上 下
13 / 27
三章「焼け跡の記憶」

その四

しおりを挟む
帝都とは言っても、繁華街を出れば地方と変わりない。石畳の街を抜けて眼前に広がったのは、遠くの山まで伸びた砂利だらけの畦道と、清水が引かれた田園風景だった。青々と茂るにはあと少しといったところか、成長真っ只中の苗たちが風に吹かれて波打っていた。
「案外、交番でも教えてくれるんだな」
『もう事件から六年経ってるしねぇ。捜査も終わってるみたいだし』
交番にいた警察隊員たちの訝しげな顔を思い出しつつ、唯助は黒い襟巻と共に畦道を歩いていた。
道を尋ねた時の警察隊の表情を見た時は、人が一人焼け死んでいる現場にわざわざ行くなんてどんなに神経がイカれているんだ、と言われているような気がしたが、瑣末なことだ。
これまでも調査のために数々の変なことをしてきた唯助は、たとえ変人と呼ばれようが、白眼視されようが、気味悪がられようが、さらりと受け流せるようになっていた。慣れとは恐ろしいものである。
「つかよ、ミツユキ」
『ん?』
「お前は何か情報持ってないのかよ。お前、姐さんが旦那のところに来る前から七本屋にいただろ」
『私、実井邸の火事には居合わせてないよ。主が藤京にいる間、私は七本屋に盗っ人が入らないよう留守番していたからね。主が帰ってきた時は既に、傍に七本音音がいたし』
つまり、ミツユキにはあの二人がいかにして出会ったのかも、どんな経緯があって夫婦になったのかもよく分からない。情報源としてはあてにならないし、今回の彼は完全に唯助の指南役でしかないということか。
「分かった。じゃあ、とりあえずお前、人型になれよ。もう人混みは抜けたし、周りに人もいないし。そろそろ襟巻が暑くなってきた」
『はぁい』
ミツユキは唯助の肩から離れると、襟巻から瞬く間に男の姿に変化した。
「んんーっ、ずっと同じ体勢でいるのもキツいなぁ。体が凝り固まっちゃう」
「お前の体に筋肉とか関節があるのかよ、ってツッコミはアリか?」
「さあね。凝るものは凝るとしか」
腕を上へ前へ伸ばしたりぐるぐる回したりしているミツユキからは、確かに関節の音が聞こえるのだが、そもそも不定形と言いつつしっかり体らしい体があるのが不思議でならない。が、人智を超えた存在に対していちいちつっこんだらキリがないのも事実なので、唯助は気にしないことにする。
「ちょっと歩くけど、平気か?」
「平気だよ。疲れたら君の首にまた巻き付くし」
「都合よく使いやがって、おれはお前の運び屋か」
唯助は手元の手帳を見ながら歩を進める。
そこに記されているのは、先ほど交番で尋ねた目的地への簡易地図だ。
「この道を真っ直ぐ突き進めばいいみたいだな。林の焼け跡に来たら、その中を道なりに進む」
「その先が実井邸ってことだね」
「そういうことらしい」
六年の月日が経過したが、果たして現在はどんな状態なのだろうか。人の手が入っていなければいいのだけど、とミツユキが呟く。
「交番の人たちは手つかずのまま、って言ってたけど、他の誰かが立ち入ってる可能性はあるからね。もしそこで何かしていたら、余計な雑音が増えちゃうし」
「そういうもんなのか?」
「そういうものらしいよ。主も余計なものが多いと、譚の嗅ぎ分けるのが大変だって言ってたことがある」
三八には譚の気配を匂いで嗅ぎとる力があるが、特定の譚を鼻で嗅ぎ分けながら探るなんて、まるで犬のようだと唯助は思った。
「お前にはねえの? 旦那の譚から生まれたんだし、同じ力を持ってたりとか」
「ないね。私は愛子ではなく、あくまで禁書の毒だもの。それに、匂いと言っても共感覚めいたものだから、実際に匂いがするわけじゃない。あれは主にしか分からない感覚だよ」
「ふーん」

