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1巻
1-2
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「つまるところ、少年はハルというそば屋の看板娘に許嫁がいることを知ってから、彼女に片想いしていたことに気づいた。そして、叶わぬ情景を夢見てしまうほど想ってしまい、どうにも強すぎる恋心、まあ要するに未練をスッパリ断ち切ってしまいたい。ということでいいのかな」
「旦那の仰る通りです。まさにそれです」
「他には?」
「他? 他ってのは?」
「いんや、他に語ることがないならそれでいい」
他も何も、少年は洗いざらい吐いたつもりだ。もうこれ以上語ることがないくらいに、語ったつもりである。否、正確には語ってはいないのだが、詳細まで語らずともいいと無意識に判断していた。にもかかわらず、七くらいの情報から残りの三を全て見透かされた気がした。同時に、男がそういう能力がある人間のように感じた。
男はそこで話にひと区切りつけると、改めて唯助に向かって言った。
「少年、先に言わせてもらおう。まず、少年に譚本は適用できん」
「え、なんで?」
大げさに身を乗り出す唯助に対し、男はその眼前へ人差し指を立てた手を突き出す。
「一つ、恋の病に効く譚本などという都合のいいものはこの世に存在しない。恋とは単純明快で、難透難解で、よく分からん代物だ。時に自分の恋でさえ、なんぞやと分からなくなる。そんな曖昧模糊、複雑多岐なものにどう譚本を適用しろと言う。恋人と読んで都合よくいちゃつき辟易するほどべたべた触れ合いたい、あわよくば肌に吸いつき肌を揉みしだきたいというならば、それに応じた恋愛譚やら官能譚やらを紹介できる。だが、少年は叶わぬ恋を断ち切るための譚本が欲しいという。単刀直入に言おう。それは無理だ。少年が自力でカタをつけるしかない」
なんだ、それじゃあ話が違うじゃないか。帝国司書が勧めてくれた店なのだから、当然譚本を紹介してくれるだろうと思い込んでいた唯助は、期待を大きく裏切られて詐欺に遭ってしまった気分だった。文句を言おうとした唯助に、男は二本目の指を立てる。
「二つ。うちが貸本屋として貸せるのは譚本の『写本』だけだ。少年の求めるほどの効能を持つ『原本』を貸すことはできん。法律違反になってしまうのでな」
「へっ?」
男の言動に不満が噴出する寸前の唯助だったが、ここでいきなり聞き覚えのない言葉を並べられて、一気に困惑へと変わった。
「『写本』? 『原本』? 法律で決まってる、って?」
そんな唯助の態度を見て、今度は男の方が困惑する。
「少年、知らんのか? まさかとは思うが、聞いたことすらないと言うのか?」
いやまさかそんなことは言いませんよね、という気持ちを男は言外に込めたのだが、唯助はそれに対しただ一言、「知らない」と返答する。
「……これは驚いた。君くらいの年頃なら知っていて当然の知識のはずなのだが……いや、今なら尋常小学校でもしっかり教えられるような内容だぞ。少年よ、君は一体どのような環境で育ってきたのだ。並の教育を受けてきたとは思えん」
唯助の返答は男にとって想定外であった。信じられないという男の驚愕ぶりが、そのままため息として出てくる。
「並の教育なんて受けさせてもらえるもんか。うちは根っから武闘派の道場だし、法律とか原本だとか、そんなもんは教えてすらくれない。譚本とか術本ってのも、おれが勝手に身につけた知識だ」
よく分からないながらも馬鹿にされたような気がした唯助は、無知ですいませんでしたねと言わんばかりのむすっとした態度で言い返す。男はあまりにも嘆かわしい唯助の状態を前に、開いた口が塞がらないようだった。指二本なら容易く入りそうな大きさに口をぽかーんと開けている男を見て、自分の発言の異様さにまるで気づいていない唯助は首を傾げる。
「では、少年。我ら人類は譚本を読み解くことで物語を体感したり、術本を読み解くことで先人たちが記した技術を再現することができる。そのことは知っているね?」
「え? はい、それは勿論」
「では、一般の人々がそれをするときは大抵『写本』のほうが使われているのだけど、どうしてか知っているか?」
「んっ? いえ、それは……」
「『原本』と『写本』の違いについては?」
「え、え、お」
「本が如何様にして生み出されるかは?」
「………」
男は唯助が果たしてどの段階まで社会常識を理解しているのか、逆に言えばどれほど物を知らないのかに探りを入れた。人間、自分の知らない知識や用語を一挙に並べ立てられると混乱するものである。一般人なら迷うことなく「知っています」と首を縦に振るであろうものを、唯助は縦にも横にも振ることができなかった。これは重症どころの話ではないな、と悟った男は、
「……少年、小生は今から君に大事な話をする。この国の法律にも関わる話だ。君のご実家の教育方針以前に、これくらいは知っておかないと、この先本当に困ることになる。よその変なおじさんの話だからと聞き捨てないで、ここはよぉーーく覚えておきなさい」
