は、もう既にお察しだろう。乗り物酔いの酷い白茄子唯助は、路面電車も人力車も、とにかく街で使えるすべての乗り物を拒否し、自分の脚で帰ると譲らなかったのである。勿論、青瓢箪のミツユキはそれに猛反対し、両者の押し問答がしばらく繰り広げられた。最終的にじゃんけんで徒歩に決まり、かわりにミツユキは襟巻として肩に巻き付いているだけ、歩くのは唯助のみという条件で妥結したのだった。
ちなみに、随分遅く帰ってきた彼らを迎えた世助はそれを聞くなり「馬鹿じゃねぇの、お前ら」と漏らしたという。

そんなことはさておいて、先に中央図書館から帰ってきていた秋声も交えて食事を済ませたあと、彼らは本題に入った。
「正直、予想以上にこちらが不利ですね」
世助が気を遣って部屋を出てから、秋声はそう切り出す。
ソファに腰をかけ、皺を寄せた眉根を指で揉んでいる様子を、向かいに座る唯助は心配そうに見つめていた。
「それは、どういうことですか?」
「あちらから提示された条件ですよ。まぁ、案の定といいますか」
どこから説明したものかと秋声はわずかな間、逡巡して。
「先に交渉相手から話しましょうか。貴方もよく知る、奥村総統です」
と、驚くべき名前をさっと勿体ぶらずに出した。
聞いていた唯助が「え!?」と声を上げてしまうのも無理はない。始めに交渉しに行く相手として、帝国司書隊の頂点たる奥村はこれ以上ない大物だ。
「いきなりトップに交渉したんですか!」
「それが一番手っ取り早いでしょう」
いや、確かにそうだが。しかし国家組織の長として超多忙であろう奥村と、(おそらくアポイントもなく)その日のうちに交渉してくるなんて、なんて剛胆な人なんだろう……。衝撃のあまり、気が遠のいてしまいそうだ。
「別に、帝国司書隊の長だから、という理由だけで彼を選んだわけではありませんよ。
『空の鳥かご』の登録の際に、彼が関わっていたと踏んだからです」
「登録?」
「今更言うまでもないことですが、新しく譚本を紡いだ場合、帝国司書隊に申し出ることが大陽本の法律で義務付けられています。例え後ほど閲覧制限をかけるにしても、登録の時点で帝国司書の検閲は必ず入ります」
「……えぇと、検閲ってのは?」
これまで丁寧に説明していた秋声だが、ここで唯助が申し訳なさそうに聞くと、彼は眉をひそめた。
「……知らないんですか?」
あ、やべえ。
瞬時に唯助は察知した。どうやらこれは基礎として、常識として知っていなければならなかった知識のようだ。
「唯助、ちゃんと思い出して。教科書に載ってたはずだよ、帝国司書隊の図書資産管理規定」
ここで、一緒に話を聞いていたミツユキが親切にも助け舟を出してくれるが、長ったらしい教科書の名前が記憶の引き出しから出てくるわけもなく、唯助は却ってさらに動転した。
「……本の内容を確認するんですよ。中身も分からない、得体の知れない本を国の図書館に置くわけにはいきませんからね。これは譚本、術本、禁書――どんな本でも必ず踏まないといけない手順なんです」
顔を真っ赤にして俯いた唯助を見かねて、秋声が仕方なく補足してくれる。
ほんの一年前までは、本のいろはも分からないほど世間知らずだった――という特殊な事情がなければ、愚か者の烙印を押されて相手にもしてもらえなかっただろう。
「てことは、」
そんな世間知らずの唯助にとって一番の救いは、彼自身の地頭そのものはまだ良いほうだという点だった。
「本の内容を知っているのは、旦那や姐さん以外にもう一人いる……?」
そのことに自力できちんと気づいた点は、秋声も評価したらしい。唯助の推察を頷いて肯定し、「続けて」とさらに思考を促した。
「『空の鳥かご』には重大な秘密が記されている。でも検閲は避けて通れない道だから、必ず一人には打ち明けなきゃいけない。――だから、元部下の奥村さんが検閲したってわけか!」
「正解です」