そうして歩くこと約二時間半。
「……ねえ、唯助。なんで君、全然息上がってないの……」
「え? この程度じゃ上がらねえよ」
「嘘でしょ……」
膝に手を付きながら愕然とするミツユキ。対して、ほんの軽い散歩でもしているようにけろりとしている唯助。両者の体力の差は歴然だ。
「ちょ、もう無理……襟巻に戻らせて」
「おいおい、この程度でバテるのかよ」
情けねえなぁと唯助は呆れているが、二時間半もの間腰を落ち着けることもなく歩き通しなのだから、こればかりはミツユキのせいではあるまい。唯助の体力が無尽蔵なのだ。
「そろそろ着くぜ」
ほら、と唯助が前方を指す。
「多分、あれが焼けた林だろ。あそこまで頑張れねえか?」
「む、無理……もう一歩も歩けないよ……」
ミツユキの顔色は既に青ざめかけている。元々早歩き気味の唯助の歩速に合わせるのもしんどいのだ。
「この甘ったれ。仕方ねえ奴だ」
唯助が指で来いと合図すると、ミツユキは人型から再び蛇に戻り、唯助の首でとぐろを巻いて落ち着いた。
「あんた最凶の猛毒なのに、とんだ腑抜けじゃねえか」
『随分ボロクソに言ってくれるね。私は頭脳派なんだよ、肉体労働は専門外だ。君は自分が体力馬鹿であることを自覚した方がいい』
「誰が馬鹿だ、この青瓢箪あおびょうたんめ」
『うるさい、電車じゃ白茄子のくせに』
じゃれ合い程度に罵倒しあいながら、一人と一匹は畦道を進む。
再び歩き出した唯助はふと、風向きが変わっていることに気づく。先ほどまで追い風だったのが、今は向かい風になっていた。
「あー……ほんと気が進まねぇ」
『気持ちはわかるけど、大事なお仕事だよ』
林の焼け跡が近づくにつれて、漠然とした不安が漠然としたまま大きくなっていく気が唯助にはした。
真っ黒に燃えた雑木林は、かつては背後の山や麓の村の景色とも馴染んでいたのだろうが、今は悪目立ちと言っていいほど浮いていた。‏緻密に描かれた風景画に後からべったりと墨で描き足したように、その一角だけが不自然で、調和しないのだ。
田園風景を抜け出して、いよいよ林に踏み入る。焦げ臭さはさすがにもうないが、炭も同然な外観の木々を間近で見ると、近寄り難い圧のようなものを感じる。
「……こりゃあひでぇな」
心眼こそまだ使ってはいないものの、それでも、火事があったときの状況がいかに壮絶であったか、それを伝える痕跡が生々しく残されていた。
道を尋ねた交番の職員や街ゆく人々が怪訝そうな表情を向けるのも、改めて納得である。こんな不吉でしかない場所を、肝試しでもないのにわざわざ訪ねるなんて、よほど変わった人間でなければないだろう。
「道なり、って言ってたけど、要はここを通れってことだよな」
ところどころに転がっている倒木が邪魔で見分けにくくはあったが、よくよく見れば元は木が植えられていなかったと思われる領域がある。それを辿っていけば、実井邸の焼け跡に着くということらしい。
『転けないでよ。ここで転けたら君も煤にまみれて真っ黒になる』
「分かってるよ」
無論、唯助はこの程度で転けるほど鈍間のろまではない。子どもがけんけんぱで遊ぶのと同じように、倒木もひょいひょいと避けて進む。二時間半も腰を落ち着けないまま歩いてきた上で、ゆったりとした着物の裾を煤で汚すことなくそれをやってのけるところはやはり、彼の無尽蔵の体力と元柔術家の身体能力がなせる技である。
「……どうした、ミツユキ」
首元に巻きついている彼に、唯助が声をかける。
歩き通しで疲れてぐったりしていたミツユキが、急に頭を持ち上げて、ある一点を見つめたからだ。
『唯助、多分あそこだ』
ミツユキが見つめている一点に、唯助も目をやる。
開けた場所だった。木が立っていないかわりに、その中心には焼け残ったのであろう建物の骨組みが建っていた。煤まみれの煉瓦の破片などを見るに、おそらく西洋式の建築だ。倒壊した瓦礫の量と、骨組みが積み重なっている面積から、その大きさが伺える。
「……実井邸は昔、使用人を雇っていたって聞いたけど、結構な人数だったのかな」
『だろうね。それができるだけの経済力もかつてはあったということだ。それが最終的に、父と娘の二人暮らしになった。菅谷からの情報では、実井正蔵が妻を亡くしてから、憔悴のあまり指揮棒を振れなくなったとのことだったけど――』
「それでも全く振ってなかったわけじゃない」
これは街での聞き込みによってたまたま得た情報であった。
実井邸への道のりを訪ねていたさなかのこと――通りすがりの親切な婦人が、実は昔、実井正蔵が主催する演奏会に出席していたと教えてくれた。その開催日というのが、実井正蔵の妻が亡くなった後だったと言うのだ。素晴らしい演奏会だったと、彼女は懐かしそうに語っていた。
「その後も何度か演奏会を開いていたそうだし、まったく指揮者として活動してなかったってわけでもないみたいだな」
『けれど、結果的には使用人を全員解雇しなければならなかった。愛娘と特に仲が良く、精神的な支えにもなってくれていた菅谷まで』
やはり、愛する妻を失って、精神的に辛いものがあったのだろうか。街の婦人の話でも、前ほど演奏会を開くことは少なくなっていたようだし。もしかすると、娘を養うために無理をしていたのかもしれない。
『考えていても始まらないね』
ミツユキは唯助の肩から飛び降りると、再び人型に姿を変える。