と、突然、まるで幼子に強く言い聞かせるような口調で話しはじめた。唯助からしてみれば、紙風船のようにやる気のなかったはずの男が急に腰を入れてきたものだから、面食らってしまう。
「『本』とは、読み解きをすることで単なる読み物としてではなく、物語を体感したり、技術を再現することができる。不思議な力を持つ道具のことだ。このへんは分かるね?」
男による丁寧な本の解説が始まると、唯助は律儀にも耳を傾け、頷いた。
「作家が一冊の本を紡ぐには必ず『核』が必要になる。ここで言う『核』は、譚本に内包される物語や、術本に内包される技術が蓄積した物質のことだ」
「? えー……と?」
「例えば、時計を作るための術本なら、その技術を用いて作られた時計が核になる。譚本なら、物語を綴った原稿用紙が多くは核になるね」
「あ、なるほど」
唯助は知識の足りない頭ながらも精一杯、知恵を働かせて男の説明を咀嚼する。
「さて、その核をもとに作家の手で紡がれた原初の一冊のことを、この国では『原本』と呼ぶ。核から紡がれた原本はとても強い力を持っていて、一般の人々が使うと危険な事故を起こしてしまうことがあるんだ。だから『原本』は原則として、民間の書店などでやり取りしてはいけないし、国の許可なく所持してはいけないと法律で定められている」
「じゃあ、もしやり取りをしちゃったらどうなるんです?」
「分かっててやったのなら、店側は営業停止を命じられるだろうね。客側にもそれなりの罰金刑が下るだろう。恋の病を断ち切れる譚本が欲しいという話から察するに、君が求めているのは擬似体験ができる『原本』のほうなのだろう。しかし、それはこういう理由があるから提供ができないのだ。分かってもらえたかね」
法律で決まっているのなら仕方がない。唯助は男の説明に素直に納得した。知らなかったとはいえ、危うく法を犯すところだったことに気づき、ほっと胸を撫で下ろす。
「その代わりに民間でやり取りされているのが、原本から複製して作った『写本』だ。こちらは原本ほど強い力を持たない。その分事故が起きにくくて安全だからね。うちのような書店に置いてある譚本の写本に至ってはただの読み物だからまったくの無害だ。君が求めていたのがもしそちらだったのならば、何冊か見繕って貸し出すことはできたのだけど――」
男はそこで言葉をひと区切りし、ちらりと唯助のほうへ視線を投げかける。――いや、実際にはそんな目の動きなど髪に隠れて、唯助にはちらりとも見えなかったのだけど。
「それでは少年は納得せんだろうし、少年の悩みも解決には至らん。そうだろう?」
男は少し冷めた茶をぐっと呷る。唯助は明確な返答ができず、ただ困って俯くだけだった。
男は茶を飲み干すと、懐から少し潰れた紙製の小箱と、それよりひと回り小さい箱を取り出す。潰れた箱の中身は、唯助の小指よりも気持ち細い紙の棒だった。男は紙の棒の端を唇に挟むと、続いて小さな箱からしゃかしゃかと細い木の棒を取り出し、赤く膨れたその先端を箱に擦りつけて火をおこした。そして、火を細い紙の棒にあてがう。
「……なんだ、それ」
「なんだ、少年。煙草も知らんのか?」
「見たことねえ。それに妙ちきりんな匂いの煙だ」
「本当に世間知らずだねえ、君。ここまでくると生い立ちがとても気になるよ」
まあそんなことより、と男は一旦煙草の煙を口に含んで、それをひとしきり吐き出した。
「譚本の提供は無理だ。これはしっかり言い切ろう。だが、依頼は依頼、それもあの柄田が寄越してきた依頼ならば、小生も断ることができん。それに少年、小生は君に興味が湧いた」
「え?」
興味が湧いた、とのたまう男に、唯助はぽかんと口を開けた。なぜなら唯助が予想していた展開は、恋の病に効く譚本などないから出ていけ、と断られる流れだったからだ。だが、男は唯助の予想とは随分違ったことを口にしたのである。
「小生は君自ら譚を語ることを期待したのだがね。君が語る恋の譚とやらはまーーーぁ薄っぺらい。饅頭の皮一枚にも及ばんくらい薄っぺらくて手助けなどできるわけがない。君があんまりにも頬を赤くするうえ、耳までどんどんカンカン赤くなっていくものだから、さすがに深く問い詰めるのも可哀想かとも考えたのだがね。しかし、これではパン粉だけ渡されてとんかつを作れと言われているようなものだ。無論、できあがるのはきつね色のトゲトゲした天かすがせいぜいだろう」
「は? 待ってください、手助けって? なんの手助けです?」
唯助はべらべらと滑らかに喋る男の言葉の滝に翻弄されつつ、それでもその物言いには妙な引っかかりを覚えた。
「無論、少年の抱えた恋の病についてだ」
「いや、おれは別にそこまで求めてねえんだけど⁉」
自分はあくまで譚本を求めて来たのであって、それが叶わないとなれば素直に店を後にするつもりだった。具体的な恋愛相談など本当はしたくなかったし、恋模様も譚本が欲しいから恥を忍んで仕方なく語ったのだ。そうでなければ、誰が好き好んでこんないかにも怪しく面倒極まりない男に話すものか。
唯助の動揺をよそに、男は人差し指の腹で自らの鼻筋を自慢げに叩いて笑った。