馬鹿は相手にしない主義の秋声だが、やらせてみてできたことはきちんと褒めるのが彼の流儀である。
「あの男は用心深いですからね。ある程度自分の都合を通せて、秘密も絶対に口外しないと確信している相手を選ぶはずです。そして奥村くんは、あの男が現役時代から一番信頼している部下。――ミツユキはもう気づいていましたね?」
「気づいてたよ」
「気づいてたのかよ!」
「あえて黙っていたのでしょう。これはあくまで貴方に与えられた課題ですからね、唯助くん」
手を出したり口を挟んだりして、甘やかしすぎてはいけない。若者の教育のためには匙加減も重要だ。過干渉も不干渉もあってはならない。
とはいえ、と秋声はため息を漏らした。
「‎三八も随分な難題を与えましたね。調査の難易度がそこいらの譚の読み解きとは桁違いです」
そのため息は、少々不相応な難題を与えられた唯助に対する、哀れみといったところか。しかし、唯助は根性のある若者だったので、同情する秋声の前でも弱音は吐かなかった。
「そうでなければ意味がないんでしょう。難問に直面してすぐに挫けるようじゃ、おれは旦那につまらない弟子だと言われます」
「確かに。悩んで足踏みする前に、素直に大人を頼ったのは良い判断だったと思いますよ」
これは秋声の本心からの褒め言葉だった。その証拠に、秋声の口元が緩んでいる。作っていない、自然とこぼれた笑みなのだろう。褒められた唯助としても純粋に嬉しい。
それはそれで、脱線しかかった話は元の軌道に戻される。
「予想通り、交渉は難航しました。元上司の右腕という立場だけでは不十分なのも、まあわかりきってはいましたがね」
「どんな条件だったんです?」
「一つ目は、閲覧の際に奥村くんが立ち会うこと。もう一つは、僕が現在研究している内容の資料を帝国司書隊に渡すこと」
「!!」
確かに、秋声が先にも言った通り。
予想以上に、こちらにとって不利な条件である。
前者は、奥村に心眼の使用を実際に見られる危険がある。
後者は、帝国司書隊に愛子についての研究資料を渡すこと。
どちらも、ミツユキが漏洩を懸念していた事項である。
「相手の秘密をねだるのですから、その分の痛みを背負う覚悟がなくてはいけません。それが交渉というものです」
「でも……」
それでは納得いかない。いくはずがない。
「立会人をつけるだけならまだしも、秋声先生の研究まで渡さなきゃいけないなんて……さすがに職権濫用じゃないですか?」
「そこが彼の憎いところですよ」
本当に憎らしげな顔で、秋声は腕組みをした。
「閲覧の立会人を設定しただけでは大した抑止力になりません。無理をして条件を呑んでしまう可能性がある。それに、閲覧禁止の本を与えるのですから、むしろこの条件は当然のものとして想定すべきでしょう。
だから、さらに抑止力を強めるために、交渉役の僕にもわざと不利益な条件を提示するんです。相手は僕さえ下ろせば良いんですから」
「……っ!」
確かに、秋声という手札を失えば、唯助には他に打つ手がない。無理な交渉を引き受けてくれた秋声に、不利益を強いてまで交渉させる資格もない。帝国司書の資格も持たない一般市民の唯助は交渉の場につくことさえ許されないのだから、彼に残される選択肢は『諦める』一択だ。
「ですが、この場合は立会人の条件の方が厄介です。研究資料の方はご存知の通り細工を施していますから、誤魔化して通せばいい。
唯助くん。僕としては、この条件を呑むことはおすすめできません。貴方が愛子であることがバレた時の危険リスクの方が大きい」
「それは私も同意する」
秋声の反対意見にミツユキもすかさず頷いた。
『空の鳥かご』を閲覧するのは諦めた方が良い。二人から、そう決断するよう促されていた。促すというより、圧をかけるといったほうが感覚的にはより近い。
唯助は頷こうとはしなかったが――二人の圧に逆らう必要は、実のところない。
「まだ方法はある。一番真実に近い手がかりがまだ残っているんだ」