「やってみよう、唯助」
唯助は頷いて、焼け残った瓦礫に触れ、目を閉じる。
……目を閉じても、何も起きなかった。
「――だめだ、全然使えねえ。なんなんだ、何がいけないってんだ」
図書館へ調べ物に行った時に続き、またも上手くいかないのである。三八の譚を読み解こうとした時は、彼に縁のある土地で目を閉じ眠っただけで、覗くことができたのに。今は何をしても、瞼を閉じた際の闇しか見えない。
「多分、君が乗り気じゃないからじゃない?」
「はぁ? 当たり前だろ、明らかにやばい譚だってのにノリノリで読み解けってか」
皮肉のつもりで言った唯助だが、ミツユキはそれを頷く。大真面目に、大きく頷く。
「依頼だから、仕事だから仕方なくやってるんでしょ。それは分かる。でも、今の君はまるで仕事に身が入ってないよ」
「じゃあどうしろってんだ。まさか旦那みたいに、うきうきわくわくドッキドキに楽しめってか。そりゃ随分悪趣味だぜ」
けっ、と嫌悪感を露わにする唯助だが、それでもミツユキは真顔を崩さなかった。
「悪趣味だけど、極論を言うとそうだよ。
君、ぶっちゃけ、こんなの読み解きたくな~い! って思ってるでしょ」
「そりゃ、そうだな」
「それじゃ使えるわけないよ。あれは強い感情が働いて初めて使える能力だもの」
「強い感情?」
「例えば主の言霊――あれは主の感情が大きく昂った時に使えるんだ。八田幽岳に自害を強いて殺すことができたのも、彼の積年の恨みと殺意、そして大事なものを傷つけようとしている者への激しい怒りがあってこそだったんだ。
つまり、今君に足りないものは――知りたいという欲求さ。仕事に対する義務感抜きの、純粋な君の欲望」
思い返してみれば、唯助が三八の譚を読み解いたときも、彼の譚を知りたいという意欲があった。自分の出る幕ではないかもしれないと思ってはいても、三八に対して、譚を読み解いて欲しいと言われることを期待していたくらいには、強く欲していた。
七本三八のことをもっと知りたい、そんな気持ちがあったからこそ、唯助は無意識に心眼を使っていた――そう考えれば、確かに辻褄が合う。
「……でも、正直あまり見たくねぇよ」
「ほんとう?」
瞬間、唯助はミツユキのその言葉にぎょっとする。たった四文字の台詞が、まるで耳元で囁かれたかのような鮮明さを持って、彼の心に迫ってきたのだ。
「本当に、心の底からそう思ってる?」
にたり、とミツユキが笑う。否、湿ったような不気味さを込めて、にちゃりと笑う、と言った方がいいかもしれない。そんな不快な笑顔を浮かべて、ミツユキは
「ねえ、唯助。君はわざわざこんな辺境まで来たんだよ。それこそ、電車に酔って白茄子になってまで無理をした。しんどかったでしょ? けどそれって、義務感だけでできることかなぁ?」
と、わざとらしく、いやらしく聞いてくる。
「なのに、君は嫌だ嫌だという態度ばかり取るじゃないか。そんな状態で呼びかけられたって、譚たちも困っちゃうよ。
ねえ。本当に君は、実井寧々子の秘密を絶対に知りたくないのかい? そう言いきれるかい?」
言えるか、ではなく。、という聞き方をされれば、そうとは言いきれなかった。おそらく、聞かれたのが唯助でなかったとしても、やはり知りたくないとは言いきれないだろう。情報を三まで得てしまえば、九や十まで知ってしまいたくなるのが人の性だ。新聞の見出しを見て、詳細を確かめたくなって、ついつい本文まで読みふけってしまうのと同じ心理である。
しかし、それが正直な心境だったとしても、そんな野次馬根性みたいなものが自分の中にあるなんて認めたくない、と思うのも普通の感覚である。唯助は声を搾って「知りたくない」と言おうとするが、
「否定するなよ」
と、ミツユキの声がまたしても、鮮烈に胸に迫ってくる。
「八田光雪の時と同じように、知りたいという気持ちを受け入れるんだ。そうすれば、見えてくるはずだよ」
ミツユキは、笑って細めていた目をすっと開けて、はっきりと口を動かしながら言った。
「――譚たちは君を愛しているのだから」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

何を間違った?【完結済】

maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。 彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。 今真実を聞いて⋯⋯。 愚かな私の後悔の話 ※作者の妄想の産物です 他サイトでも投稿しております

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

【完結】愛していないと王子が言った

miniko
恋愛
王子の婚約者であるリリアナは、大好きな彼が「リリアナの事など愛していない」と言っているのを、偶然立ち聞きしてしまう。 「こんな気持ちになるならば、恋など知りたくはなかったのに・・・」 ショックを受けたリリアナは、王子と距離を置こうとするのだが、なかなか上手くいかず・・・。 ※合わない場合はそっ閉じお願いします。 ※感想欄、ネタバレ有りの振り分けをしていないので、本編未読の方は自己責任で閲覧お願いします。

処理中です...