「少年、小生は譚にかけては驚くほど鼻が利くのだ。君の譚に小生が呼ばれたのか、あるいは譚のほうが小生に向かってきたのかは分からんが、これはいい譚だ。久々に踊りたくなるような、まっこといい譚だ。だから、君の譚は聞いてやりたいと思ってるし、読み解いてやりたいとも思ってる」
唯助には男が何を言ってるのか、皆目分からなかった。唯助はこんなにも、それこそ今すぐにでも譚本を欲するほど恋に悩み、苦しんでいるというのに、男はそれをいい話だと言う。頼んでもいないのに、話を聞いてやると、いかにも傲慢なことを言い、幼子が新しい玩具を与えられた時のような無邪気な足踏みをしていた。恋話に花を咲かせる乙女のそれとはまた違って、男は目に見えてうきうきしていたのだ。
唯助の心の深層、つまりは自分以外の誰かに踏み入られることさえ憚られるところに、男は土足で入り、あろうことか踊っている。
唯助もそれなりに不躾な若人であったが、そんな唯助でさえ顔をしかめてしまうほど、男は実に甚だしく不遜で、無遠慮な男であった。
「少年、小生は君を逃がしはしないぞ。その譚、骨の髄までしゃぶってたっぷりと味わわせてもらおう。もう日が暮れるし、今宵はここに泊まっていくといい。二階にちょうど使っていない部屋があるから貸そう。そうそう、我が愛妻の手料理は、老舗旅館の料理人のそれよりも美味いのだ。君も味わっていくといい。せっかく迎えた久々の客人だからな、こちらも最大限のもてなしをさせてもらおうじゃないか」
唯助は硝子戸の向こうにある外の景色を見る。確かに、いつの間にか窓からは斜陽が差し込み、本棚の影が長く背を伸ばして横たわっていた。
唯助は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「ああ、先に言っておくが、君の譚を根掘り葉掘り真の髄まで覗こうとするのは、小生の好奇心からではない。否、それもごく少々含まれるんだが、大半は恋を患った少年を心配するがゆえのものだと思ってくれ」
「嘘をつけえ!」
あまりに奔放な男に不満を溜めていた唯助は、思わず大きな声で文句を言った。
三
唯助が目を覚ましたのはまだ日も昇っておらず、少しだけ空が明るんでいる、そんな時分だった。春眠暁を覚えずというが、唯助の一日は暁を拝むことから始まる。それはまだ少し肌寒く、布団の中が心地いい四月でも変わらない。唯助はいつもと違う目覚めの風景に目を擦り、あたりをゆるりと見回した。
(ああ、そうか。泊まりだった)
夜明け前の冷たい空気が、霞のように覚束ない唯助の頭を覚醒へと導く。唯助はむくりと起き上がって、好き勝手あっちゃこっちゃに散らばった珍しい茶髪を散切りよりも時代遅れな、否、時代に逆らうかのような総髪に結い上げた。萌木色の着物に袖を通して、しんと静まり返った家の階段を足音ひとつ立てずに下りていく。井戸を借りて顔を洗い終える頃には、唯助の頭はすっかり冴えていた。
唯助はふと、昨晩のことを思い出し、本当にえらい目に遭った――とため息をついた。
この店の主たる男はあの後、宣言通り唯助を離すことなく、恋だの愛だのを語らせまくった。お年頃の唯助としては恥ずかしさで泣きたくなるほど、それこそ拷問にも等しい行為だった。
やっと男から解放されたからさあ帰ろうと思ったその時に、今度は娘が夕餉を運んできた。男の拘束から一刻も早く逃れたかった唯助だが、娘の桜のような柔和な笑みと好意は無下にできなかった。
まんまと美味い飯を食わされた唯助はそれでも諦めず、これ以上世話になるわけにはいかないからと理由をつけて、さあ帰ろう、と二人の目を盗み、台所脇の勝手口からそうっと出ていこうとした。
そこで、奇妙なことが起きたのである――
「やめておけ、少年。今宵は外に出ない方がいい」
こっそり開けた勝手口の硝子戸は、背後から声が聞こえると同時に、ぴしゃんと閉まったのである。取っ手にかかった唯助の指に逆らうように。これには唯助も「ひぇっ」と声を上げて驚いた。
「ぎゃーーーッ‼ ごめんなさいごめんなさいごめんなさい‼」
青ざめた唯助は動転し、固く閉じられた戸をなんとかこじ開けようとするが、いくら体重をかけてもびくともしない。そんな彼に追い打ちをかけるように、背後からくすくすと不気味な笑い声が聞こえてくる。こんな時、わざわざ振り返らなければいいものを、やってしまうのが、あらゆる怪談のお約束である。唯助もまた、おそるおそる振り返った。
「でッ、出たぁああああああッ‼」
唯助が声を裏返して叫ぶのもむべなるかな。彼が振り返ったその先には、薄気味悪い妖怪のような面をした、もさもさ頭の男が立っていたのだ。しかも男の立っている位置は、どんなに手を伸ばしても硝子戸の取っ手には絶対に届かないところだ。ならば。ならば誰が戸を閉めて唯助を閉じ込めているというのか。不可解な現象に気づいてしまった唯助の恐怖は、さらに加速した。
「やだやだやだ助けて‼ 幽霊だけは駄目なんだよ、おれぇぇ‼」
「失敬な! 人を幽霊呼ばわりするんじゃない」
いいから落ち着きなさい、と言いながら、どう見ても妖怪にしか見えない男が唯助の頭を引っぱたいた。