そう、調査の手段はまだ残されている。実井寧々子本人に――七本音音に直接譚を聞くという手がまだあるのだ。どうあっても自分の身を危険に晒さなければならない必要はない。
「――いや、駄目だ」
にもかかわらず。ここは諦めるのが賢明であるにもかかわらず。それが分かっているにもかかわらず。唯助はきっぱりと言い切った。
「ここで諦めるわけにはいかない」
「冷静に考えて、唯助」
即座に異を唱えたのは、少なからず驚いた様子のミツユキの方である。
「昨日も言っただろう。君は自分が愛子であることを隠すべきだし、帝国司書隊にも警戒心を持つべきだ。こんな条件を呑むなんて、危ない奴らに自分の首を差し出しているようなものだよ」
「だとしてもだ」
強い語調のミツユキに、それ以上の強い語気で返す唯助。
「あの人なら、自分の身を危険に晒してでも譚を読み解こうとする。絶対にそうする」
「そうは言っても、同じことをしなきゃいけないわけじゃないだろう。弟子だからってそれに倣うことはない。危険だ!」
少しも引き下がる気配を見せない唯助に、ミツユキも今度は手を握って訴える。
しかし、それでも唯助は、折れず曲がらずまっすぐに、ミツユキに目で訴え返した。
「どうして、そんなに意固地になるんだ。君が愛子だとバレたら、帝国司書隊の研究班に実験台モルモットにされるかもしれないんだよ。大袈裟に言っているんじゃない、過去には本当にそういうことをするような奴らがいたんだ。
奥村は良い奴だけど、愛子の秘密を隠してくれるとは限らない。帝国司書隊の長である以上、隊にとっての利益を優先させてしまう可能性だってある。信用しすぎない方がいい」
「………」
「どうしちゃったんだよ? 昼間の読み解きはあんなに躊躇ってたのに、そこからどんな心境の変化があってこうなったっていうんだ」
「……譚を見ちまったから、かな」
どうしようもない意地だ。と、唯助は笑って見せた。冷静な判断よりも、内で燃えている感情を優先させた自分に、呆れているのだ。
「ごめん、ミツユキ。それでもおれは見たい。自分の身を危険に晒したとしても、譚を読み解きたいんだ」
「………っ」
「お前、旦那の譚から生まれた分身みたいなもんだろ。なら、旦那が今のおれと同じ状況になったとき、迷わずこうするって分かってるんじゃないか?」
「う、」
「あんたなら、今のおれの気持ちもだろ? おれ、知りたくてたまらないんだ」
分かっていた。今の唯助の気持ちは、七本三八と同じなのだ。全く同一の気持ち――抗いがたい好奇心、譚を読み解きたいという欲求――なのだ。
「……はあ。分かったよ」
解ってしまった。七本三八はこうなるとどんなに止められても譚を味わおうとする。そこにどんな危険があったとしても、のめり込んでしまう。それはミツユキ自身がよく理解していた。
損得で語ったところでビクともしないのも解っているから、降参とばかりに両手を挙げた。
「私、今日だけで君に二度も折れたんだけど」
「悪ぃな、折れてくれてありがとよ」
はあ、とわざとらしく大きいため息をつくミツユキ。
「決まりですね」
それまで黙って状況を見ていた秋声だったが、彼も唯助の覚悟が固いと見るや、ソファから立ち上がった。その顔はどうしてか、どこか満足そうに、嬉しそうに笑っている。
「理由はどうあれ、貴方がそこまでの覚悟を決めたのなら、僕も協力しましょう」
「すみません、秋声先生」
「でも、実際問題どうするの? 愛子の秘密を掴ませない手立てがあるの?」
「無理でしょう。唯助くんは心眼を使って閲覧をしたい、奥村くんは閲覧の場を監視する責務がある。これらは覆せません」
「じゃあどうするんだ」
「なに、簡単ですよ。
あまり美しくないやり口ではありますがね」
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