「あのなあ、少年。小生は少年のために言っているのだぞ?」
「ふぇ……?」
引っぱたかれた痛みが本物であることに気づいた唯助は、少しだけ冷静さを取り戻し、男の顔をまじまじと見る。薄気味悪い妖怪かと思われたそれは、どうやら生きた人間のものであるらしい。
「この町の夜は少しばかり物騒になることがあるのだ。この町にはね、夜闇に紛れて蠢くものがあるのだよ。だから今宵は泊まっていきなさい。確実に事なきを得たいのであればな」
今の唯助にとっては外の夜闇よりなにより、目の前にいる男のほうが数倍恐ろしかった。男は硝子戸からかなり距離をとっていたはずなのに、なぜ硝子戸が閉まり、開かなくなってしまったのかが分からないのだから。この男が何かをしたのか、あるいは何かが唯助をここから出すまいとしたのか――今ほど起きたことが非常に不可解なだけに、唯助は恐ろしくてたまらなかった。
男は怯える唯助を気遣ってか、こんなふうに言葉をかけたのだった。
「安心しろ。小生も、妻も、君をとって食ったりはしない。だがもしもの、君がこの家で寝泊まりする中で身の危険を感じた時のために、石でも金槌でも文鎮でも一つ持っていくといい。気休めくらいにはなるだろうさ」
あんなのもう思い出すまい、と唯助は記憶を振り払うように首をぶんぶん振る。今日こそは上手いことあの男から逃げなければ。唯助は気を取り直して居間へ向かった。
「おはようございまッ」
そして居間で繰り広げられていた光景に目を剥いた。同時に、そこにいた娘――いや、昨日の男の言葉や態度から察するに、男の妻のようだ――も「ひゃっ」と悲鳴を上げる。動じなかったのはただ一人、蛇の腹のようになまっ白い肌の、唯助よりも酷い癖毛で目を隠した、二十代半ばらしき男だけである。
「おお、少年。目覚めが早いな。感心感心」
「な、な、な」
お年頃の唯助は頬を真っ赤に染めて震えていた。それもそのはず、男は妻と、こんな時分から、この爽やかな春暁の中で、熱烈に口を吸い合っていたのである。泊まりの客がそんな光景を目撃し固まっていて、妻もそれに驚いて固まっていて、男だけが臆面もなく妻の腰を抱きしめていた。
「そんなに驚くかい? 夫婦が口を吸い合う光景なんてよくあるだろう」
あっけらかんと笑っているこの男の字引きに、恥じらいという言葉はないのだろうか。人並みの羞恥心があれば、口吸いの場面で突然人が乱入してくる事態に驚かずにはいられないはずなのだが。男は昨日吸っていた紙巻き煙草と妻の唇は同じだとでも言わんばかりに、平然としていた。
「あの、みや様! そろそろご飯が炊ける頃合いですし、唯助さんも起きられたようですから、朝餉の準備をしてまいりますね」
妻が男の腕をのけて、台所の奥へ逃げ込む。男は「あ」と去っていく彼女を引き止めようとするが、伸ばした手が空を切ると、とても残念そうに唇でへの字を作った。
「あーあ、少年がもう少し遅く起きてくれば、満足するまで吸えたのに。残念残念」
「それはおれのせいじゃねえだろ」
そういう話を客前でするものではなかろうに、と唯助は嘆息した。
台所から味噌汁の匂いが立ち、それから少しして、
「お待ちどおさまです」
と、妻が漆塗りの盆を手に現れる。大盛り二つと小盛が一つの白飯、味噌汁の椀といくつかの小鉢が盆の中に座っていた。
「言ってくれれば運んだものを」
男はそう言いながら、盆から大きさの違う茶碗を一つずつ引き取り、唯助と妻の前にある箱膳へそれぞれ置いた。人前ではあれだけ無神経なくせに、伴侶に対する気遣いはあるのか、と唯助はその手際を見てぼんやり思った。
「ほお、鯡漬けか」
「先日、朝市で身欠き鯡が手に入りましたので。魚屋の川原さんがお勧めしてくださったの」
「なるほど、春告魚か。春に相応しいものを勧めてもらったんだね」
「ええ。湯も用意がありますから、梅干しと合わせてお茶漬けもできますよ。こちらの数の子の和え物は、川原さんの奥さんが教えてくださって――」
目の前に美味そうな料理を置かれて、その匂いを吸っているだけで腹の虫が鳴りそうだというのに、二人の会話まで美味そうだったから、唯助は口に唾が溜まるのを感じた。
「少年、先に食べるといい。せっかくの飯が冷めてしまうよ」
「いえ、まだ大丈夫ですよ。旦那の方こそ、先に食べないんですか?」
「食べないよ。作り手の嫁が座ってもいないのに手をつけるのは失礼だろう」
「もう、お二人とも気にしないで召し上がってくださればいいのに」
先を譲り合う二人に笑いかけつつ、支度を全て終えた妻が自分の膳の前に腰を下ろす。
「さて、ではいただこうか」
男が手を合わせ、妻も「はい、みや様」と続いて手を合わせたので、唯助もそれに倣う。男と妻が白飯に箸をつけたところで、唯助はようやく料理に手を出した。
この大昌の世では一家の大黒柱たる父、あるいは夫が先に料理に箸をつけ、それに続いて他の者が順番に箸をつけるのが慣わしである。場合によっては客人に先に食べさせることもある。しかし、女性が先に箸をつけることはほとんどない。女性は男の後に飯を食べはじめるというのが、男尊女卑的な大昌の世の風習であった。
しかし、ここでは珍しいことに、男も女も等しく手を合わせて、同時に手をつけた。傍から見ていた唯助のみならず、よその者なら誰もが変わっていると感じる光景であろう。
「旦那の仰る通りです。まさにそれです」
「他には?」
「他? 他ってのは?」
「いんや、他に語ることがないならそれでいい」
他も何も、少年は洗いざらい吐いたつもりだ。もうこれ以上語ることがないくらいに、語ったつもりである。否、正確には語ってはいないのだが、詳細まで語らずともいいと無意識に判断していた。にもかかわらず、七くらいの情報から残りの三を全て見透かされた気がした。同時に、男がそういう能力がある人間のように感じた。
男はそこで話にひと区切りつけると、改めて唯助に向かって言った。
「少年、先に言わせてもらおう。まず、少年に譚本は適用できん」
「え、なんで?」
大げさに身を乗り出す唯助に対し、男はその眼前へ人差し指を立てた手を突き出す。
「一つ、恋の病に効く譚本などという都合のいいものはこの世に存在しない。恋とは単純明快で、難透難解で、よく分からん代物だ。時に自分の恋でさえ、なんぞやと分からなくなる。そんな曖昧模糊、複雑多岐なものにどう譚本を適用しろと言う。恋人と読んで都合よくいちゃつき辟易するほどべたべた触れ合いたい、あわよくば肌に吸いつき肌を揉みしだきたいというならば、それに応じた恋愛譚やら官能譚やらを紹介できる。だが、少年は叶わぬ恋を断ち切るための譚本が欲しいという。単刀直入に言おう。それは無理だ。少年が自力でカタをつけるしかない」
なんだ、それじゃあ話が違うじゃないか。帝国司書が勧めてくれた店なのだから、当然譚本を紹介してくれるだろうと思い込んでいた唯助は、期待を大きく裏切られて詐欺に遭ってしまった気分だった。文句を言おうとした唯助に、男は二本目の指を立てる。
「二つ。うちが貸本屋として貸せるのは譚本の『写本』だけだ。少年の求めるほどの効能を持つ『原本』を貸すことはできん。法律違反になってしまうのでな」
「へっ?」
男の言動に不満が噴出する寸前の唯助だったが、ここでいきなり聞き覚えのない言葉を並べられて、一気に困惑へと変わった。
「『写本』? 『原本』? 法律で決まってる、って?」
そんな唯助の態度を見て、今度は男の方が困惑する。
「少年、知らんのか? まさかとは思うが、聞いたことすらないと言うのか?」
いやまさかそんなことは言いませんよね、という気持ちを男は言外に込めたのだが、唯助はそれに対しただ一言、「知らない」と返答する。
「……これは驚いた。君くらいの年頃なら知っていて当然の知識のはずなのだが……いや、今なら尋常小学校でもしっかり教えられるような内容だぞ。少年よ、君は一体どのような環境で育ってきたのだ。並の教育を受けてきたとは思えん」
唯助の返答は男にとって想定外であった。信じられないという男の驚愕ぶりが、そのままため息として出てくる。
「並の教育なんて受けさせてもらえるもんか。うちは根っから武闘派の道場だし、法律とか原本だとか、そんなもんは教えてすらくれない。譚本とか術本ってのも、おれが勝手に身につけた知識だ」
よく分からないながらも馬鹿にされたような気がした唯助は、無知ですいませんでしたねと言わんばかりのむすっとした態度で言い返す。男はあまりにも嘆かわしい唯助の状態を前に、開いた口が塞がらないようだった。指二本なら容易く入りそうな大きさに口をぽかーんと開けている男を見て、自分の発言の異様さにまるで気づいていない唯助は首を傾げる。
「では、少年。我ら人類は譚本を読み解くことで物語を体感したり、術本を読み解くことで先人たちが記した技術を再現することができる。そのことは知っているね?」
「え? はい、それは勿論」
「では、一般の人々がそれをするときは大抵『写本』のほうが使われているのだけど、どうしてか知っているか?」
「んっ? いえ、それは……」
「『原本』と『写本』の違いについては?」
「え、え、お」
「本が如何様にして生み出されるかは?」
「………」
男は唯助が果たしてどの段階まで社会常識を理解しているのか、逆に言えばどれほど物を知らないのかに探りを入れた。人間、自分の知らない知識や用語を一挙に並べ立てられると混乱するものである。一般人なら迷うことなく「知っています」と首を縦に振るであろうものを、唯助は縦にも横にも振ることができなかった。これは重症どころの話ではないな、と悟った男は、
「……少年、小生は今から君に大事な話をする。この国の法律にも関わる話だ。君のご実家の教育方針以前に、これくらいは知っておかないと、この先本当に困ることになる。よその変なおじさんの話だからと聞き捨てないで、ここはよぉーーく覚えておきなさい」
と、突然、まるで幼子に強く言い聞かせるような口調で話しはじめた。唯助からしてみれば、紙風船のようにやる気のなかったはずの男が急に腰を入れてきたものだから、面食らってしまう。
「『本』とは、読み解きをすることで単なる読み物としてではなく、物語を体感したり、技術を再現することができる。不思議な力を持つ道具のことだ。このへんは分かるね?」
男による丁寧な本の解説が始まると、唯助は律儀にも耳を傾け、頷いた。
「作家が一冊の本を紡ぐには必ず『核』が必要になる。ここで言う『核』は、譚本に内包される物語や、術本に内包される技術が蓄積した物質のことだ」
「? えー……と?」
「例えば、時計を作るための術本なら、その技術を用いて作られた時計が核になる。譚本なら、物語を綴った原稿用紙が多くは核になるね」
「あ、なるほど」
唯助は知識の足りない頭ながらも精一杯、知恵を働かせて男の説明を咀嚼する。
「さて、その核をもとに作家の手で紡がれた原初の一冊のことを、この国では『原本』と呼ぶ。核から紡がれた原本はとても強い力を持っていて、一般の人々が使うと危険な事故を起こしてしまうことがあるんだ。だから『原本』は原則として、民間の書店などでやり取りしてはいけないし、国の許可なく所持してはいけないと法律で定められている」
「じゃあ、もしやり取りをしちゃったらどうなるんです?」
「分かっててやったのなら、店側は営業停止を命じられるだろうね。客側にもそれなりの罰金刑が下るだろう。恋の病を断ち切れる譚本が欲しいという話から察するに、君が求めているのは擬似体験ができる『原本』のほうなのだろう。しかし、それはこういう理由があるから提供ができないのだ。分かってもらえたかね」
法律で決まっているのなら仕方がない。唯助は男の説明に素直に納得した。知らなかったとはいえ、危うく法を犯すところだったことに気づき、ほっと胸を撫で下ろす。
「その代わりに民間でやり取りされているのが、原本から複製して作った『写本』だ。こちらは原本ほど強い力を持たない。その分事故が起きにくくて安全だからね。うちのような書店に置いてある譚本の写本に至ってはただの読み物だからまったくの無害だ。君が求めていたのがもしそちらだったのならば、何冊か見繕って貸し出すことはできたのだけど――」
男はそこで言葉をひと区切りし、ちらりと唯助のほうへ視線を投げかける。――いや、実際にはそんな目の動きなど髪に隠れて、唯助にはちらりとも見えなかったのだけど。
「それでは少年は納得せんだろうし、少年の悩みも解決には至らん。そうだろう?」
男は少し冷めた茶をぐっと呷る。唯助は明確な返答ができず、ただ困って俯くだけだった。
男は茶を飲み干すと、懐から少し潰れた紙製の小箱と、それよりひと回り小さい箱を取り出す。潰れた箱の中身は、唯助の小指よりも気持ち細い紙の棒だった。男は紙の棒の端を唇に挟むと、続いて小さな箱からしゃかしゃかと細い木の棒を取り出し、赤く膨れたその先端を箱に擦りつけて火をおこした。そして、火を細い紙の棒にあてがう。
「……なんだ、それ」
「なんだ、少年。煙草も知らんのか?」
「見たことねえ。それに妙ちきりんな匂いの煙だ」
「本当に世間知らずだねえ、君。ここまでくると生い立ちがとても気になるよ」
まあそんなことより、と男は一旦煙草の煙を口に含んで、それをひとしきり吐き出した。
「譚本の提供は無理だ。これはしっかり言い切ろう。だが、依頼は依頼、それもあの柄田が寄越してきた依頼ならば、小生も断ることができん。それに少年、小生は君に興味が湧いた」
「え?」
興味が湧いた、とのたまう男に、唯助はぽかんと口を開けた。なぜなら唯助が予想していた展開は、恋の病に効く譚本などないから出ていけ、と断られる流れだったからだ。だが、男は唯助の予想とは随分違ったことを口にしたのである。
「小生は君自ら譚を語ることを期待したのだがね。君が語る恋の譚とやらはまーーーぁ薄っぺらい。饅頭の皮一枚にも及ばんくらい薄っぺらくて手助けなどできるわけがない。君があんまりにも頬を赤くするうえ、耳までどんどんカンカン赤くなっていくものだから、さすがに深く問い詰めるのも可哀想かとも考えたのだがね。しかし、これではパン粉だけ渡されてとんかつを作れと言われているようなものだ。無論、できあがるのはきつね色のトゲトゲした天かすがせいぜいだろう」
「は? 待ってください、手助けって? なんの手助けです?」
唯助はべらべらと滑らかに喋る男の言葉の滝に翻弄されつつ、それでもその物言いには妙な引っかかりを覚えた。
「無論、少年の抱えた恋の病についてだ」
「いや、おれは別にそこまで求めてねえんだけど⁉」
自分はあくまで譚本を求めて来たのであって、それが叶わないとなれば素直に店を後にするつもりだった。具体的な恋愛相談など本当はしたくなかったし、恋模様も譚本が欲しいから恥を忍んで仕方なく語ったのだ。そうでなければ、誰が好き好んでこんないかにも怪しく面倒極まりない男に話すものか。
唯助の動揺をよそに、男は人差し指の腹で自らの鼻筋を自慢げに叩いて笑った。
「少年、小生は譚にかけては驚くほど鼻が利くのだ。君の譚に小生が呼ばれたのか、あるいは譚のほうが小生に向かってきたのかは分からんが、これはいい譚だ。久々に踊りたくなるような、まっこといい譚だ。だから、君の譚は聞いてやりたいと思ってるし、読み解いてやりたいとも思ってる」
唯助には男が何を言ってるのか、皆目分からなかった。唯助はこんなにも、それこそ今すぐにでも譚本を欲するほど恋に悩み、苦しんでいるというのに、男はそれをいい話だと言う。頼んでもいないのに、話を聞いてやると、いかにも傲慢なことを言い、幼子が新しい玩具を与えられた時のような無邪気な足踏みをしていた。恋話に花を咲かせる乙女のそれとはまた違って、男は目に見えてうきうきしていたのだ。
唯助の心の深層、つまりは自分以外の誰かに踏み入られることさえ憚られるところに、男は土足で入り、あろうことか踊っている。
唯助もそれなりに不躾な若人であったが、そんな唯助でさえ顔をしかめてしまうほど、男は実に甚だしく不遜で、無遠慮な男であった。
「少年、小生は君を逃がしはしないぞ。その譚、骨の髄までしゃぶってたっぷりと味わわせてもらおう。もう日が暮れるし、今宵はここに泊まっていくといい。二階にちょうど使っていない部屋があるから貸そう。そうそう、我が愛妻の手料理は、老舗旅館の料理人のそれよりも美味いのだ。君も味わっていくといい。せっかく迎えた久々の客人だからな、こちらも最大限のもてなしをさせてもらおうじゃないか」
唯助は硝子戸の向こうにある外の景色を見る。確かに、いつの間にか窓からは斜陽が差し込み、本棚の影が長く背を伸ばして横たわっていた。
唯助は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「ああ、先に言っておくが、君の譚を根掘り葉掘り真の髄まで覗こうとするのは、小生の好奇心からではない。否、それもごく少々含まれるんだが、大半は恋を患った少年を心配するがゆえのものだと思ってくれ」
「嘘をつけえ!」
あまりに奔放な男に不満を溜めていた唯助は、思わず大きな声で文句を言った。
三
唯助が目を覚ましたのはまだ日も昇っておらず、少しだけ空が明るんでいる、そんな時分だった。春眠暁を覚えずというが、唯助の一日は暁を拝むことから始まる。それはまだ少し肌寒く、布団の中が心地いい四月でも変わらない。唯助はいつもと違う目覚めの風景に目を擦り、あたりをゆるりと見回した。
(ああ、そうか。泊まりだった)
夜明け前の冷たい空気が、霞のように覚束ない唯助の頭を覚醒へと導く。唯助はむくりと起き上がって、好き勝手あっちゃこっちゃに散らばった珍しい茶髪を散切りよりも時代遅れな、否、時代に逆らうかのような総髪に結い上げた。萌木色の着物に袖を通して、しんと静まり返った家の階段を足音ひとつ立てずに下りていく。井戸を借りて顔を洗い終える頃には、唯助の頭はすっかり冴えていた。
唯助はふと、昨晩のことを思い出し、本当にえらい目に遭った――とため息をついた。
この店の主たる男はあの後、宣言通り唯助を離すことなく、恋だの愛だのを語らせまくった。お年頃の唯助としては恥ずかしさで泣きたくなるほど、それこそ拷問にも等しい行為だった。
やっと男から解放されたからさあ帰ろうと思ったその時に、今度は娘が夕餉を運んできた。男の拘束から一刻も早く逃れたかった唯助だが、娘の桜のような柔和な笑みと好意は無下にできなかった。
まんまと美味い飯を食わされた唯助はそれでも諦めず、これ以上世話になるわけにはいかないからと理由をつけて、さあ帰ろう、と二人の目を盗み、台所脇の勝手口からそうっと出ていこうとした。
そこで、奇妙なことが起きたのである――
「やめておけ、少年。今宵は外に出ない方がいい」
こっそり開けた勝手口の硝子戸は、背後から声が聞こえると同時に、ぴしゃんと閉まったのである。取っ手にかかった唯助の指に逆らうように。これには唯助も「ひぇっ」と声を上げて驚いた。
「ぎゃーーーッ‼ ごめんなさいごめんなさいごめんなさい‼」
青ざめた唯助は動転し、固く閉じられた戸をなんとかこじ開けようとするが、いくら体重をかけてもびくともしない。そんな彼に追い打ちをかけるように、背後からくすくすと不気味な笑い声が聞こえてくる。こんな時、わざわざ振り返らなければいいものを、やってしまうのが、あらゆる怪談のお約束である。唯助もまた、おそるおそる振り返った。
「でッ、出たぁああああああッ‼」
唯助が声を裏返して叫ぶのもむべなるかな。彼が振り返ったその先には、薄気味悪い妖怪のような面をした、もさもさ頭の男が立っていたのだ。しかも男の立っている位置は、どんなに手を伸ばしても硝子戸の取っ手には絶対に届かないところだ。ならば。ならば誰が戸を閉めて唯助を閉じ込めているというのか。不可解な現象に気づいてしまった唯助の恐怖は、さらに加速した。
「やだやだやだ助けて‼ 幽霊だけは駄目なんだよ、おれぇぇ‼」
「失敬な! 人を幽霊呼ばわりするんじゃない」
いいから落ち着きなさい、と言いながら、どう見ても妖怪にしか見えない男が唯助の頭を引っぱたいた。
「あのなあ、少年。小生は少年のために言っているのだぞ?」
「ふぇ……?」
引っぱたかれた痛みが本物であることに気づいた唯助は、少しだけ冷静さを取り戻し、男の顔をまじまじと見る。薄気味悪い妖怪かと思われたそれは、どうやら生きた人間のものであるらしい。
「この町の夜は少しばかり物騒になることがあるのだ。この町にはね、夜闇に紛れて蠢くものがあるのだよ。だから今宵は泊まっていきなさい。確実に事なきを得たいのであればな」
今の唯助にとっては外の夜闇よりなにより、目の前にいる男のほうが数倍恐ろしかった。男は硝子戸からかなり距離をとっていたはずなのに、なぜ硝子戸が閉まり、開かなくなってしまったのかが分からないのだから。この男が何かをしたのか、あるいは何かが唯助をここから出すまいとしたのか――今ほど起きたことが非常に不可解なだけに、唯助は恐ろしくてたまらなかった。
男は怯える唯助を気遣ってか、こんなふうに言葉をかけたのだった。
「安心しろ。小生も、妻も、君をとって食ったりはしない。だがもしもの、君がこの家で寝泊まりする中で身の危険を感じた時のために、石でも金槌でも文鎮でも一つ持っていくといい。気休めくらいにはなるだろうさ」
あんなのもう思い出すまい、と唯助は記憶を振り払うように首をぶんぶん振る。今日こそは上手いことあの男から逃げなければ。唯助は気を取り直して居間へ向かった。
「おはようございまッ」
そして居間で繰り広げられていた光景に目を剥いた。同時に、そこにいた娘――いや、昨日の男の言葉や態度から察するに、男の妻のようだ――も「ひゃっ」と悲鳴を上げる。動じなかったのはただ一人、蛇の腹のようになまっ白い肌の、唯助よりも酷い癖毛で目を隠した、二十代半ばらしき男だけである。
「おお、少年。目覚めが早いな。感心感心」
「な、な、な」
お年頃の唯助は頬を真っ赤に染めて震えていた。それもそのはず、男は妻と、こんな時分から、この爽やかな春暁の中で、熱烈に口を吸い合っていたのである。泊まりの客がそんな光景を目撃し固まっていて、妻もそれに驚いて固まっていて、男だけが臆面もなく妻の腰を抱きしめていた。
「そんなに驚くかい? 夫婦が口を吸い合う光景なんてよくあるだろう」
あっけらかんと笑っているこの男の字引きに、恥じらいという言葉はないのだろうか。人並みの羞恥心があれば、口吸いの場面で突然人が乱入してくる事態に驚かずにはいられないはずなのだが。男は昨日吸っていた紙巻き煙草と妻の唇は同じだとでも言わんばかりに、平然としていた。
「あの、みや様! そろそろご飯が炊ける頃合いですし、唯助さんも起きられたようですから、朝餉の準備をしてまいりますね」
妻が男の腕をのけて、台所の奥へ逃げ込む。男は「あ」と去っていく彼女を引き止めようとするが、伸ばした手が空を切ると、とても残念そうに唇でへの字を作った。
「あーあ、少年がもう少し遅く起きてくれば、満足するまで吸えたのに。残念残念」
「それはおれのせいじゃねえだろ」
そういう話を客前でするものではなかろうに、と唯助は嘆息した。
台所から味噌汁の匂いが立ち、それから少しして、
「お待ちどおさまです」
と、妻が漆塗りの盆を手に現れる。大盛り二つと小盛が一つの白飯、味噌汁の椀といくつかの小鉢が盆の中に座っていた。
「言ってくれれば運んだものを」
男はそう言いながら、盆から大きさの違う茶碗を一つずつ引き取り、唯助と妻の前にある箱膳へそれぞれ置いた。人前ではあれだけ無神経なくせに、伴侶に対する気遣いはあるのか、と唯助はその手際を見てぼんやり思った。
「ほお、鯡漬けか」
「先日、朝市で身欠き鯡が手に入りましたので。魚屋の川原さんがお勧めしてくださったの」
「なるほど、春告魚か。春に相応しいものを勧めてもらったんだね」
「ええ。湯も用意がありますから、梅干しと合わせてお茶漬けもできますよ。こちらの数の子の和え物は、川原さんの奥さんが教えてくださって――」
目の前に美味そうな料理を置かれて、その匂いを吸っているだけで腹の虫が鳴りそうだというのに、二人の会話まで美味そうだったから、唯助は口に唾が溜まるのを感じた。
「少年、先に食べるといい。せっかくの飯が冷めてしまうよ」
「いえ、まだ大丈夫ですよ。旦那の方こそ、先に食べないんですか?」
「食べないよ。作り手の嫁が座ってもいないのに手をつけるのは失礼だろう」
「もう、お二人とも気にしないで召し上がってくださればいいのに」
先を譲り合う二人に笑いかけつつ、支度を全て終えた妻が自分の膳の前に腰を下ろす。
「さて、ではいただこうか」
男が手を合わせ、妻も「はい、みや様」と続いて手を合わせたので、唯助もそれに倣う。男と妻が白飯に箸をつけたところで、唯助はようやく料理に手を出した。
この大昌の世では一家の大黒柱たる父、あるいは夫が先に料理に箸をつけ、それに続いて他の者が順番に箸をつけるのが慣わしである。場合によっては客人に先に食べさせることもある。しかし、女性が先に箸をつけることはほとんどない。女性は男の後に飯を食べはじめるというのが、男尊女卑的な大昌の世の風習であった。
しかし、ここでは珍しいことに、男も女も等しく手を合わせて、同時に手をつけた。傍から見ていた唯助のみならず、よその者なら誰もが変わっていると感じる光景であろう。
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